2005年 08月 27日
Center and Periphery
1週間以上もブログを放ったらかしにしている間に、多くの方からコメントやトラックバックをいただいた。その一つに極東ブログさんの「スティーブン・ヴィンセントが最後に伝えたこと」という記事がある。私の一つ前の短いエントリ「イラクの子供がこんな死に方をするときに」に対して、<このエントリに、「なぜ、即断せず考え続けないのか」と反論したい。なぜ、一人のジャーナリストが命をかけて、ニュースの現場であげた声を聞かず、教条主義に陥ってしまうのかと問いたい。>と書かれている。
重い問いだと思う。私はなかなか答えを見つけられないでいるが、その間に、極東ブログさんのエントリをたどっているうちに、懐かしい名前を見つけた。国際政治学者の高柳先男先生である。極東ブログさんは、高柳先生の著作を紹介し、<[書評]戦争を知るための平和入門(高柳先男)>というエントリを立てている。
「国際政治学を勉強してました」というのも恥ずかしい話だが、私は大学時代、国際政治学を専攻していた。高柳先生は中央大学だが、20数年前の当時は私の母校にも講師として来ていて、私もその講座を取っていた。講座だけでなく、神楽坂で終電近くまで、何度か「ああでもない。こうでもない」と議論したことを覚えている。高柳先生はよく「非対称の世界」という言葉を使っていた。現実を覆い隠す、うわべだけの言葉や概念を嫌い、それらを拭い去って現実を直視することの必要性を盛んに口にしていた。「正義のため」「国のため」「飢えている子供がかわいそうだから」。。。そういった言葉によって、何が隠れているか、あるいは誰が何を隠そうとしているか。それを見極めない限り、紛争の根幹は無くならない、と。当時はまだ、ソ連が平和勢力として日本の一部の人たちに受け入れられていた時代だが、高柳先生は「ソ連=平和勢力」といった発想を断罪し、例えば、ソ連のノーメンクラツーラと呼ばれる特権階級は何をしているかをきちんと見極めよ、と。そんな話を盛んにされていたと思う。もちろん、その対象は日本やアメリカ、欧州各国にも及んでいた。そのエッセンスは、極東ブログさんが「戦争を知るための平和入門」を引用して書かれている。
<地球上の一方でたらふく食っている人間が、チャリティでお金を出すというのも、非対称的すぎるわけです。そのような非対称的な世界を、「人道的」とか「地球市民」とか、きれいごとの言葉で覆い隠していることが多いのです。そういう非対照的な世界を覆い隠すような、きれい事の学問を作ってはだめなのです。>
<人道とか人権をふりまわすと、そのうち手垢がつく。そうすると政治の道具でしかなくなり、人道の名のもと、無告(ママ)の民が犠牲になるということがおこってくる。第三者が大義名分を振りかざして犠牲者を増やすよりも、当事者同士を消耗するまで戦わせる、というリアリズムが必要です。>
高柳先生の発想は、ノルウェーの国際政治学者ヨハン・ガルトゥング(Johan Galtung)氏から大きな影響を受けている。ガルトゥング氏の訳書もあるし、共同の著作もあったように思う。高柳先生の言う「非対称の世界」とは、世界の貧困や不公正の多くは、日米欧中などの先進諸国の連合(連合内に争いがあるにしても)が、その他の貧しい国々を主に経済的に支配していることに原因がある、というものだ。もちろん、単純なマルクス主義者ではないし、経済の下部構造を最重視するわけでもない。むしろ、それぞれの被支配層はなかなか団結できないということを証明した論理のように思える。そのへんは、「Center and Periphery」(世界の中心と周辺)という考え方をもとに体系的に説明されている。もちろん、私みたいな非才が理解できるレベルの話ではない。ガルトゥング氏の大まかな考え方はウエブ上でも読める。ほかにも最近の講演録はウェブ上で簡単に検索できるし、氏の言葉をイラク戦争支持の論拠にした政治家に対し、怒りをぶつけたブログなどもあって、なかなか面白い。
ガルトゥング氏の考えをまとめるのは簡単ではないが、その発想の基礎になった「Center and Periphery」については、簡単に言えば、以下のようなことだろうか。
「生命、人権、教育などが保障された本来あるべき公正な社会水準と、飢餓や抑圧に苦しむ現実との乖離を説明するために用いた概念。社会構造の歪みや不当な権力の発動による剥奪状況を示す際の有力な考え方である。第三世界の剥奪状況に対して、従来の近代化論は、教育や資本形成の遅れなど、その国々の国内要因を強調してきたが、この理論では、周辺国(Periphery、つまり貧しい第3世界の国々)は、外部の先進諸国(Center)の中心経済の中枢(center of Center)と周辺国の特権富裕層(center of Periphery)との連合によって、周辺の周辺(periphery of Periphery)すなわち周辺国の中の周辺的な立場の人々である農民や労働者の貧困が構造化されている。低発展の起源が国内ではなく、国際経済構造にこそ存在すると強調した」
用語辞典みたいな書き方になってしまったが、つまり、高柳先生たちが言いたかったのは、そうした現状認識から出発せずに、日本やアメリカの市民(periphery of Center )がチャリティに走っても、貧困国の貧しい状況や社会的不公正の構造(Structural Violence)は変えられない、だから、(ここからが大事なのだが)自らも「Center」に支配されている「periphery of Center」、すなわち先進諸国の市民は、そういった支配構造を延命させ、かつ直接的暴力(戦争及び軍事的介入)を容認することをなるべく少なくするために、「center of Center」の行動を縛っていく必要があると。そこが根幹である。そのためには、伝統的な手法や言説、扇動、道徳の衣をまとった概念等々に対し、「periphery of Center」は鋭敏であるべきであって、それをチャリティ等で誤魔化してはいけない、ということだ。もっと言えば、自分が住む国の「Center」が何をしているのか、その行為が世界にどんな影響を与えているのか、それらをつぶさに見て、「生命、人権、教育などが保障された本来あるべき公正な社会水準」を達成するために、「飢餓や抑圧に苦しむ」人々が地球上から居なくなるために、「periphery of Center」はバカになってはいけない、ということなのだ。
世界の構造的暴力や軍事行動、戦争の実相を覆い隠す「伝統的な手法や言説、扇動、道徳の衣をまとった概念等々」は、いたるところに存在する。例えば、直接的暴力に限って平たく言えば、「国家のために」「人道上の介入」「わが国が生き延びるために」といった言説も含まれるであろうし、イラク戦争においては(既に虚構は判明したが)「大量破壊兵器の存在」だったのだろうと思う。出典は忘れたが、ノンフィクション作家の保阪正康氏は「日本にとっての第二次大戦の最大の不幸は死が美化されたことだ」といった論を展開されていた。まさにそうなのだろうと思うし、そういったことは、現代でも十分に生じうる。では、いったい、だれが「美化」しているのか、しようとしているのか、どういうプロセスで「美化」は起きたのか。それこそを鋭く問う必要がある。第二次大戦について言えば、日本のメディア(当時は特に新聞)が率先して戦争遂行に協力し、「百人斬り」などの(当時の価値観での)美談を作りだし、その果てに、自国民の死も美化されていく環境が出来上がった。
話がそれかけたが、極東ブログさんは、「[書評]戦争を知るための平和入門(高柳先男)」のエントリにおいて、本の一部を引用した後に、「基本的に民族紛争というのは、非対称的な世界の枠をはめなければ、当事者同士が死ぬまで戦ってもいいし、それが彼らの尊厳でもある」と書かれている。しかし、おそらく、それは高柳先生が言いたかったこととは全く違うだろうと思う。同じエントリのコメントにおいて、F.Nakajimaさんという方が、
<高柳氏がこの一節で一番主張したかったのは「当時者同士を戦わせて結論を出させよう」という部分ではありません。この本の構成を考えた場合、高柳氏の強調している部分は「国際社会とくにアメリカとEUの一面的な善玉・悪玉論による介入によってコソボは解決が不可能になった」だと思いますが>
と書かれているが、私もそうだと思う。
もちろん、現に起きている戦争について、幕引きの方法をどうするかという施策は、きっちりと考えなければならない。イラク戦争に限って言えば、おそらく、「トリル氏」が私のエントリ「イラクの子供がこんな死に方をするときに」で書かれたコメント(08-27 05:22 16番目のコメント)が最も現実的であろうし、私もそれに近い。そして、同時に、イラク戦争を引き起こした米英などの責任も、国際社会においてきちんと問われる必要がある。ニューヨークタイムズなどの世論調査によると、米国ではイラク戦争の不支持が支持を上回る状態になってきているが、「戦争責任」の点で言えば、大量破壊兵器が無かったのに戦争を起こした罪は、米国内だけではなく、国際社会できちんと問われる必要があるのではないか。ブッシュ政権が交代すれば、あるいは政策を変更すれば、それで終わり、ということではないと思う。
そして、また話は戻る。私は、自身のエントリ「イラク人ジャーナリストの報告会」でも書いたのだが、イサーム・ラシードさんというイラク人記者の話を聞きながら、あるいは、イラク人の遺体に対して何の敬意も払わず、戦闘で散り散りになって何日も放置されたイラク民間人の遺体の傍らを平気で通り過ぎる米軍兵士の映像を見ながら、やはり、この戦争は支持できないと強く思った。そうした米兵の多くは、沖縄を拠点に出発し、沖縄に戻る。その沖縄は、日本政府が物心両面で支えている。かの地と日本とのつながりは、そうした海兵隊のつながりのみならず、ほかにも数え切れないほどある。
この国では、いま、戦争反対を表明すると、「平和ボケ」「教条主義」「憲法墨守」「現実をみよ」といった言葉を浴びることが、しばしば生じるようになった。これはある意味、「現実は変えられない」として、現状をそのまま受け入れることの裏返しに過ぎないのではないか、と私は思う。高柳先生はたぶん、草葉の陰で、逆の意味で「非対照的な世界を覆い隠すような、きれい事」が広がっていることを悲しんでいるのではないか。
by masayuki_100
| 2005-08-27 14:56
| ■2005 東京発■