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ニュースの現場で考えること

震度5の夜に

これも何かの因縁なのだろうか。昨日、用があって、たまたま地下鉄丸の内線の四谷三丁目駅で降り、交差点で信号待ちしていたら、正面の消防博物館に非常に目立つ横断幕が垂れ下がっていた。「北海道南西沖地震の津波の高さ」と書かれていたと思う。横断幕の上部の先端が、その高さを示しており、「29メートル」の文字が見えた。これが、かなり高いのだ。道路の反対側からでも見上げる感じである。

北海道南西沖地震は、北海道では奥尻地震という名で通っている。1993年7月12日夜に発生し、人口4000人余りの島で約170人の方が亡くなった。行方不明者も30人近いままである。当時は確か、あと数日で総選挙の投票日だった。日本新党が登場し、55年体制以降、初めて非自民党政権が誕生するかもしれないという空気が広がり、取材現場も連日、「選挙、選挙」だったように思う。そこに地震は来た。

当時、私は社会部の一記者で、その夜は道警本部での泊まり勤務だった。

札幌でも揺れは激しかった。しかし、本当に驚いたのは、NHKテレビを見てからである。北海道の地図をあしらった画面の中で、南西部の海岸沿いが赤く塗られ、それが点滅している。そして、アナウンサーが叫ぶように言うのだ。「赤い線が点滅している地域には大津波警報が出ています。大津波警報です。付近の方はすぐ高台に逃げてください。繰り返します、大津波警報です」。私は、大津波警報というのをこのとき初めて知った。あの赤い線とアナウンサーの声は今でも耳の奥に残っている。

その後、大混乱状態の道警本部内では「奥尻島の駐在と連絡が取れない」と大騒ぎになった。対岸の陸地からは、奥尻島方面が赤く見えるという。奥尻方面に向かって、取材記者を乗せた車が何台も札幌の本社を出発したが、次々と「道路が陥没して進めない」という連絡が入ってきていた。奥尻方面にやっとつながった電話では、人々が悲痛な声を上げていた。当然である。奥尻島ではその夜、地震発生の2、3分後にとてつもない津波に襲われていたのだ。後で知ったところによると、確か、高さ30メートル級の津波が新幹線並みの速度でやってきた、というのである。亡くなられた方の多くは、津波による「全身打撲」だった。後に、島の高圧線の電線にコンブがたくさん絡まっていたのが見つかっている。

翌朝、札幌では、日の出の前後から被災地に向かう自衛隊のヘリや航空機で上空が埋め尽くされたようになった。とてつもなく、長く、恐ろしく感じた夜だったと思う。

そして、あの夜と同じような、漠然とした気味の悪さを今宵も感じている。もう日付は変わったが、午後に首都圏を襲った地震では、私の住む家も激しく揺れた。長く、長く、揺れを感じた。直感的には「震度は5だな」と思った。

北海道は南西沖地震のあと、何度も何度も大きな地震を経験している。震度5や震度6も度々で、正確には思い出せないほどだ。この1年だけでも、5や6は3-4回を数えるのではないか。人口と人口密度が少なく、建物が少ないから被害がほとんど出てない、だから本州では大きく報道されていないだけの話である。

私自身は悲観主義者でも終末論者でもないが、地震は必ず来る。

3年ぶりに東京に戻り、新しく出来た巨大なビルの数々に驚いた。汐留地区は超高層ビルが林立しているし、丸の内にも真新しい高層ビルがいくつもある。虎ノ門では、アメリカ大使館の背後にも大きな背の高いビルが出来ていた。毎日ここで暮らし、働く人には実感はないかもしれないが、たった3年の間に、東京は上へ上へと延びている。地震が心配だな、などと聞けば、たぶん、こうしたビルのオーナーや建設業者、設計者たちは「耐震設計はしっかりやっています」と胸を張って答えるだろう。同じように、あれだけ地盤と震源と立地場所の問題が取り沙汰されている浜岡原発(静岡県)にしても、電力会社などの当事者は「大丈夫」と繰り返している。

「大丈夫」「うちだけは平気」と思ったところから、何事も崩壊は始まるのに。
by masayuki_100 | 2005-07-24 04:46 | ■2005 東京発■