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ニュースの現場で考えること

事件取材と弁護士

山川草一郎ジャーナルさんが「語り始めた弁護士」というエントリを書かれている。広島の幼女殺害事件で、ペルー人容疑者の弁護士が報道陣の取材に応じたことを前向きに評価する内容だ。

日本の刑事司法制度下では、事件の容疑者に対する接触・接見は相当に制限されている。容疑者が起訴されて、「被告」になれば、最低でも国選弁護人が選ばれる。しかし、起訴前の段階では、弁護士が手弁当で駆けつける「当番弁護士」(ただし、普通は1回しか来ない)か、もしくはお金のある人は私選の弁護士を付けることが可能だ。つまり、刑事司法制度に疎い人やお金の無い人は、逮捕段階(=容疑者段階)では、弁護士なしに最長23日間(逮捕状の効力=2日間、検事拘留=1日間、10日間の拘留延長が2回)の取調べが続くのである。

山川さんも指摘されているが、こうした状況下では、「容疑者の言い分」を取材することは非常な困難を伴う。もちろん、外国の映像で目にするように、留置場の鉄格子超しに容疑者にマイクを向けることなど不可能だ。勢い、「容疑者の言い分」は、警察からの間接情報に頼るしかなくなっていく。幼い子供たちが殺害される最近の痛ましい事件の数々も、「容疑者はこう言っている」の大半は、警察からの情報であり、そして、本当にそう言っているのかどうかを容疑者側に確認する術は事実上、存在しない。

そこに風穴を開けるのが、「容疑者に付いた弁護士」である。先にも書いたように、現在は、容疑者に弁護士を付ける場合は、当番弁護士か私選弁護士しかない。しかし、国の司法制度改革によって、近々(予定は2006年度)、容疑者段階であっても、国選弁護人が付くことになっている。弁護士がいない田舎や離島の警察署で逮捕・拘留されている場合、国選弁護人がその留置場まで駆けつけることができるのか、といった細かな疑問はあるけれど、容疑者段階でも弁護人が付くという仕組みがやっと日本でも登場するのだ。

その仕組みが広範に広がれば、容疑者段階での「警察情報のみに頼った報道」は、少し風向きが変わるかもしれない。やはり間接情報ではあるけれども、容疑者側の言い分を弁護士から取材することが可能になるからである。ただし、そういう取材条件をどう生かすか、は別の問題である。





少し古いが、今年3月、このブログで「広がる警察の匿名発表」という記事を書き、その中で、かつて西日本新聞が手掛けた「容疑者の言い分報道」を紹介した。1993-94年ごろの試みで、いくつかの賞も受賞した意義あるものだった。容疑者と接見した当番弁護士から話を聞き、その話を通常の事件原稿に書き加える手法であり、捜査当局が不当な調べを行っていないか等を監視する目的もあった。ところが、しばらくすると、他メディアもこの取材に参入。そして、当番弁護士から取材した内容を警察側に伝え(もちろん信義に反している)、或いは「容疑者は犯行を認めていない」ことをもって「反省していない」式の報道を行うなどした。そして、結局は、弁護士側との信頼関係が崩れ、事実上雲散霧消してしまった記憶がある。

親しい弁護士と話そしていると、最近、「なぜあんな極悪な人物の弁護をするのか」「弁護士は悪の弁護もするんだな」といった声が増えてきたのだという。そうした声は、オウム真理教による地下鉄サリン事件の際などにも沸騰した記憶がある。しかし、法治国家においては、犯罪被疑者の弁護を法律専門家の弁護士が担うのは、「悪に加担する」のではなくて、その裁きが正統な法手続きによって行われているかどうかを担保するためだ。法を犯した者に対して、法から外れた裁きを行う・求めるのは、法治国家の姿ではない。そういう流れで行けば、どんな凶悪犯についても、判決確定までは「推定無罪」の原理が働くし、その原理に沿って仕事するのが弁護士である。

上に書いたように、容疑者段階で国選弁護人が付くようになったら、確かに、事件報道の構造が変わる「外的条件」は出来てくると思う。で、問題はやはり、その先である。刑事事件の判決では時折、情状酌量の理由として「被告人は既に社会的制裁を受けており・・・」という内容が出てくる。そこで言う「社会的制裁」の一定程度は「報道」である。つまり、報道によって「私的制裁」をすでに受けているのだから・・・というロジックになのだ。

凶悪事件は今も昔もある。それぞれの事件は、凄惨で、言葉に尽くし難いほどにひどい。しかし、メディアは私的制裁機関ではないはずだ。被害者の人権も省みず、被疑者の調べが適正かどうか等にも大きな関心を払わず、ただひたすら、事件はセンセーショナルに扱われるようになってきた。現場で取材する記者個々人の気持ちは、必ずしもそれに組していないと思うけれど、外から見れば、報道全体がひたすら「事件をあおる」方向で走ってきたことは否定できないと思う。「あるべき事件報道の姿」は、なかなか総括的には表現できないが、少なくとも、どこかで舵を切らないと、2006年度から始まる容疑者段階での弁護士取材も、うまく運ばないような感覚を持っている。私自身は、そうした凄惨な事件の紙面は、日経新聞くらいの扱いでちょうど良いのではないかと思っているのだが。
by masayuki_100 | 2005-12-06 12:06 | ■2005 東京発■