ブログトップ

ニュースの現場で考えること

言論の自由と宅配制度をリンクさせるな

公正取引委員会が新聞の特殊指定見直しを検討している。宅配制度が維持できるか、はたまた崩壊するかの分岐点だとみて、新聞各社は与党・政府などにここぞとばかりの猛アタックを繰り返している。共同通信の特集を見ていると、新聞労連もその輪に加わり、いわば労使一体の運動になったようだ。

規制に守られていた業界にとって、その規制存続は死活問題だ。1960年代の繊維業界から始まって、日本では(もちろん諸外国も一緒)過去、各業種・各企業が「規制を存続させてください運動」「業界を守ってください運動」を繰り広げてきた。誤解を恐れずに言えば、新聞業界が「規制を続けてください、宅配制度を続けさせてください」と言い続けるのは、企業のリクツからすれば、当然のことだ。

むろん、賢い経営者は、「規制で守ってください」と嘆願する一方で、自社の経営体質改善を図り、来るべき自由化時代への備えを着々と進める。で、その備えが整った段階で、「自由化は世の趨勢であります。やむを得ません」と言い出す。そして、蓄えた力を存分に発揮して、弱小企業・体質改善の遅れた企業のマーケットを食い荒らし、自社はますます繁栄していく、、、ものなのだ。まあ、企業社会の歴史というのは、だいたいそうなっていて、新聞業界も例外であるはずがない。

話が少しそれてしまったが、私が言いたかったのは、そんなことではない。すでに多くの人が指摘しているけれど、そのリクツの中に「いくら何でも」と思わせるものが多々潜んでいるからだ。
最たるものは、「新聞販売が自由化されると、宅配制度が維持できなくなり、大企業の寡占がさらに進み、自由な言論が失われる」というものだ。言葉の表現に差異はあるけれど、経営者側も新聞労連側もほぼ同様の主張を繰り返している。しかし、このリクツを聞かされるときほど、情けないものはない。同じ新聞業界に身を置く立場として、ため息しか出て来ない。

日本の今の新聞報道の病気は、簡単に言えば、「当局依存」「発表依存」「調査報道の少なさ」「目線が高い」等々にあると、私は常々語っている。その度合いは、おそらく、1990年代初めごろから次第次第に強まり、2000年ごろから一気に増した。言論の多様化など、どんどんどんどん減ってきた、、、それが実感だ。一方では、事件や事故を過剰なまでにセンセーショナルに扱う傾向が、それこそ画一的におきている。そのへんの「仕組み」みたいな話は過去に何度も書いたので繰り返さない。





で、当たり前の話だが、そういう事態は「宅配制度」の下で起きている。国境無き記者団(本部パリ)という組織があって、その組織ことはよく知らないけれど、そこの評価では、排他的な記者クラブの存在を理由として、日本の順位は相当に低いのだ。そもそも、新聞だけでなく、テレビも雑誌もミニコミもインターネットもラジオも、それこそ種々の媒体が世の中には存在する。

そんな事情をとりあえず全部脇に置き、そして言論の自由・多様性は宅配が支えています、と宣言したって、そりゃないだろ、と多くの人が思うのは当然なのだ。

今の日本の言論の自由(が存在するとして)は、「宅配」によって担保されているのか? 「宅配」が無くなれば、言論の自由も消えるのか? じゃあ、宅配の無い国々(世界のほとんどはない)は言論の自由度が低いのか? 私が今住む英国の新聞は飛ばし記事から何から書き放題だけれども、宅配は事実上無い。新聞協会の会長は今度どっかの国に外遊する際は、相手国の業界長に「おたくの国には宅配が無いのですか? それじゃあ言論の自由度も低いでしょうし、大変ですな」と言った方がいいかもしれない。

私は若いころのほんの一時期だけれど、東京の新聞販売店に住み込み、専従になったことがある。そのことは、だいぶん前にブログにも書いた。おそらく、宅配の現場は当時も今も、ほとんど変化はないだろう。これは私の経験のみから言うことだけれど、宅配の維持とは、今現在の設ける仕組みを維持することでしかない。それは同時に、すさまじい拡張競争や不当な値引き、劣悪な労働環境等々、宅配現場の種々のマイナスの実態を維持することにもつながる。

言論の自由は宅配に支えられているわけではないし、支えられるべきものでもない。そんなヤワなことを言っていると、たぶん、メディアを思い通りに使いたい人たちの思う壺である。
by masayuki_100 | 2006-05-06 22:59 | ★ ロンドンから ★