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ニュースの現場で考えること

東京・音羽の事件で思うこと

東京・文京区の音羽で起きた幼女殺人事件で、「中づり広告に謝罪告知 幼女殺害記事、文春と遺族が和解」というニュースが流れた。(以下はgooの朝日新聞。後略)

東京都文京区で99年、幼女(当時2)が母親の知人の女に殺害された事件で、幼女の母親が雑誌「週刊文春」の記事で名誉を傷つけられたとして、出版元の文芸春秋に損害賠償と謝罪広告の掲載を求めた訴訟の和解が東京地裁(大門匡裁判長)で成立した。文春が和解金を支払うほか、遺族の手記と謝罪の意を表した「検証記事」を21日発売の同誌4月28日号に掲載する。また、謝罪する旨の告知文を電車の中づり広告にも掲載する異例の和解内容だ。

この事件には、個人的に格別の思いがある。事件のあったころ、私は東京勤務で、事件が起きた「音羽」に住んでいた(住所は大塚)。現場となった護国寺境内は、歩いて1、2分。幼稚園の近辺は、まだ小さかった私の子供たちにとっても、格好の遊び場でほとんど毎日のように足を運んでいた。警察官も自宅に聞き込みに来たし、自宅裏側の護国寺の土手を捜索にも来た。そして私自身は、界隈を歩くたび、何人もの記者に「ご近所の方ですか?」「事件をどう思われますか?」と質問を浴びせられる状態だった。

そのとき、ある週刊誌の若い記者に思わず、「説教」してしまった記憶がある。「この、お受験殺人をどう思いますか」と聞くので、「どうして原因が受験だと分かるの?容疑者が逮捕された直後なのに、そんなところまで本当に調べが進んでいるの? そもそも誰がお受験が原因だと言ったの?」。。。そんな感じだったと思う。その記者は、実のところ、お受験が動機だという根拠は何も持ち合わせていなかったし、私がしつこく逆質問した範囲では、すでに多くのメディアがそう報道しているから、といった回答しか持ち合わせていなかった。

当時、いったい、誰が「お受験が動機」と言い出したのか?





私は警視庁を取材したわけでもないし、詳細は分からない。ただ、どこかが報じた「お受験殺人」という事柄が、メディアの間で、確たる根拠もないままグルグルと回り、それが、あのときの音羽界隈に充満していたことは間違いない。私に質問してきた何人もの記者は、私から「お受験の実態」を聞きたがっていたし(もちろん私はたまたまそこに住んでいた転勤族に過ぎない)、事件当事者が住んでいたマンションにも私の友人がいたこともあって、何とか、「お受験殺人」を正当付ける言葉を取ろうと躍起になっていたと思う。

たまたま、見かけた「あれはあれで良いのかな」 さんのブログに「奈良女児殺人事件から犯罪被害者の報道を考える」というエントリがあった。まさに、そうなんだよ、と思う。(以下引用。一部略)

 報道関係者は,まだ懲りてないの?
 確かに,日本では憲法21条の表現の自由の前提として,報道の自由も憲法上保証されています(博多駅事件)しかし,一方で,報道者には特権が与えられているわけでもないことは最高裁も明言しています(石井記者事件)。
 そもそも,報道の自由が認められるのは,表現の自由に基づくものですが,表現の自由は,国家に対して何を言ってもよい,という対国家に関するものです。また,逆に国家に対して情報を提供してほしいという知る権利を満たすためにも報道は重要になります。さらに,近年では,国家権力に近い権力を持つ私人(大企業や議員など)が現れたことから,彼らに対しても,一定の自由権を有する,というものになります。つまり,報道の自由は強大な権力に対して向けられるものであり,その内容も国民の世論を形成するような公益性の高いものになるべきなのです。

ところが,現実にはどうでしょうか。最近の報道で,国家権力や大企業,議員がビックリして襟を正すようは報道は少ないです(企業の不祥事報道はちょこちょこでていますが,あまり突っ込んだものは少ないですね。)。むしろ,弱いものに対してこれでもか,と言わんばかりの報道が目に付きます。犯罪被害者は弱いものの究極ですが,「犯罪被害者は社会に報告する義務がある」と言わんばかりに報道陣は集中します。さらに,このような弱者からコメントが取れたことを「スクープ」と豪語する報道社もありますが,スクープとは,前述のとおり,本来的には国家や大企業などからの極秘事項や問題事項などをすっぱ抜くことを言うべきなのです。個人の私生活や犯罪被害者の心境をすっぱ抜いたところで,世論が形成されるものでもありません。


報道キャスターの長野智子さんさんが、岩波書店の「ジャーナリストの条件」の第1冊に『視聴率と「伝えたいニュース』という一文を寄せ、過激さを売り物にすればするほど視聴率が上がって行く実態を記している。「伝えたいニュース」と「読まれる・見られるニュース」のギャップは、それこそ永遠の課題かもしれないが、「読まれること」に重点を置けば、当たり前の話だが、ニュースは単に、過激さばかりを追いかけることになる。その一例が、まさに音羽や奈良の事件報道に見られるのであって、もう本当に何とかしなければと思う。
by masayuki_100 | 2005-04-22 03:58 | ■事件報道のあり方全般