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ニュースの現場で考えること

■「希望」が出版になります(1)

c0010784_13263376.jpg 「希望」というタイトルの書籍が、7月25日ごろから書店に並ぶことになりました。北海道新聞の退社と偶然重なる結果になり、退社のあいさつを兼ねて出歩く際は、刷り上がったばかりの見本を持ち、あちこちで少しずつ宣伝させてもらっています。

版元の旬報社さんの宣伝文を借りれば、この「希望」は「だれもがどこかに展望をもち、なにかを信じて格闘している。北から南まで、いまを生きる63人の軌跡。希望のありかを探るインタビュー集」です。有名か無名か、成功者か否かには関わりなく、多くの人々(大半は市井の人々である)が取材者と膝を交え、何時間も何時間もインタビューに答えています。語り口調や方言を大事にし、読み手にじっくりと語りかけてくるような内容です。登場人物も様々であるなら、20人に及ぶインタビュアーの年齢、経験も多種多様です。グラビア頁は江平龍宣さんが担当。その写真もすばらしいと思います。

とにかくぜひ一度、手にとっていただきたいと思います。少し長くなるが、「まえがき」です。



数年前のある晩のことだ。

遅くに自宅へ戻った私は、部屋の中央にぶら下がった紐を引いて蛍光灯のスイッチを入れ、いつものようにパソコンに電源を入れた。単身赴任中だったとはいえ、一人暮らしの部屋はいかにも寒々しい。ジジジッというパソコンの立ち上がる音を聞きながら、電気ストーブを引き寄せ、椅子に腰を下ろした。

メール・ソフトを開くと、懐かしい名前が見えた。福島県に住む大学時代の友人である。実に久しぶりの、おそらくは十何年ぶりかの、彼の「肉声」だった。

学生時代のある時期、私たちはほとんど毎日のように顔を合わせていた。彼は冗談好きで、明るく、穏やかで、私とウマが合った。卒業後は連絡を取る頻度も次第に減ったが、郷里で家業を継いだ彼からは、何度か、家族の写真入りの年賀状をもらっていたと思う。それから再び長い年月が過ぎ、世の中は郵便から電子メールの時代に移っていた。

蛍光灯の下でメールを開くと、長年の無精を詫びる、ありきたりの挨拶に続き、長くはない、しかし切々とした文章が続いていた。

 ……こちらはといえば、ひと言でいえば、家業の不振に喘ぎつつ、三人の子どもと妻、両親のために「死なない」で必死に戦っております。億の位の借金を抱え、体力の限りがんばってもがんばってもがんばっても、なかなか事態の打開には至らないのが現実です。この状況で精神的にも鍛えられ、学生時代の自分はすっかり影をひそめてしまいました……。
 ……「生きるとは、人生とは?」を毎日考えずにはいられません。「今までの人生、ほんとに甘かった。人に甘えて生きてきたんだな」と自分を責めたり、でも一方でそうは思えない自分もいます。
 この一年、身近なところで三人も自ら命を絶ちました。その度に、自身の命も削られる思いです。あまりに過酷だと思います。普通の人間が普通に努力してるだけでは普通に生きられない社会。この現状に憤りと虚しさを覚えます。そういう意味でも、決して負けるわけにはいかないのです。もがいて、はいあがって、必ず事態を変えてみせます。「逃げない」ことが、こどもたちへの自分ができる最大のメッセージだと思っています……。

そして、メールの最後は「ありきたりですが、ばらばらにされた一人一人を結ぶ大きな仕事を君の力でぜひ実現してください。期待しています」と結ばれていた。

ふつうの人がふつうに生きようとしても、ふつうに生きることが難しい――。この五年間か、一〇年間か。気が付けば、この社会は、いつの間にかそんな雰囲気に包まれてしまったように思う。誤解を恐れずに言えば、個人レベルでの日々の暮らしは、単調で退屈で極まりない。ドラマなどそうそう起きるはずもない。自身のことを考えても、身辺で起きることはたいていが(その時は大きな出来事だと思えても)小さな、つまらぬ出来事である。

でも、そんなありきたりの日々の積み重ねの中にこそ、「真実」があるのではないかと思うことがある。ふつうの人々が織り成す、ふつうの日々。時に見失いがちな「希望」も含め、社会と時代のすべてはそこにあるのではないか、と。

たとえば、ずいぶん前に会った、路線バスの元運転手。

彼は約二〇年間、北海道でバスに乗り、その前は長距離トラックを運転していた。文字通り、ハンドルこそが人生だった。その彼はこんなことを話してくれた。

 ……トラックにしてもバスにしても「事故を起こしたら」ってことが頭から離れなかった。私なんか二カ月に一回は夢を見てたね。バスに満員の乗客を乗せてね、あああ、ブレーキが利かない、あああ、ぶつかるぶつかる。その瞬間に目が覚める。そういう夢です。運転手なら同じような夢、みんな何度か見てますから。間違いなく見てるから。
 トラック時代は、とにかく眠くてね。日中は小樽近辺で荷物を運び、夜八時から芦別、帯広行きの運転席に座る。着くのは翌朝でしょ。して、すぐ帰り荷を積んで小樽へ戻る。残業は毎月一五〇時間から二〇〇時間。今と違って労働基準法とか関係ない世界さね。
 体が丈夫だったから持ったけど、とにかく、すんごい睡魔なんだ。運転中は左手でハンドル持って、右手は髪の毛ひっつかんだり、足をつねったりで。あああ、と気が付いたら、反対側車線走ってたこともある。そういうことが二回あった。運がいかったんだ。紙一重だよ。あの時、対向車が来てたら、いまのおれはないもの。人生変わってたよ。
 辞めたくなったこと? あるあるある。何度も。トラックの時もバスの時も。人間関係だ何だって、いろいろあるっしょ。バス会社を辞める時も、嫌な思いをした。でもね、今では何とも思ってない。恨みとか嫌な思いだけを抱えて生きていけないよ。
 二女が生まれた時もね、なんも大変だとか思わなかった。七歳で亡くなったけど、あの子は生まれつき脳に障害があって、親の顔もわかんない、言葉も言えない。そういう子だったの。でも、とにかく、めんこい子でね。周囲からは「大変でしょう、大変でしょう」と言われたけど、何が大変なものか。普通の子どもとおんなじですよ、私らにしたら。もう、めんこくて、めんこくて。
 二女が生まれたのは、ちょうどバスが嫌で嫌でしょうがなかった時期だけど、「仕事がどうのこうの言ってる場合じゃない。おれが踏ん張らなきゃ」って、腹もすわった。ね? 親は子どものためにがんばれるんだから。そうでしょ? 子どもはかわいいに決まってるっしょ。嘆き悲しみなんて、ほんの一時のものでしょ?

運転手の彼には夢があった。定年の日は自分で回数券を買い込み、乗客に手渡しながら、「きょうで私のハンドル人生は終わります、ありがとうございました」とアナウンスするのだ。しかし、定年の数日前、脳出血のため車庫で倒れてしまう。

「くやーしくて、悔しくて。あの悔しさ、一生忘れないよ」

彼は、過去に乗ったトラックとバスのナンバーを全部そらんじていた。小さいことかもしれないが、それが彼の誇りであり、人生そのものであり、その日々の格闘の中で彼は「希望」を見いだそうともがいていたのだと思う。

本書には、じつに多様な人びとが登場する。著名な人も無名な人もいる(インタビューで四七名、写真で一六名)。インタビュアーも若手から年配者まで多様である。一見ばらばらに映るかもしれないが、これらのインタビューは、つねに「あなたの希望は何ですか」を問うことを念頭に置いて行われた。

一九九〇年代末以降の日本は、人と社会が限りなくばらばらになっていく過程だったように思う。だからこそ、インタビュアーたちは、人と人を「つなぐ」ことに、それぞれの人びとの「希望」を聞き取ることに、心血を注いだ。言い換えれば、インタビュアーたちは自らが希望を探す旅を続けた。

本書は、そうした旅の成果である。
by masayuki_100 | 2011-07-09 13:44 | ■本