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ニュースの現場で考えること

居心地の悪さ

昨年出版された対談本「ブログ・ジャーナリズム 300万人のメディア」の中で、私は「居心地の悪さ」みたいな話をしたことがある。昨年の総選挙では、ブログが一定程度の影響を与えたのではないか、という話が随所で出たが、それに関する意見だった。以下、少し長くなるが、引用したい。

・・・世の中にはブログもネットも使えない、使わない人が大勢いることを再度認識しておくべきでしょうね。例えば、北海道の郡部や私の郷里である高知の山間部などは、本当の田舎がたくさんあります。田舎だからネット環境が存在しないわけではありませんが、高齢者や独居世帯がたくさんある。地域が崩壊しているわけです。北海道の旧産炭地などを訪ねると、歩いているだけで悲しくなるほどですよ。でも、当たり前だけれど、そういう人もそこで懸命に生きていて、社会の一員であって、有権者なわけです。別に田舎に限りません。東京でも建設現場などでは、真夏に汗みどろになって働いている人がたくさんいます。そういう光景を見ていると、私などは「この人たちにクーラーの利いた部屋でネットに向かう時間・余裕はあるのだろうか」と思うわけです。ああ、きょうもいっぱい汗を流したな、風呂はいって一杯やって寝るか、みたいな。そんな人はネットなど省みていないだろうと。ホワイトカラーの人だって、忙しすぎてブログの書き込みを読む時間のない人も大勢いるでしょう。でも、彼ら彼女らだって、政治や社会に対しては、いろいろな考え、言いたいことをたくさん抱えているはずなのですよ。そういったことに思いをめぐらせていると、「ブログが選挙に影響を与えたか」という設問に答えること自体に、何と言うか、居心地の悪さを感じてしまうのですね。

あれから随分と時間がたったが、この思いは当時とほとんど変わっていない。ネット空間では、種々のニュースや情報が真贋織り交ぜて飛び交い、その速度は刻一刻と増している。上に紹介したような「ネットも使えない、使わない」人は、やがて間違いなく減っていく。

そうした出来事は、長い歴史の中では、一瞬のことかもしれない。蒸気機関の発明から鉄道が生まれるまでの期間が、歴史の教科書の中では一瞬であるように。 しかし、その時代の同伴者からすれば、現在進行中の出来事は、ある意味、遅々たる歩みでもある。

ネットとジャーナリズムの関係については、私も種々、このブログや雑誌等で意見を書いてきた。それらを読み返してみると、凡人の例に漏れず、その意見はあっちへこっちへと漂流し、自分自身の腰が定まっていないことを実感する。ただ、「ブログやネットは情報発信の道具に過ぎない」「ブログは何かを議論する、意見する、そういう場面にこそ向いている」といった基本線は、当時も今も変わらない。





繰り返し書いてきたことだが、報道の肝要は「何をどう取材するのか」「何のためにどう書くか」がすべてだ。その発表媒体が、新聞か電波かネットか等々は、二の次だ。地べたを這いずり回って、種々の出来事をつかまえ、おかしいことはおかしいと、事実をもって疑義を唱える。それがすべてだと思う。ツールと内容をごちゃまぜにした議論は、ほとんど意味が無い。「ネットか、既存ジャーナリズムか」という問いかけは、問題の立て方が違っているのだ。準備ブログが立ち上がった日本版オーマイニュースについても、評価の基準は、ネットか否かにあるのではない。この当たり前すぎるほど当たり前の議論が、ひところは随分と混然一体になっていたように思う。

ネットがあれば、多くの人が比較的自由に、手軽に情報は発信できる。しかし、それはある意味、それだけのことだ。大事な情報がどこに埋もれているのか、だれが何を隠そうとしているのか、社会の歪みがどこに生じているのか。そんな種々の事実をどうやって引っ張り出してくるのか。そういった地べたを這いずるような取材活動は、だれかが(もちろんプロで無くともよい)、目的意識を持って継続していかないと、この社会はたぶん、(表面的にはそう映らなくても)宣伝やそれに類する情報ばかりが満ち溢れていくのだ。
by masayuki_100 | 2006-06-17 01:11 | ★ ロンドンから ★