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ニュースの現場で考えること

「火事」で目覚めた朝

今朝は、まだ日も昇らぬうちに、凄まじいサイレンの音で目が覚めた。

大型車の排気音、人が走り回る音、ドタンドタンと何かが閉まったり開いたりする音。大声で誰かが叫び、さらに別のサイレンが近づいてくる。何やら悲鳴のような声も聞こえた。しばらくは、布団の中で夢か現実か、ぼんやりと確かめていたが、どうやら現実である。

ハタと我に返るようにして飛び起き、ベランダに出てみると、わずか数十メートル先の民家が激しい炎を噴き上げていた。そうこうしているうちに、また消防車が到着する。このあたりは、狭い道が入り組んでおり、古い民家も密集している。アパートの3階に住む私が見下ろす先では、消防士の方がマンホールを開け、懸命に消火栓とホースを繋いでいる。その間にも、火勢はさらに強まったように感じた。軒を接した隣の家に燃え移るのではないか。そう思っているうちに、また消防車が到着した・・・。

実際にこの目で火事を見たのは、十数年ぶりだと思う。先日、「駆け出し時代のことなど」で私の初任地のことに触れたが、記者に成り立てのころは、とにかく「現場」に行った。事故も海難も事件もあったが、初任地の小樽で一番印象に残っているのは、「火事」である。

街でサイレンの音を聞くと、小樽市消防本部の指令に電話をかけ、場所を聞き、すぐにそこへ走る。消火活動が始まっていないうちに着くこともあったし、消えかけてから着くこともあった。消火活動中にケガをされた消防士も目の当たりにしたし、住んでいた人が遺体になって運ばれる場面にも遭遇した。とにかく小樽は火災が多かった印象がある。ある年の春、中心部の商店街で昼間に7-8軒が燃える大火事があった。その夜、今度はすぐ近隣で、同じくらいの大火事があった。昼間にさんざん火事の取材をした後だったので、夜に消防車が次から次へと走り始めたとき、「まさか、またあそこで?」と思ったものだ。

そういう現場に立ち会うと、消防士の方はすごいな、と思った。炎に包まれた構造物が落下する中、炎の中に飛び込む。人を救助するため、危険を顧みずに作業を続ける。消防士さんたちの訓練も何度か取材したことがあるけれど、まさに命懸けである。「職業に貴賎は無い」と言う。それはその通りかもしれない。しかし、いわゆる「掛け声」だけの世界ではなく、文字通り、本当に命懸けの仕事はある。




駆け出し記者時代、「おたる・交番・24」という連載企画を手掛けたことがある。当時、小樽警察署管内には24ヶ所の派出所・駐在所があって、その「24」に「24時間」を引っ掛けたタイトルだった。連載も文字通り24回に及んだのだが、交番を一つ一つ訪ね歩き、そこで警察官の仕事に触れ、取材の延長で酒を酌み交わしながら種々の話を聞き、「現場の警察官は本当に大変だ」「これを自分にやれと言われたら、とてもできないな」と感じたことを覚えている。

海上保安庁の職員もそうだった。猟師さんとじっくり話を聞いたときは、猟師の仕事も命懸けだと思った。高い工事現場で働く人も、嵐の中で停電復旧に勤しむ人々も、災害出動で危険な現場に向かう自衛隊員も、数百人の命を預かって空を飛ぶパイロットも、とにかくそういう人はこの社会にしっかり根を張って、社会全体を支えている。そういう普通の、しかし、危険を顧みずに働いている人々が持つ誇りに対して、畏敬の念を忘れたくないと思う。NHKの「プロジェクトX」の題材にすらならないような人たちと、その仕事の積み重なりが、最大の社会基盤なのだ。

もちろん、仕事が直接的な危険と背中合わせではなくても、「金のためだけではない」という誇りを持って職務に就いている人たちは、この世に数え切れないほどいる。そうした人々への畏敬を忘れてしまえば、社会は歪を増し、社会道徳は崩壊する。「職業に貴賎はない」と言われるが、仕事とその誇りに対する「視線」は、私に言わせれば、時に大きく歪む。バブルの時代は、汗水流して働く肉体労働が「3K」(きつい、汚い、暗い)と呼ばれて、何となく一段低いもののように喧伝された。

そうした「視線」の歪みは、今は、どうなのだろうか。
by masayuki_100 | 2005-11-30 12:22 | ■2005 東京発■