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ニュースの現場で考えること

それでも「親の顔」は必要ない

昨日のエントリ「親は出なくていいよ」に対して、「ある編集者の気になるノート」さんからトラックバックをもらいました。私のエントリは以下の内容でした。

歌舞伎俳優の中村七之助容疑者を逮捕 警官殴った疑いで
 
七之助容疑者(21)が逮捕され、それが報道された。そこまでは良い。でも、なぜ、父親が出てきて会見して、謝罪するのか? 未成年でもないし、全くの別人格。もう、こういった「親が出て来い」「親の顔が見たい」式の会見を求めたり、開いたりするのは、やめた方がいいと思うけど。


これに関して、「ある編集者の・・・」さんは、親の顔が、見たいんだ。というエントリを立てています。要約すれば、「そう言っても親の顔を見たい、という欲望は誰にでもある。だからメディアは東奔西走するのだ」といった趣旨になっています。

ひとことで感想を言えば、私自身はすごく違和感を感じました。第1に「親の顔を見に行き、マイクを突きつける」ような取材は、たいていが「逮捕」の段階で行われるのですが、「逮捕」はあくまでも「容疑」でしかありません。どんな犯罪であれ、日本が法治国家であり、刑事訴訟法が厳然とある以上、「有罪」が裁判で確定するまでは、どんな容疑者も推定無罪です。本人が容疑を認めていようがいまいが、法律上は有罪でも何でもありません。それが法治国家というものです。




ですから、当たり前の話ですが、有罪確定前に、容疑者本人をさらしものにする行為は、「私刑=リンチ」と言われても仕方ないのではないでしょうか?よく、刑事事件の判決で「被告はすでに社会的制裁を受けており・・・云々」というくだりが出てきますが、これなどはマスコミによる「私刑」の結果だと言っても過言ではないでしょう。だから、極端な話を言えば、例えば、長崎の事件で国務大臣が「親の顔をみたい」「市中引き回しだ」といったことを平然と言える土壌を生んでいるのではないでしょうか。

こうしたことを考えると、容疑者の「親」や「親類」等は、なおさら、好奇の目にさらされるのは、いかがなものかと思うのです。それに(少し焦点はずれますが)、「少年も大人と同じだ。少年犯罪にも厳罰を」と主張する人々が、同じ口で「親も出て来い」「親の責任はどうなってるのだ」なんて言うのを耳にすると、私は「ほんと適当だな」と思わずにいられません。

罪を犯した人の親の責任がゼロだとは思いません。子供が成人して犯した罪に対しても、親は被害者やその周辺に対しては、道徳的責任を持つと思います。そうやって、社会の秩序が保たれる部分も間違いなくあります。しかし、それは「被害者やその周辺」、あるいは当事者たちが生きてきた生活空間に対しての道徳責任であって、見ず知らずの、遠くでテレビや新聞を見たり読んだりしているだけの人に対しての責任ではありません。ましてや、ペンやカメラを持った人たちに対して、「親」たちが直接、何かの責任を持っているとは思えません。

そういうときに「好奇心」を押し立てて、「国民が知りたがっている」とか何とか言って、押しかけていく。やはり、それは違うのではないでしょうか?(1月14日のエントリ「マスメディアの説明責任」の後段を参照ください)

「ある編集者の・・・」さんは、エントリでこう書かれています。

>が、いままでの話に矛盾するようだが、(僕を含めて)大衆は「親の顔が見たい」生き物だと僕は思う。

>東に子供を殺された親がいれば会いに行き、西に子供が事件を起こした親がいればマイクを突きつける。いまとなっては、当事者には会えないが、当事者に一番近い人間を眺め、声を聞くことはできる。それ知りたさに、人は新聞を読み、TVにかじりつく。
親の顔が見たいんだ。
それもまた、人間の欲望である。
だから、許されると言いたいのではない。
ただ、そういう欲望が、まぎれもなく存在するというだけだ。


もちろん、そういう欲望は存在すると思う。しかし、「大衆」すべてがそうである、と言い切るのは根拠がないし、「大衆」を愚弄しているように思えて仕方がありません。必要なのは、その時々で、事件のありようをどう判断し、取材現場でどう自制を働かせるかにある、と思うのですが。いかがでしょうか。
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by masayuki_100 | 2005-02-01 10:31 | ■事件報道のあり方全般