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ニュースの現場で考えること

■札幌から■ 「オフレコ発言をめぐって」 2003年7月14日

最近はまたまた、メディアの救い難い面を感じることが多くなりました。自分もその輪の中にいて、メディアを批判するのは、どうにも居心地が悪いのですが、しかし、言わずにはいられない、と思うことが一度や二度ではありません。最も分かり易い例は、福田官房長官の「レイプ容認発言」に関する種々の動きでしょう。

この発言自体は、週刊文春などに大々的に報じられています。長官が番記者とのオフレコ懇談の場で、「レイプはされる方にも責任がある」といった趣旨の発言を行い、番記者と丁丁発止の大議論になった、という問題です。それが夕刊紙や週刊誌で報じられ、国会で岡崎トミ子議員らが事実関係の有無を軸に、長官を展開する展開となりました。ところが、長官は、当然といえば当然ですが、「そんな発言はない」の一点張り。オフレコ懇談に参加したと思われる大手メディアも、その発言の有無が実際にどうだったかについては、ほとんど触れずじまいでした。

しかし、最新号の週刊文春には、長官がオフレコで発言したQ&Aの詳細が掲載されています。政治記者は、オフレコ懇談での内容を「取材メモ」にまとめ、キャップやデスクに報告しますから、どこかの社のメモが文春に流れ出たのでしょう。

長官の発言内容の是非は別問題として、結局、この騒動で何が残ったか? 





その一つは既存メディアの信頼が、また一つ失われた、読者の新聞に対する信頼・評価がまた下がった、ということではないでしょうか。

週刊誌や夕刊紙を読んだ読者は、そのほとんど全員が「長官の発言は事実」と思うでしょう。そして、なぜ大手メディアの番記者が、それを書かない、書けないかも熟知しています。番記者1人1人の言い分や思いは別にして、外形的には、権力者との仲良し組織と言っても過言ではないように思います。そして、そこでは番記者たちが御機嫌伺いを繰り返す。

恐らく読者の大半は、永田町の記者をそう見ています。もはや、ふつうの人々にすれば、政治記者は権力者と常に一体で、批判記事一本すらまともに書けない存在と映っています。
一般市民のかなりの部分が、政治家を嫌悪の対象としているように、市民のかなりの部分は、そういった報道を嫌悪の対象と見ている。

嫌悪どころか、憎悪かもしれません。しかも、そういった読者や視聴者の感情を報道側が肌身で感じていないと思われるところに、救い難い感じさえ漂います。

今回の長官の件では、結局、その場に居た記者が、だれも事実関係をオモテで肯定せず、長官も会見や国会答弁で「なかった」と言いつづけています。この構図が続く限り、「番記者は長官の腰巾着」「単なる芸者」と言われても仕方ないでしょう。少なくとも、読者や視聴者の目には、そうとしか見えません。

たぶん、その場にいた記者は、悶々としただろうと思います。でも、読み手にはそんなことは分かりません。週刊誌にオフレコ取材メモを横流しし(これ自体はまた別の問題を孕んでいると思っていますが)、あとは何とか、記者クラブと権力者との「仲良し」関係を崩さず、言葉を変えれば、「大過なく」日々を過ごし、そこを去るときは権力者から「君はいい記者だったねえ」と言われて、そして次のステップに進んでいくのです。おそらく、「もっと大事な、例えば国際問題にかかわるような発言ならオフレコの約束を破ってでも書いた」という人もいるでしょう。

でも、私の感覚では、それは違うんだな。

小さな事でも「問題だ」と思ったことを書けない記者は、大きな問題に直面したとき、よりいっそう書けなくなるものです。少なくとも私はそう思います。

そもそも「オフレコ懇談」は「オフ」が前提となっているので、おそらく、聞く方も楽なのです。ふつうなら、他社に抜け駆けされる心配もない。「大きな問題だったら書いた」という考え方が、仮に現場の記者にあったとしても、そういう人は連日の「オフ懇」の場で、なにか重要な発言を引き出そうと、懸命な努力をしているのでしょうか。重要な発言を引き出し、いつでも、約束を破って書く覚悟を日々抱えているのでしょうか。

この半年、イラク問題を契期に、日本は安全保障問題を中心に、いわゆる「戦後体制」から大きく舵を切りました。そういう日々が続いていた間、番記者は何をしていたのでしょう?
オフレコで何を聞いていたのでしょう?
「レイプ発言」以上に重要な発言はそこに無かったのでしょうか?
無かったとしたら、オフとはいえ、それを引き出す努力を重ねたのでしょうか?

オフレコ発言の内容が、週刊誌にばかり出る。これは今に始まったことではありません。過去連綿と続いてきたことだし、そうした繰り返しの中で、読者の信頼を少しずつ失い、新聞は今では政治家・政治権力と同一視され、敵意さえ持たれようとしています。

かつて、江藤隆美総務庁長官のオフレコ発言について、オフレコを破ったというだけで、その社を出入り禁止にした事件もありました(★1)。
森首相時代の「神の国」発言に関するNHKの指南書もありました(★2)。

一方では、6-7年前の話ですが、外務省のアジア局長が外務省担当記者との間で行ったオフレコ懇談の場で、中国を徹底擁護したことがあり、その発言を産経新聞が「こう発言した」と大々的に報じたことがあります。書くべきと思ったら堂々と書く、という産経の姿勢に私は拍手します。

オフレコ懇談は、あっていい。その存在は否定しません。
しかし、なぜ記者は権力者のそばに、いつもいるのか。
その意味を真剣に問い直す時期(もう遅すぎるくらいでしょうが)だと思います。


★1 大西赤人氏のコラムにて経過がコンパクトにわかります。

★2 同志社大学教授・浅野健一氏のページで経過がわかります。

★新聞協会の公式見解は以下の通りです。

オフレコ問題に関する日本新聞協会編集委員会の見解
1996(平成8)年2月14日

 日本新聞協会編集委員会は、昨年、オフレコ取材内容が外部のメディアなどに流れ、問題となったことから、オフレコ取材のあり方を再検討し、同問題に対する見解をまとめ、その基本原則を確認した。

オフレコ問題に関する日本新聞協会編集委員会の見解


 最近、閣僚や政府高官などの取材をめぐり、いわゆるオフレコの扱いが相次いで問題となり、とくに昨年末、江藤元総務庁長官のオフレコ発言の一部が外部の他メディアなどに漏らされたことは、取材記者の倫理的見地から極めて遺憾である。オフレコ(オフ・ザ・レコード)は、ニュースソース(取材源)側と取材記者側が相互に確認し、納得したうえで、外部に漏らさないことなど、一定の条件のもとに情報の提供を受ける取材方法で、取材源を相手の承諾なしに明らかにしない「取材源の秘匿」、取材上知り得た秘密を保持する「記者の証言拒絶権」と同次元のものであり、その約束には破られてはならない道義的責任がある。


 新聞・報道機関の取材活動は、もとより国民・読者の知る権利にこたえることを使命としている。オフレコ取材は、真実や事実の深層、実態に迫り、その背景を正確に把握するための有効な手法で、結果として国民の知る権利にこたえうる重要な手段である。ただし、これは乱用されてはならず、ニュースソース側に不当な選択権を与え、国民の知る権利を制約・制限する結果を招く安易なオフレコ取材は厳に慎むべきである。


 日本新聞協会編集委員会は、今回の事態を重く受けとめ、右記のオフレコ取材の基本原則を再確認するとともに、国民の知る権利にこたえるため、今後とも取材・報道の一層の充実に力を注ぐことを申し合わせる。

by masayuki_100 | 2003-07-14 19:02 | |--記者会見が勝負