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ニュースの現場で考えること

「司法」はどこまで軽くなるか?

一つ前のエントリ「憲法9条と前文の命運は前首相・森氏の手中に?」と関連する話かもしれない。「圧勝・自民党」の、司法に対する言動のことだ。

大阪高裁が先月末、首相による靖国神社参拝を「政教分離を定めた憲法の禁止する宗教的活動に当たる」として、憲法違反であるとの判断を示した。これに対し、首相や官房長官は「憲法違反だとは思わない」という見解を繰り返し述べている。首相はしかも、判決当日の9月30日、国会で「憲法違反でないとの判決も出ており、裁判所で判断が分かれている」旨を答弁した。この間の経緯は各メディアで大きく報道されたし、靖国参拝の是非を論じたいわけもないので、ここでは繰り返さない。

しかし、どこかの新聞も書いていたが、私の知る限り、「憲法違反ではない」という司法判断は出ていない。「違憲である」との判断はあった。そうした判断を示していない判決は、そもそも憲法判断を回避しているだけであって、少なくとも「違憲ではない=合憲である」という判断は、一つも出ていないのだ。

一方、4日の産経新聞はこう報じている。(以下一部引用)

細田博之官房長官は三日の衆院予算委員会で、「憲法に抵触しているとは考えていない」と述べ、政府はこの判断に拘束されないとの認識を示した。形式上は国側の勝訴とした裁判のあり方については、「上告して争うことができない。(違憲判断は)主文でないので、残念ながら反論を言うことはできない」と強い不快感を表明した。(一部引用終わり)

違憲の判断が「主文」に書かれていないから文句の言いようが無い、卑怯だみたいな言い方に至っては、そもそも日本の裁判の仕組みを知らないのですね、と皮肉の一つも言いたくなる。日本は憲法裁判所がないから、政府等の行為が違憲であるか否かを問うとき、それは損害賠償請求など民事訴訟の形を取らざるを得ない。そもそも「主文」で、憲法判断を示す仕組みになっていないのである。

また、司法の判断が、行政を縛らないとすれば、これは一体、どういうことになるのか。司法の機能の弱さみたいなものは、さんざん言われてきたけれど、日本は三権分立の国である。確かに、靖国参拝を憲法違反だとした部分は、判決の「傍論」で示されているが、司法判断を政府のトップあるいはトップに準じる人々が、これほどまでに軽んじる状態は、どこか尋常ではない、と感じる。

当たり前の話だが、公式参拝を違憲だとした判決は、すべて憲法が禁じた「政教分離」の原則に抵触するからだ、としている。中国や韓国が反発しているから云々の話ではない。だから、「平和を願って参拝することのどこが悪いのか?」という趣旨の小泉発言は、根本からして、反論の見地が違っているのではないかと思う。

各種報道を眺めていると、憲法改正に併せて、首相が参拝できるような文言を憲法に盛り込んだらどうか、といった意見も出始めているようだ。また、上で引用した産経新聞の記事は、末尾を<司法に詳しい別の政府筋は「違憲判断は裁判官のつぶやきみたいなもので、極めて恣意(しい)的だ」と批判している>と結んだ。気に入らないものを「恣意的」と切り捨てる姿勢こそが恣意的だと思うし、そもそも裁判官は憲法・法律と自らの良心にしか縛られないのではないか。

政府要人(国会議員)が司法判断を軽んじ、無視し、半ば小馬鹿にしていく。本当に「司法の判断を無視したい」「問題がある」と感じるのならば、堂々と、当該の裁判官を弾劾裁判にかけてみるべきではないのか。ただし、そのときには、ある意味、弾劾裁判を求めた人々も裁かれる。
by masayuki_100 | 2005-10-04 05:06 | ■2005 東京発■