2012年 07月 22日
雨降りの高知から。日隅一雄さんのこと
この時間帯、東京では先だって亡くなられた弁護士・日隅一雄さんのしのぶ会が始まろうとしている。案内には正午開始とある。昨日になって、出席キャンセルの連絡を事務の方に出させてもらった。
旭地区ではきょうの午後、小さな集まりがある。古い住宅街を区画整理事業によって一気にきれいにしてしまおうという計画が今年秋に正式決定しそうなのだが、お年寄りたちが「市役所はちっとも声を聞いてくれない」と声を上げているのだ。市役所の担当者を招いての集まりが、きょうの午後にある。全国的な視野からすれば、あるいは東京(=中央)から見れば、別にどうということはない、取るに足りない集まりである。でも、旭地区では今年5月、死後2年間も放置されていた高齢者が白骨遺体で見つかった。ほかにも似たような事例がある。そのお年寄りたちや地域の人たちが「何百億円もつぎ込むより、住民のためにほかにやることがあるのではないか」と言っている。そういった声を聞きに行く。だから、日隅さんのしのぶ会は欠席させてもらったけれど、彼なら「そりゃ、そっちへ行かなきゃ。そっちがずっと大事だよ」と言ってくれると思う。
手元の記録を見たら、日隅さんと最初に会ったのは、2005年8月だ。東京の弁護士会館だった。「メディア関係の勉強会をやりたいので講師をやってくれませんか」と言われ、引き受けた。夏休み期間中だったこともあって、受講者は日隅さんを含め、2、3人だったと思う。
その後、長い付き合いが続いた。
2010年に「記者会見・記者室開放の会」を立ち上げ、あれこれの動きを始めたときも、支えてくれたのは日隅さんである。彼のすごいところは、それが「応援するよ」といった、抽象的なレベルに止まらないことだ。会見開放の会では、呼び掛け文の添削や法的立場からのコメントをくれたり、文書・資料の整理といった実務的なことを担ってくれたり。物事を動かすときは、「実務」がキーになる。理想は大事だけれど、具体論と実践を欠いた理想論は酒場談義でしかない。
今年2月末には、NPJ編集長としての日隅さんの「連続対談企画」に招いてもらい、東京・神田の岩波セミナールームで対談した。その記録はWEB上に残っている。時々見直しているけれど、一連の対談は、日隅さんの考え方、熱意、人柄、それら全てが凝縮されていると思う。その後、3月に東京で行われた日隅さんの出版記念会では、大勢の人でごった返す中、耳元で「高知新聞社に行くことにしました。やっぱり地方です」ということを伝えた。「良かった。ネットワークをつくっていくことでしか、集権には対抗できないから」と応じてくれた。
日隅さんのメディア批判には、改革への志向が明確にあった。戦略も戦術もあった。マスコミ批判を強めることで非マスコミの相対的優位を図るとか、そんな発想は毛頭なかったし、どうやったら「報道界の壁を崩し、互いに有意に切磋琢磨できるか」を考えていた。2005年から2010年にかけて、日隅さんと交わした話はそんなことばかりだったし、メールにも一時、「新たな調査報道機関はできないか」という文字が並んでいた。
そういった諸々の最初になった2005年8月の弁護士会館での勉強会。その際のレジュメが残っている。読み返してみると、あのころも同じことを言っている。日隅さんも、この雨降りの、どこかそこらへんの空で、同じことを言っているんだと思う。
(レジュメ。その抜粋)
*メディア内の組織上の問題
;強まる自己保身、「面倒は起こしたくない」という風潮
;結果として組織が官僚化
*取材力の低下
;作業量が飛躍的に増大→深く考えることの意欲低下
;記者クラブに座り続ける日常→外の意見や関係者との接触が不足
*センセーショナリズムへの傾斜
;狭い世界で日常を過ごしているため、何か異常事態があると、らせん状にのめりこんでいく。
;自分で判断できない→他社への追随→「激しさ」での勝負
;溺れかけた犬はたたく
*権力監視機能を回復する手立て
:正当な競争の復権
;記者クラブの事実上の全面解放
;読者・市民からの正当な評価。積極的な評価。目に見える形で。
;メディアの現場でのヨコのつながりの強化。個人レベルで
;「ダメだ」では前に進まない。具体論、実践論、実務を
旭地区では正午になると、街全体に毎日サイレンが鳴り響く。
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by masayuki_100
| 2012-07-22 12:40
2012年 06月 26日
「調査報道セミナー 2012夏」のご案内
しかし、調査報道をやれ・やろうと掛け声をかけても、「ではどうするのか」という方法論、具体論は必ずしも明らかではない。ふつうの取材と何が違うのか、同じなのか。何か特別な方法があるのか、ないのか。テーマはどうやって設定するのか、端緒はどこに転がっているのか。こうした疑問を数え上げると、それが尽きることはあるまい。

「調査報道が大事というのは十分に理解できた。これからは具体論、実践論、方法論だ」ということで、今年春、東京で「調査報道セミナー 2012春」を開いた。私を含む何人かが言い出しっぺとなり、「取りあえず開催しよう」と開いた催しである。幸い、岩波セミナーホールは満席になり、夜の懇親会でも話が尽きることは無かった。
その続編、「調査報道セミナー 2012夏」が7月14日(土)午後、東京で開かれる。この試みは「取材ノウハウの共有化」が狙いの一つだ。取材方法は多種多様、千差万別。取材対象や態様によっても異なる。それでも、どこかしらに「共有可能なノウハウ」はあるのではないか、と感じている。報道は社会の公器という以上、そのノウハウも公器たる部分を含むはずである。
ぜひ、多くの方に参加してもらい、あれこれの議論を尽くしてもらうことができたら、と思う。セミナーは今後、秋、冬と順々に開きたいと考えているし、場所も東京ばかりでなく関西や地方にも広げたいと感じている。
以下は、案内文です。
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「調査報道セミナー 2012夏」
「公開情報をどう使うか。公開情報の裏をどう探るか」
ジャーナリズムの信頼回復が急務といわれる。そのカギを握る「調査報道」。それをどう実践するか。今春開催した「調査報道セミナー2012春」に続き2回目を開く。 今回は情報公開制度をどう駆使するか、入手した公開情報をどう読み解くかに焦点を絞る。
◇7月14日(土) 午後1時30分から4時30分
◇明治大学(駿河台キャンパス)リバティータワー2階・1021教室
(東京都千代田区神田駿河台1-1 JR御茶ノ水駅近く)
◇参加費1000円
◇報告①NPO法人情報公開クリアリングハウス理事長・三木由希子さん
(三木さん略歴)1996年横浜市立大卒。同年2月より情報公開法を求める市民運動事務局スタッフ。99年のNPO法人情報公開クリアリングハウスの設立とともに室長となり、07年から理事。情報公開・個人情報保護制度に関する調査研究、政策提案、意見表明を行うほか、市民の制度利用などをサポートしている。
◇報告②毎日新聞記者・大治朋子さん
(大治さん略歴)89年毎日新聞入社。阪神、横浜支局や週刊誌「サンデー毎日」などを経て東京本社社会部記者。06〜10年、ワシントン特派員として米大統領選を担当。米国の対テロ戦争を描く「テロとの戦いと米国」、メディアの盛衰を描く「ネット時代のメディアウォーズ」を連載。10年度ボーン・上田記念国際記者賞を受賞。
◇ 討論進行 共同通信編集委員・石山永一郎さん
(石山さん略歴)共同通信マニラ支局、ワシントン支局などを経て現職。近年は安全保障と在日
米軍基地問題を中心に取材。2011年、米国務省日本部長による日本と沖縄への差別発言報道で平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞。著書に「彼らは戦場に行った ルポ新・戦争と平和」など。
◇主催:セミナー実行委員会
(アジア記者クラブ、現代史研究会、日本ジャーナリスト会議、平和・協同ジャーナリスト基金、有志) 連絡先 apc@cup.com(アジア記者クラブ)
◇事前の予約は不要です!
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by masayuki_100
| 2012-06-26 22:08
| ■2011年7月~
2012年 05月 02日
高知へ来て1ヶ月になりました
「久々の高知はどうですか」とよく聞かれる。いや、そんな標準語で聞かれはしない。「久々にもんてきて、おまん、高知はどうぜよ」という感じである。一番変わったのは、周辺部だ。交通量の多い道路が市街地の周辺・近隣を縦横に走り、ロードサイド店が林立している。パチンコ店もやたらに増えたように思う。半面、帯屋町や大橋通商店街といった市内中心部は、めっきり寂れた。まあ、有り体に言えば、全国のどこでも起きている「市街地空洞化」である。中心街を歩いていると、「高齢者ばかりだ」と感じるが、それでも一大ショッピングセンターのイオン高知へ行くと、「こんなに若者がいたのか」と思ってしまう。
「高知新聞はどうですか」とも聞かれる。まだまだ仕事の流れを覚えている最中だし、社内の人の顔と名前もまだまだ覚えきれない。でも、毎日楽しい。高知での人脈はゼロに近いが、そのぶん、会う人会う人、新鮮だ。社会部の記者はそれぞれに個性的で、あれこれ話しているだけで楽しい。そして、今さらながら、つくづくと思うのだけれど、人の話を聞いて、世の中の何かに疑問を持って、また人の話を聞いて、あるいは、いま目にしたものが気になって調べて、また人の話を聞いて・・・という取材の動作は、どの新聞社にいても同じである。新聞社にいなくても、取材者であれば同じである。何を書くか書かないか。何をどう取材するかしないか。そういった所作は、古今東西(おそらく一部の国を除いて)、どこも同じである。
だったら、自分がこれまでそうしてきたように、これからも丹念に取材を繰り返していくだけである。「事実を積み重ねる」ことの愚直さと重大さを(自分も先輩からそうしてきてもらったように)、若い後輩たちに伝えていくだけある。取材者としての情熱とスキル、そして見識。それが備わっていれば、この先、媒体としてのメディアがどんな形に変容していっても、取材者としての個人は、そうあたふたすることはあるまい。逆に言えば、この基本的な事柄が備わっていないと、取材者の足元はどこかふわふわとして、頼りない。その足に、長い山道を登らせるのは非常な困難が伴うだろう。まずは基本、である。
この間、河北新報の販売会社、河北仙販の「今だけ委員長さん」と高知でお会いした。前回会ったのは、八戸で開かれた新聞労連の東北地連の催しで、だったと思う。東日本大震災のほんの数週間前のことだ。講師として招かれ、新聞と報道の将来について思うことをあれこれと喋った。しかし、久々にお会いした「今だけ委員長」さんの話を聞いていると、あの八戸で語ったこと事柄がいかにも牧歌的に思えてしまう。報道のありようとか、ジャーナリズムの将来とか、そういう事柄を現場の人間が語るときは、たぶん、「いま、どうするか」なのだ。将来像をあれこれ語るもよし。それも必要だ。そしてそれと同時に、一番大事なのは、目の前に転がる数多の事象を目の前にして、「さあ、どう報じるか」なのだ、と思う。
・・・というわけで、そんな基本的な、「キホンのキ」のようなことをあれこれ思い巡らせながら、私は元気いっぱいで日々を過ごしている。52歳の誕生日も過ぎたけれど、まだまだ走りたい。で、もしこれを読んでいる方と高知のどこかでお会いしたら、その際はどうぞよろしく、です。
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by masayuki_100
| 2012-05-02 00:03
2012年 04月 01日
雪の札幌から桜の高知へ
すでに明らかにしているように、この4月から高知新聞で記者として働くことになった。所属は社会部である。「どの組織にいても、組織にいてもいなくても、取材という行為は同じ」とは思う。そうは言っても、前の勤務先と比べると、おそらくは社風も仕事の進め方も細かな決めごとも、何から何まで違うと思う。52歳の誕生日を目前にして、ゼロからの出発だ。不安もある。楽しみもある。年は取っているけれど、「熱」は失っていないつもりだ。一年生記者として走り回り、少しでも良い記事を世に送り出せるよう、力を尽くしたいと思う。
また過日、3月28日の夜には、札幌の紀伊國屋書店で「真実 新聞が警察に跪いた日」(柏書房)の出版を記念したトークイベントがあった。このブログでも本の内容、紹介を詳しく記そうかと思っていたが、イベントの模様は「市民の目フォーラム北海道」の動画でアップされているし、紹介はそれをもって代えさせてもらいたいと思う。「北海道警察vs北海道新聞」についての、私なりの総括である。いろいろな不備は承知のうえだが、一連の問題の総括を世に問う必要はあったと感じている。(なお、この書籍の初版の一部について、元北海道警察の総務部長、佐々木友善氏の「名前の読み」が誤記されています。校了後に生じた、実務的なミスです。訂正文は書籍に挟み込んでいるほか、柏書房のHPにも掲載されていますが、佐々木氏および読者の方々、関係者の皆様にこの場でもおわびします。申し訳ありませんでした)。
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by masayuki_100
| 2012-04-01 15:43
| ■2011年7月~
2012年 03月 17日
4月から高知新聞記者になります
高知市は私が高校生のときまで住んでいた。高校卒業からすでに30年以上が過ぎている。街は変わったところもあるし、変わらぬところもある。私の実家は高知城から西へ3−4キロほど離れた旭地区にある。坂本龍馬の生誕地へもぶらぶら歩いて行ける。その街の様子は以前、英国ニュースダイジェストという、英国の邦人向けフリーペーパーに書いたことがある(木を見て森もみる 第44回「きょうは安心して眠りましょう」)。これを書いてから、またさらに年月が過ぎた。なにせ、この4月には52歳である。そんな年齢が自分に訪れようとは、ほんの数年まえ、50歳に到達するまでは実感したこともなかった。
幸いなことに、高知の実家では、父も母も健在だ。かつて国鉄職員だった父のことは、これも英国ニュースダイジェストに書いたことがある(「あの日、小さな駅で」)。母のことも、同じフリーペーパーに書いた(「クジラで母を泣かせた日」)。2人も年を取った。優に80歳を超え、それでも2人だけで、あの古い町で暮らしている。昔ながらの知り合いに囲まれて、夜は早めに眠って、朝は少しだけ散歩して、時々は高齢者のサークル活動などに顔を出しながら、である。
おととし、「日本の現場 地方紙で読む」という本を編纂した際、その「はじめに」において、ずいぶんと「地方」にこだわったことを書いた。その内容はこのブログでも紹介したが、結局、ああいうことなのだろうと思う。私の取材者としての原点は、ああいう部分にあるのだろうと思う。
取材そのものは常に地道で、小さな石を積み重ねるような作業の連続だ。権力と対峙するような調査報道であれ、心が芯から温もるような原稿であれ、取材の本質は同じである。前の会社を辞めてまだ1年足らずだが、この間、あちこちで言いたいこと、書きたいことをあれこれと手掛けてきた。そういった場で表明した方向性は何ら変わらない。目指すべきものは捨てない。しかし、郷里に戻って年老いた両親と暮らしながら、地道な取材の現場に戻り、そして、もろもろのことを目指す、というのも悪くないことだと考えている。何より取材は楽しい。地方の取材は相当に楽しい。
琉球新報の元論説委員長で、いまは沖縄国際大学教授の前泊博盛さんが、「権力vs調査報道」という本の中で、こんなことを言っている。地球はどこから掘っても、掘ることをやめない限りは、いつかはマントルに行き着く。富士山はどこから登っても、登ることを止めなければ、いつかはてっぺんに行き着く。登山口をどうするかの違いはあっても、いつかは山頂に辿り着く、と。私にもそういう事を信じている部分があって、だから北海道にいても東京であっても高知でも、目指すものの本質は何も変わることがない。
北海道新聞社と北海道警察の間にあった、この10年近くの出来事。それは「真実」というタイトルで1冊にまとめた。永田浩三さんの「NHK 鉄の沈黙は誰のために」を出版したのと同じ、柏書房からの出版である。「道新vs道警」の問題については、この書物で一区切りつけることになる。自分なりの総括である。これについては、また別の形で報告させてもらうことになると思う。
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by masayuki_100
| 2012-03-17 10:43
| ■2011年7月~