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ニュースの現場で考えること

■札幌から■ 「客観報道って?」 2003年4月28日

私は、「運動」や「組織」には非常に懐疑的です。

少なくとも私は、あるいはこの文章を読まれる方々のうち幾人かは、メディアの現場にいるでしょう。

ならば、日々の執筆やデスク作業の中で、いま何をどう伝えるかを徹底して考え、それを実行に移すべきであって、それが何よりも重要なはずです。ある意味、それは一番シンドイ行為でしょう。わけのわからぬデスクやキャップ、社の方針といったものに縛られ、思うような原稿もなかなか書けない。それが現実です。

しかし、だからと言って、現場での努力を放棄しては何にもなりません。組織内でいかに徹底した議論と、取材執筆ができるか。その際、組織や社風におもねることなく、いかに「記者個人」としての立場を明確にできるか。

問題はすべて、そこに収斂されます。
世の中に「客観報道」などありません。どんな装いを凝らそうとも、記事は記者の主観的な眼を通してのみ生産されます。ならば、自らの立場、ものの見方をしっかりさせ、自らの責任で記事を書くのは当然の所作のはずです。

日々の仕事を安穏と適当に済ませ、一方で、紙面の論調や社の体質を憂えてみせる。時には、外で何か行動してみる。それらは偽善的行為ではないでしょうか? 少なくとも私はそう思います。ふつうの人がなかなか持てないペンやカメラを持っているなら、尚更ではないでしょうか。

日々の現場で戦え!それがいまのところの結論です。デスクやキャップすら説得できない、動かせない人が、世の中に何かを訴え、共感を呼べるような原稿を書けるとも思えません。






「客観報道などない!」というのは言い古された事柄ですが、最近は「客観報道」を装ってもいない、いわば「無目的報道」が非常に目立つように思います。

メディア論の桂桂一氏(東京情報大学教授)らが再三指摘していることですが、例えばイラク攻撃の際の報道にしても、多くの日本のメディアは「戦争は避けられない」ことを前提として、権力者の行動や発言を「客観的」に伝えることが大半でした。

こうした報道は「どうなる」に力点が置かれています。
「どうなる」は、いわば予想ですから、予想の精度を上げようと思えば、行政や組織や国家を動かすキーパーソンを見つけ出し、その人の行動と発言を追っていれば、ことは足りるのでしょう。何せ、「客観的」にそれを報じていれば、だいたいは当たるのですから。

しかし、少なくとも、メディアが読者や視聴者に依拠し、さらには主権者たる国民に依拠しているとするならば、「どうなる」ではなく、「どうする」という視点が絶対に欠かせません。

別にイラク攻撃だけではありません。
交通事故死者の3倍以上に当たる年間3万人もの自殺者があり、
失業率が10%をうかがい、政治や行政の腐敗は進み、
社会に得も言われぬ閉塞感が漂う今にあって、
読者に「どうなる」式の「客観報道」ばかりを伝えていては、
きっと情報の受け手は満足などしないでしょう。



人は自分の経験した以上のことは、なかなかできないし、認めたくないものです。旧来型の取材・報道に慣れ親しんだ人が偉くなり、編集幹部になる。そういう現実は、どのメディアにもあるのでしょう。

しかし、そんな程度のものを「壁」だと言っていては、読者には言い訳にもなりまりません。

圧倒的な知識とそれに基づく洞察力、そして取材対象者に「これでもか、これでもか」と質問を加え、活字にしていく。それを愚直に繰り返すしかありません。どのメディア企業も、いまの幹部が現役で走り回っていたころは(特に政治取材)、相手と仲良くなり、オフレコでたくさん話を仕入れ、「政局の次の展開」を予測していれば済んだのでしょう。

取材先と一心同体、あるいは仲間であることが「敏腕記者」の基準だったのです。でも、今は違います。オフレコ話をたくさん抱えていても、読者や視聴者には関係ないことです。

もっともっと厳しく、行政や政治や大企業と切り結ぶべきなのです。だれでも書ける記事ではなく、自分しか書けないもの、しかも今書かないと歴史の波間に埋もれてしまうもの。そういったものを掘り起こし、白日の元にさらけ出してこそ、報じる価値があるのではないでしょうか? 

単なる「埋め草」を書くために給料をもらっているわけではないのですから。
by masayuki_100 | 2003-04-28 17:43 | ■ジャーナリズム一般