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ニュースの現場で考えること

駆け出し時代のことなど

相変わらずパタパタと忙しく、夜はいろんな方と連日のように遅くまで飲む日々が続いている。昨夜は文字通り、北は北海道から南は沖縄までの地方紙、それに通信社の方々(主に営業・広告・メディア部門)が集まる会合が東京・丸の内であり、夜は酒席に流れた。昼間の会合できちんと話すのも大事だし、その延長線でわあわあと飲むのも楽しい。

で、その席で、駆け出し記者時代のことが話題になり、当時のいろんなことを思い出した。私が北海道新聞社に入社したのは1986年4月である。もう20年近くも前の話だ。

20日間ほどの研修を終えて赴任地の小樽に1人到着し、上司の方々に挨拶すると、そのうちの1人が「おめえ、挨拶くらいはできるみたいだな」と言う。本当に「おめえ」というのだ。この人はかなり怖いデスクで、私はその後、心の中でひそかに「おめえのデスク」と呼んでいた。

「でな、君の担当は水族館だから。市役所の記者クラブに席は置いてもらうが、担当は水族館だ」。事件事故の修羅場や深層・潜行取材が明日から始まるものと思い込んでいた私は、かなり拍子抜けした。新聞記者に関する本や映画に事前に触れすぎ、想像が膨らみすぎていたのかもしれない。

当時も今も、「おたる水族館」は北海道随一の、そして全国でも指折りの水族館である。でもなあ、水族館かぁ、取材の相手はトドさんやペンギンさんかぁ・・・半ば戸惑い、その後はヒマさえあれば水族館に通う日々が続いた。私にも意地みたいなものがあって、「水族館担当」と言われた以上、これでもかこれでもか、と思うくらい水族館の記事を書いた。内容はもう明確には記憶していないが、「ペンギンの赤ちゃんが生まれた」「ラッコが大人気」「イルカが芸を特訓中」とか、そんな感じである。何しろ、おたる水族館は道内随一の施設なのだ。1種類ずつ取り上げても、数ヶ月は持ちそうな感じである。

もちろん、書いた原稿は次々にボツになる。このデスクはとにかく怖く、厳しい人だった。当時は紙の原稿用紙にペンで書いていたのだが、出来た原稿をデスク席に持っていくと、サーっと見ただけで、デスク席脇の大きなごみ箱にポイされる。「あの、どこが悪いんでしょうか?」と聞くと、「そんなことは自分で考えれ!」。何回かそんなことを繰り返したあとで、ようやく、「やっと分かってきたみたいだな」と言ってくれるのである。

1年くらいたったころ、こんなこともあった。





このデスクから早朝に電話でたたき起こされた。6時前後だったと思う。「タイムス見たか?」。今は廃刊となったが、当時は「北海タイムス」という日刊紙がライバル紙の一つだったのだ。「タイムス見たか? やられてるべ」「いえ、見てません」「見てから電話すれ!」。小樽警察署のすぐ近くに住んでいた私は、大急ぎで署へ行き、当直室に「タイムス見せてください」と駆け込んだ。1面、小樽版、社会面にくまなく目を通す。何も重要な記事は出ていない。で、私は電話をかけなおし、こんなやり取りになった。

「高田です、タイムス、見ました」
「やられてるべ」
「いえ、何も出てませんが」
「タイムスに先を越されたの、分からないのか」
「何も出てません」
「小樽版を見てみろ、その左側に出てるべ」
「??」
「小樽の都通り商店街に雛祭り人形が並び始めた、って。その記事、出てるな?」
「はぁ」
「(ここから大声)おめえ、おれが少し前に言ったろうが。雛人形が店先に出てるから記事にしろ、って。季節ものの記事だからって、適当にやるんじゃねえ。こういうものであっても、先にやられたら悔しいと思わないのか? え、どうなんだ? こういうものでも先に書かれて、それで悔しいと思わなかったら記者じゃねえぞ」

もうとっくに退職されたが、そのデスクからは実に多くのことを教わった。失礼な言い方を承知で言えば、社内的には「出世」と無縁の方だった。とにかく厳しいし、よく怒るのだが、「理不尽」は、全く無かったと思う。「とにかく街を歩け。外に出ろ。記者クラブにこもるな」と言われた。「同僚記者と飲んで楽しいか? どうせ飲むなら街の人、ふつうの人と飲んだ方が何倍も楽しいだろ」「群れるな。記者が群れているのは見苦しいぞ」「小樽みたいな小さな街だと、1日3人は新しい人に会え。それも、会って名刺を出したとき、名刺を返さないような人(名刺を持っていないような人という意味)に会え」。そんなことを繰り返し言われた。

小樽勤務は通算3年半だった。ちょうど小樽運河沿いの遊歩道が整備され、道内屈指の観光都市として小樽が離陸を始めた時期だった。役所や警察の幹部とも会ったし、商業関係者も会ったし、街の人にも数え切れないくらい会った。来る日も来る日も原稿を書き続け、多いときは1日5-6本書いたと思う。職業別電話帳(当時はハローページとは言わなかった)をめくり、「小樽には職人が多いなあ」と気付いて、そういう人たちの生き様を30回の連載にしたこともある。それがきっかけの一つになって、小樽は「職人のまち」として名が知られるようにもなった。そういうことがあると、「ああ、記者をやっていて良かったな」と心底思う。

先日、「記者クラブ制度」問題をテーマにしたシンポジウムが東京であって(内容は日刊ベリタの「アジア記者クラブ通信」に掲載)、その場では「いまの記者クラブ制度はイカン」みたいな、いつも私が主張しているようなことを縷々語った。昨日の東京・丸の内のイベントでも、「紙媒体としての新聞はこのままではダメになるだろう。だからネットを使って、あんなことやこんなことを試してはどうか」みたいな話を繰り返した。

私は、人に会って話を聞き、それを伝えるという仕事自体は、昔も今も本当に楽しい、と思っている。外に出て行けば行くほど、その楽しさは倍増していく。もちろん、報道機関には変えないといけない部分はたくさんあるし、私もそう主張し続けている。しかし、その動力になっているのは「記者の仕事は面白いよ」である。特に地方紙はそうだと思う。読者・市民と記者の距離が近く、双方ともが「土着」だ。その距離感をどう認識し、どうやって取材に生かしていくか。そのあたりが、今後のメディアの有り様の大きなキーワードになっていく。ぼんやりとではあるけれど、ある種、確信を持ってそう考えている。
by masayuki_100 | 2005-11-27 12:13 | ■2005 東京発■