2005年 02月 01日
「客観」を装うな
シバレイ」さんのブログがあります。やはり現場を回っている人は違うな、いろんなものを見ているだけあって同じような言葉でも、その重さが違うなと、いつも感じ入っていました。
シバさんのブログの1月17日のエントリに「【転載】VAWW-NETジャパンプレスリリース「安倍晋三氏の事実歪曲発言について」 という文章があります。そのコメント欄にシバさん自身の書き込みがあって、こう記されていました。(以下引用、一部抜粋)
Commented by rei_shiva at 2005-01-27 12:41
で、朝日の先入観云々ということですが、そろそろ私達はメディアが絶対に「不偏不党・中立」であるという幻想は捨てるべきでしょう。勿論、各記者はいろいろな角度からものを見て、事実とは何かを追求する努力を怠るべきではないですが、記者にも主観がありますから、その時点である程度色はついている訳です。
また「何が偏っているか」という問題は、書き手だけではなく、受け手の主義・思想、感性やその問題への認識の仕方というものに大きく左右されると思います。朝日新聞は、ある立場の人々からは偏っていると思われていますが、逆の立場の人々からは、読売新聞や産経新聞も偏っていると思われているのです。
しごく当然の、真っ当な見方だと思います。ただし、そこにはいくつかの問題が潜んでいます。
本気で書き始めれば長くなるので簡略に記しますが、ひとつは純粋な真の意味での「客観報道」など有り得ないのに、日本の多くのメディアはそれが存在するかのようなスタイルで報道を続けてきたこと、ではないでしょうか。(以前のエントリ「ソースの明示」「ナカムラさんより 『1月23日の記事』について」もご参考に)
単純に誰かの発言を伝えたり、あるいは目の前の出来事を報じたり、そういったことだけしか実行していなくても、新聞のスペースや放送の時間に限りがある以上、「取捨選択」という「主観」が入る。そんなことは当たり前です。しかし、そういった「主観」を覆い隠し、いかにも「客観」であるかのような衣をまとい、そして「中立・公正ですよ」といい続けてきた。それが、今のメディア不信の根っこにあると思います。
もうひとつの病巣は、メディアを内部から蝕む「事なかれ主義」です。特定の団体や大声を挙げる勢力には毅然とした態度を取れず、「なあなあ」で済ませてきた部分が間違いなくあります。面倒を回避していく、のです。たぶん、そのあたりの心理は、「無責任主義」の代名詞のように言われてきた「役所」と、そう変わりはありません。
そして、「これを報じれば○○団体がウルサイからやめよう」「ここまで踏み込むと書きすぎだって、絶対あとで問題になるぞ」といった事なかれ主義が、いろんなところに巣食ってしまったのではないでしょうか。さらに。ここが最大の問題なのですが、おそらく、「事なかれ主義」がバレることを結果的に防いできたのが、この「客観であるかのような報道」だったと私は思っています。自分の意見・主観に基づく原稿を客観性を装って書く。そうした行為は、もう古びてしまってどうしようもないし、受け手の批評に耐えられないでしょう。
私は常々、権力監視こそがメディアの最大の役割だと言いつづけています(私の言う権力監視は「評論」ではなく、「事実の積み重ねによって疑義を唱える」という意味です)。ネットにはあらゆる情報が流れていますが、しかし、情報を隠したがる人(権力)が本気で隠そうとする情報は、そんなに簡単に表に出てくるわけではありません。膨大な時間と綿密な取材等が必要になる。吹けば飛ぶような「批判記事」ではなくて、そういった「事実の積み重ね」に基づく報道=「意志ある原稿」こそが、将来は必要になってくるのではないかと、考えています。
私のお気に入りの一つに「シバさんのブログの1月17日のエントリに「【転載】VAWW-NETジャパンプレスリリース「安倍晋三氏の事実歪曲発言について」 という文章があります。そのコメント欄にシバさん自身の書き込みがあって、こう記されていました。(以下引用、一部抜粋)
Commented by rei_shiva at 2005-01-27 12:41
で、朝日の先入観云々ということですが、そろそろ私達はメディアが絶対に「不偏不党・中立」であるという幻想は捨てるべきでしょう。勿論、各記者はいろいろな角度からものを見て、事実とは何かを追求する努力を怠るべきではないですが、記者にも主観がありますから、その時点である程度色はついている訳です。
また「何が偏っているか」という問題は、書き手だけではなく、受け手の主義・思想、感性やその問題への認識の仕方というものに大きく左右されると思います。朝日新聞は、ある立場の人々からは偏っていると思われていますが、逆の立場の人々からは、読売新聞や産経新聞も偏っていると思われているのです。
しごく当然の、真っ当な見方だと思います。ただし、そこにはいくつかの問題が潜んでいます。
本気で書き始めれば長くなるので簡略に記しますが、ひとつは純粋な真の意味での「客観報道」など有り得ないのに、日本の多くのメディアはそれが存在するかのようなスタイルで報道を続けてきたこと、ではないでしょうか。(以前のエントリ「ソースの明示」「ナカムラさんより 『1月23日の記事』について」もご参考に)
単純に誰かの発言を伝えたり、あるいは目の前の出来事を報じたり、そういったことだけしか実行していなくても、新聞のスペースや放送の時間に限りがある以上、「取捨選択」という「主観」が入る。そんなことは当たり前です。しかし、そういった「主観」を覆い隠し、いかにも「客観」であるかのような衣をまとい、そして「中立・公正ですよ」といい続けてきた。それが、今のメディア不信の根っこにあると思います。
もうひとつの病巣は、メディアを内部から蝕む「事なかれ主義」です。特定の団体や大声を挙げる勢力には毅然とした態度を取れず、「なあなあ」で済ませてきた部分が間違いなくあります。面倒を回避していく、のです。たぶん、そのあたりの心理は、「無責任主義」の代名詞のように言われてきた「役所」と、そう変わりはありません。
そして、「これを報じれば○○団体がウルサイからやめよう」「ここまで踏み込むと書きすぎだって、絶対あとで問題になるぞ」といった事なかれ主義が、いろんなところに巣食ってしまったのではないでしょうか。さらに。ここが最大の問題なのですが、おそらく、「事なかれ主義」がバレることを結果的に防いできたのが、この「客観であるかのような報道」だったと私は思っています。自分の意見・主観に基づく原稿を客観性を装って書く。そうした行為は、もう古びてしまってどうしようもないし、受け手の批評に耐えられないでしょう。
私は常々、権力監視こそがメディアの最大の役割だと言いつづけています(私の言う権力監視は「評論」ではなく、「事実の積み重ねによって疑義を唱える」という意味です)。ネットにはあらゆる情報が流れていますが、しかし、情報を隠したがる人(権力)が本気で隠そうとする情報は、そんなに簡単に表に出てくるわけではありません。膨大な時間と綿密な取材等が必要になる。吹けば飛ぶような「批判記事」ではなくて、そういった「事実の積み重ね」に基づく報道=「意志ある原稿」こそが、将来は必要になってくるのではないかと、考えています。

by masayuki_100
| 2005-02-01 02:54
| ■ジャーナリズム一般