2010年 08月 26日
「調査報道とは何か」 日本ジャーナリスト会議の勉強会から
講演のyoutube録画はこちら。北海道警察の裏金問題を一緒に取材したメンバーの1人、青木美希さんが先に話し、その後に私が話しています。青木さんは北海道新聞を退社し、この9月から朝日新聞記者として東京で再スタートを切ることになりました。
以下が高田分のテキストです。ダイジェスト版で短くなってはいますが、それでもかなりの長文です。ご注意を。
<リクルート事件>
1986年に北海道新聞に入社、最も長い部署は経済部です。実は調査報道とは何かについてキチンと書かれた本は日本には一冊もないんです。今年の6月に機会があって上智大学で3週連続で講義を持ち、学生にも調査報道について話しましたが、田島泰彦先生も調査報道の本はないと言っていました。
1989年のリクルート報道のことを思い出してください。北海道新聞をやめて朝日新聞にいた山本博さんという人が当時、横浜支局にいて川崎市の助役がリクルートから未公開株をもらった、それを警察が事件にしようとしてできなかった。それを朝日新聞が更に動いて政界疑獄に発展したわけです。調査報道というとリクルート事件が思い起こされます。
<新聞が面白くない>
最近、新聞がつまらないでしょう。面白くないというのは根源的な問題だと思います。この話、あちこちで紹介していますが、岩瀬達哉さんというフリーのジャーナリストが「新聞が面白くない理由(講談社)」という本を出しています。最初に出たのが1997年です。
岩瀬さんは朝日、毎日、読売の紙面を一定期間、記事の分量を面積として量ったんです。その中に「単純な発表もの」「発表を少し加工したもの」がどの程度の割合を占めているか、概ね当時で70%程度です。でも現場の感覚としては今はもっと増えていると思います。役所の発表ものだけでなく、事件・事故もほとんどが警察の発表ものです。例えば強盗事件の場合も強盗は事実だが、それを警察が何らかの形で発表して書く。或いは「誰々が逮捕された」というのも警察の発表です。
社会面は事件・事故がたくさん載っているから発表報道とは無縁だと思っているのは大きな間違いです。私が会社に入ったころには先輩からよく言われました。「聞いて、見て書くのはメッセンジャーだ。誰でもできる。聞いて、見てはあくまでもきっかけで、どうやってその物事の裏側に回って、或いは足元を掘って、どうやってひっくり返すかが新聞記事だ、プロの仕事をしなきゃダメだ」と言われたものです。でも今は、発表依存、官依存です。
<プロの仕事>
いつの時代も権力、パワーを持っている人は自分に都合のいいことを都合のいいタイミングで都合のいいように発表するんです。自分に都合の悪いことを進んで発表しようとする人は殆どいません。逃れようとするのが世の常です。そうさせないために事実はどうなんですかというのが、プロフェッショナルである我々がしなきゃならない仕事なんです。
なぜ新聞記者がプロといわれるかというと、たった2つの理由しかないと思います。一つは普通の人は忙しい、こんなことをいちいち調べたりする時間がない。だから購読料を払ってあなたにお願いしているのですという関係です。もう一つは組織を動かして何がしかの情報とか取材のノウハウの蓄積であるとか、そういうものを蓄えている組織、個人が全体として共有しているという意味でプロであるということです。
<記者クラブ>
実は新聞社の外勤記者、取材記者というのは不思議なことに殆ど全ての人が記者クラブに所属しています。それが一概に悪いとは言いません。権力の足下に常に居て、それを監視することを本当にやるのであれば、必要な面もあります。しかし、その記者クラブの形、配置自体が全く変わっていないという異常さを最近感じるようになりました。
例えば、これだけ不況で世の中給料が安いとか払ってもらえないことが大変だと思っている。選挙でも国政に期待することは何ですかというと、必ず景気の問題とか雇用の問題がトップに来ます。ところが新聞の社会面を開くとこれらの問題は殆ど載ってない。どこかの会社が給料を未払いだ、派遣社員を雇い止めにしたなどということは、ストレートニュースとしては殆ど載りません。秋葉原の通り魔殺人のときに容疑者がトヨタ系列の派遣社員だったわけですが、そういうことが個別のニュースとしては殆ど載らない。これはどうしてなのか。理由の一つは担当記者がいないからです。労働基準監督署に記者クラブはありません。常時記者が張り付いているわけではない。中国人研修生が安い給料で働かされるといった外国人労働者のことが問題になっているのに、入国管理局に担当者が張り付いていないからではないかと思います。
<分業>
入社してから今までを調べました。大体どこの社も戦後の日本の記者クラブは、経済、市政(道政)、警察の3つを中心に回っています。警察は事件が多かろうと少なかろうと一定の人数が常に同じだけいます。入社時には道警記者クラブには10人前後いるといわれました。今も全く同じです。世の中がもの凄く変わっているのに人数が同じです。警察担当が8人いれば裁判担当が2人、大体8:2か7:3です。どこの会社もそうです。裁判の仕組みが大きく変わっても割合は全く変わっていない。なぜこんなことが起きるのか。
日本の事件報道は逮捕の段階で大きく扱います。だれだれが逮捕された、家宅捜索が入ったとなると大騒ぎをします。しかし、逮捕や起訴、強制捜査から始まって判決が出るまでの長い刑事司法のプロセスの中で、逮捕なんてほんの一瞬です。そこだけ書いてなぜ後は書かないのか。去年、足利事件で菅谷さんの冤罪が確定しましたが、そうしたことが起きてしまう大きな理由の一つが8:2にあると思います。なぜなら菅谷さんが逮捕されたという記事と判決を書く記者が違うんです。分業なんです。警察担当は警察が逮捕したところまでを書く、裁判が起きてしまえば裁判担当の記者の仕事になってしまいます。なぜ冤罪だという記事を書いて罪の意識がないかといわれても、個人ではあまり意識はないのではないか。
なぜかというとその人の仕事は逮捕まで書いて終わっている。やがて転勤してゆく。判決が出た、有罪が確定した、冤罪が確定したときには書いた記者はどこかに行っちゃってるかもしれない。でも地元の下野新聞は「なぜ冤罪報道を犯してしまったのか」を丹念に検証しています。当時の取材記者にOBも含めて企画取材したものがネット上でも読めます(下野新聞連載「らせんの真実 冤罪・足利事件)
<“じょうご”>
いろんなところに雨を集める“じょうご”があるんです。これが言ってしまえば記者クラブです。その“じょうご”の位置も大きさも50年前と変わっていない。少なくとも1960年頃から殆ど変わっていません。経済、市政、警察の大きな“じょうご”で雨をすくい取ろうとしているんです。
でも雨の降り方、降る場所、風の向きは違ってるんです。土砂降りのところがあっても受け取る“じょうご”がない。雨はどんどん流れ込んでいるのに、取材者である我々は“じょうご”を持ったまま上ばかり見ている。足元がどうなっているか、足元の洪水の様子はわかっていない。昔からある“じょうご”を支えることだけで一生懸命なんです。今の調査報道か発表報道かという前に大きくメディアが問われているのは本当に今の社会の矛盾とかをすくい取るような取材体制とか取材の仕組みというものができているのかどうかを今一度考え直してみる必要がある。本当に変えようと思ったら明日からでも変えられる。
<コンテンツ>
実は取材する方と社会とが大きくズレてきているのではないか。新聞が面白くない最大の理由で、こんなもの読んでてもしょうがない。それならネットにいけば同じような情報があるわけです。発表ものならそうです。我々が官庁などの発表ものを記事にしているうちに、ナマの資料が官庁などのホームページに出ているわけです。じゃあ俺が作っている記事は一体誰が読むんだろうとむなしさを感じたことを忘れません。だから本当に大事なことは「この新聞を読んでいて良かった」というコンテンツの問題です。
よくネットが伸びれば報道が良くなるという話もありますが、それは大きな間違いです。紙はもうだめだという人もいます。媒体としては紙はだめかもしれませんが。要するに中身をどうするかです。誰も書いていない、どこも書いていない、でもこれは凄い話だという中身をどうすれば作ることができるかが、この先の報道各社の最大の問題になって来るんだと思います。おそらく各社も気付き始めていると思います。
<調査報道>
そこで大事になってくるのが一つの柱は調査報道であろう。では調査報道とは何か。定義なんかはありません。定義はないですが私の考えでは少なくとも一般の人が簡単にアクセスできない情報を記者が取り出してくる。その場合の取材相手はこの社会でパワーを持っている人、それは官公庁かもしれないし、司法、警察当局かもしれないし、大企業かもしれないし、或いは政治家個人であるかもしれない。とにかく社会で相当程度のパワーを持っている人、組織の情報を取材してくる。それをテーブルの上に出してみせる、それが調査報道の第一だと思います。もう一つ大事なことは「書きっぱなしにしない」ということです。
道警の裏金報道はテレビ朝日が2003年11月に最初に出しました。その時私が最初に考えたことは、「これを追っかけるけど警察に認めさせよう」、それが大事なんだという目標を言いました。実は警察の裏金は北海道で初めて表に出たわけでも何でもありません。過去の報道を見てみると、毎日新聞が熊本県警の元副署長のことを書いています。全国には広がっていませんでしたが、副署長が裏帳簿つきで裏金がありましたと出てきています。同じく毎日新聞が兵庫県警を、北海道新聞も長崎県警の刑事が自分の関わった裁判で、実は県警は裏金を作っていたと話したことを記事にしています。警視庁でも裏金問題の裁判、民事訴訟が起きている。1984年には警察庁の次長まで努めた大幹部が著書の中で警察は裏金をやっていると書いています(松橋忠光「わが罪はつねにわが前にあり」=オリジン出版センター)。いろんなところで出ているんです。ある
意味常識なんです。
<“書きっぱなし”>
日本の新聞はある意味“書きっぱなし”です。例えば熊本県警で元副署長が裏帳簿と一緒に表に出てきて裏金がありましたと、新聞の一面にドーンと載るわけです。県警は否定して「そんなことはありません」で終わってるんです。その繰り返しなんです。そういう“書きっぱなし”でいいのかなと考えました。“書きっぱなし”というのは一種のガス抜きみたいなところがあって、書いた方が「満足」、書かれた方も「まあ仕方ないか」、そんなイメージです。
でも本当に事実があるんならとことん追及しなければいけない。私は報道で世の中が変わるというほどの楽天家ではない。報道で変わるとすれば戦争に一斉に進んだように悪い方に変えることの方がよほどありそうだ。それでも報道によって何か世の中を変えることができるとすれば、それは“書きっぱなし”じゃないんですよ。やはり書くことによって相手に「あなたの書いた記事の通りでした」と公の場で認めてもらわなければならない。そうしないと物事ってなかなかわからない。
しかし、そういうことは現実問題としてはなかなか起きない。自分たちが間違っていやことをやっていた、不正をやっていたということを改めるためには公にキチンと認めるところからスタートするんです。ですから調査報道に役割があり、意義を見出すことができるとすればその部分だろうと思います。だから裏金問題のときはキチンと認めてもらうまでやろうと思っていたわけです。途中から北海道新聞は「反警察キャンペーンをやっている」と言われました。そうじゃないんです。警察の中で自由に機動的に使うお金が必要があるならキチンと予算要求して確保すればいいんです。でも予算の使途は法律、法令、条令、その他いろいろな法律・法令の枠組みで決まっていて、議会が予算を承認して使い道の枠をはめている。裏金というのはその枠を勝手に外してしまうわけです。
<部数は力>
なぜ、北海道新聞は裏金報道ができ、道警に裏金の存在を認めさせることができたか。理由は2つあります。一つは認めるまでやめなかったこと。もう一つは当たり前といえば当たり前ですが、地元最大のメディアだからです。部数は力なんです。読売の渡辺恒雄さんは「部数は力だ」と事あるごとにいっています。その部数が今はじわじわ落ちている。取材力もどんどん劣化していて記事が面白くない。だんだん見放されている。新聞は崖っぷちのギリギリにいるんじゃないかという感じです。
部数が増えることがないにしても中身がしっかりしていれば低落をとめることができるのではないかと思います。だから部数は力なんです。部数が少ないミニコミ紙が書き続けても絶対こんなこと(裏金を公式に認めさせること)は起きません。それは逆に言えば週刊誌は暴くことはできますが、それを認めさせることはなかなか難しい。なぜなら週刊誌は週に一回しか出ない。毎日の報道はできない。週刊誌は閉じられた記者会見、閉じられた記者クラブを自由に歩くことはできませんから、毎日権力機関の中枢に入り込んで問いただすことができない。ここは大いに改めるべきだとは思っています。私は記者会見、記者クラブは完全フリーにすべきだとは思っています。取材目的を持っていれば誰でも自由にアクセスするのは当然だと思いますし、早く条件整備をしなければならない。
<組織の官僚化>
どうすれば組織的、構造的な問題を変えることができるのか。報道各社はもの凄く組織が官僚化してきています。公務員組織以上に公務員的であるとよく言われます。以前、NHKの女性国際戦犯法廷の番組改変問題、亡くなった中川昭一さんらがNHKに圧力をかけて番組を改変させたんじゃないかという問題が起きました。
先日、その時にチーフプロデューサーだった永田浩三さんとお会いしたんですが、その方が最近出した著書「NHK、鉄の沈黙はだれのために=柏書房、2100円」が抜群に面白いくていろんな方に勧めています。何が面白いかというと、今のメディアの問題がどこにあるかが非常に良くわかります。権力監視の報道が少ないとかいわれますが、根本的に突き詰めていくと組織と個人の問題だと書いています。組織の中枢に座っている人の建前、その下にいる人たちの建前が絡まってNHKが動いている。永田さんも自分が長いものに捲かれてきたとも書いています。
<“突破力”>
それらを考えると、いくら現場の人が調査報道が大事だと意気に燃えたとして、ジャーナリストにとって一番は取材力です。それから物事を分析したり、考えたり、見通したり、それをキチンと読み手にわかりやすく的確に伝える洞察力が必要です。しかし、組織の中で動いている“会社員記者”にとって、それに劣らぬくらい大事なのは“突破力”です。報道機関は権力と闘えとよく言われます。外から見ればそうかもしれません。
でも私が駆け出しの記者だったら自分のうえにいる先輩かキャップを説得しなきゃならない。まずはそこを突破しなきゃならない。そこを突破できたら今度はデスクです。大体年は上ですし頭が固いわけです。更に頭の固い部長をどうやって突破するか。そこが大きな問題です。会社員記者である以上は、それができないとダメです。若い人はそこのところで嫌になっちゃうんです。本当に取材がダメなのか、商品としての記事がダメで戻されているのか、デスクなり部長なり、編集局長なり上のほうの人の心情には何か違う思いが入ってたりするのではないか。それを見極める、問題の所在がどこあるか、そういう攻めぎ合いだと思います。その攻めぎ合いの中で肝心なところが揺らいでくる。ダメだと言われた方は「どうせこの会社はこんなものだ」、つき返した方は「最近の若い記者はダメだ。俺たちの若い頃はもうひとふん張りしたものだ」と、お互いにすれ違っている。それでも会社自体はうまく転がっていく。それがこの十数年くらいの報道の質の劣化の正体ではないかと思います。
<中央目線>
メディア業界に何人も知り合いがいますが、皆「お前なにやってるんだ」といわわれないくらいの仕事はしている。「きょう社会面あいてるぞ」といわわれれば、毒か薬かわからないが何がしかの記事を出すくらいの仕事はしている。そうやってその日その日を終わっている。もう新聞は死ぬんだ、新聞はダメだといわれながらも別に倒産が迫っているわけでもない。なら中身をしっかりしていくしかないわけです。中身についても向き合うところはたった一つしかないと思います。日本のメディアはこれまで権力と常に二人三脚で歩いてきました。時々は足元で噛み付いたり蹴ったりしていますが、向いてる方向は一緒なんです。高いところから下を見下ろしながら、同じような発想、志向で動いている。
実は東京で5年間勤務していましたが、90年代の終わり頃、日銀の記者クラブに所属していてある生命保険会社のシンクタンクの勉強会に出ました。シンクタンクの若い研究員が市町村合併についての研究発表をしていたんです。彼が「これからの自治体はどんどん合併をしなければ大変なことになる。特に北海道なんかは効率が悪いし、どこどこの町は香川県と同じくらいの面積に牛の方が多い」などと勝手なことをしゃべっているわけです。聞いているうちに段々腹が立ってきて、「あなたそんなことを言いますが、病人が出たらどうやって通うんですか、図書館もなくてどうするんですか」と聞くと、彼は「それが嫌なら移住すればいい、日本国憲法には移住の権利は保障されている」とか言うわけです。他の社はまた道新が噛み付いているみたいに聞いているわけです。
でもその時に思ったんですが、彼は北海道に行ったこともないんですよ、それなのになぜそんなことがいえるのかと言ったら、「その地域にいかなきゃ政策提言ができないというのが思いあがりだ」というんです。こういう中央目線、上から目線の人たちが圧倒的な情報を発信して、世の中のことを決めている。日本のメディアの殆どの情報が東京発です。
<読者のために書く>
日本の新聞は地方紙と全国紙をあわせて約5600万部といわれています。そのうちの過半数が全国紙です。地方紙の全国のニュースは通信社からの原稿ですから、物事の目線は常に東京発信になっている。札幌に戻ってきて厚田村におばあちゃんのコメントをもらう取材にいったんです。おばあちゃんは「月に2回病院に行くのに、バスの便が悪くて困っている」と言ったんです。その時に今までとんでもない勘違いをしていたなと感じたんです。読者のために書くというのはこういうことなんだと思ったんです。中央省庁で局長がどうしたとか、その人にいい記事だと言われて喜んでいたのは何だと思うわけです。圧倒的に多い普通の人たちのために何を読んでもらいたいかを考える。権力に寄り添う、権力と二人三脚するのではなく、本当に読者は何を考えているのかについて、もっと入り込んで記事を書く。我々はノウハウがあるわけですから、もっと力を発揮すれば、まだなんとかなるのではないかというおぼろげな希望はあると思っています。
<会場質問への回答>
全国紙であっても目線がしっかりしていれば問題ない。本当は普天間という一つの事象なのに首相官邸、外務担当、防衛担当、ワシントン駐在でみな違って書いている。普天間問題をテーマで追いかけている記者がいない。そこが大きな問題で、ますます蛸壺化してくる。僕は憲法は改正すべきではないと思ってるが、例えば「憲法改正」という列車が走っている。それがどういう色で、どんな機関車で、どんな形で、客車が何両つないでというのが皆見える。いろいろ評価できる。だから意見はいっぱいあっていいと思う。
でも僕らは取材者だから、論評の前にやることがある。機関車の中で石炭をくべている機関士はどんな名前で、どこの所属で、或いは石炭を供給しているのは誰で、停車場に泊まったときに水を供給するのは誰で、そのエネルギーはどこから来ているか、それを動かす金は誰が出しているかーそういう普通の人がなかなか簡単には見えないような情報を取ってきて出すのが仕事だろう。この機関車がいいとか悪いとか評価をし始めたり、論評だけに陥っていくと言葉の過激な人が最後に勝ってしまう。だから取材者である以上は、どうしてこの機関車は動いているのか、誰が燃料を供給しているのかを辿ってゆくことが記者の仕事なんじゃないかと思う。
私も会員になっている日本ジャーナリスト会議の勉強会が過日、札幌で開かれ、少し、しゃべってきました。タイトルは「調査報道とは何か」。なかなか本格的です(笑)。講演の概要は、以下のテキストの通りです。以下が高田分のテキストです。ダイジェスト版で短くなってはいますが、それでもかなりの長文です。ご注意を。
<リクルート事件>
1986年に北海道新聞に入社、最も長い部署は経済部です。実は調査報道とは何かについてキチンと書かれた本は日本には一冊もないんです。今年の6月に機会があって上智大学で3週連続で講義を持ち、学生にも調査報道について話しましたが、田島泰彦先生も調査報道の本はないと言っていました。
1989年のリクルート報道のことを思い出してください。北海道新聞をやめて朝日新聞にいた山本博さんという人が当時、横浜支局にいて川崎市の助役がリクルートから未公開株をもらった、それを警察が事件にしようとしてできなかった。それを朝日新聞が更に動いて政界疑獄に発展したわけです。調査報道というとリクルート事件が思い起こされます。
<新聞が面白くない>
最近、新聞がつまらないでしょう。面白くないというのは根源的な問題だと思います。この話、あちこちで紹介していますが、岩瀬達哉さんというフリーのジャーナリストが「新聞が面白くない理由(講談社)」という本を出しています。最初に出たのが1997年です。
岩瀬さんは朝日、毎日、読売の紙面を一定期間、記事の分量を面積として量ったんです。その中に「単純な発表もの」「発表を少し加工したもの」がどの程度の割合を占めているか、概ね当時で70%程度です。でも現場の感覚としては今はもっと増えていると思います。役所の発表ものだけでなく、事件・事故もほとんどが警察の発表ものです。例えば強盗事件の場合も強盗は事実だが、それを警察が何らかの形で発表して書く。或いは「誰々が逮捕された」というのも警察の発表です。
社会面は事件・事故がたくさん載っているから発表報道とは無縁だと思っているのは大きな間違いです。私が会社に入ったころには先輩からよく言われました。「聞いて、見て書くのはメッセンジャーだ。誰でもできる。聞いて、見てはあくまでもきっかけで、どうやってその物事の裏側に回って、或いは足元を掘って、どうやってひっくり返すかが新聞記事だ、プロの仕事をしなきゃダメだ」と言われたものです。でも今は、発表依存、官依存です。
<プロの仕事>
いつの時代も権力、パワーを持っている人は自分に都合のいいことを都合のいいタイミングで都合のいいように発表するんです。自分に都合の悪いことを進んで発表しようとする人は殆どいません。逃れようとするのが世の常です。そうさせないために事実はどうなんですかというのが、プロフェッショナルである我々がしなきゃならない仕事なんです。
なぜ新聞記者がプロといわれるかというと、たった2つの理由しかないと思います。一つは普通の人は忙しい、こんなことをいちいち調べたりする時間がない。だから購読料を払ってあなたにお願いしているのですという関係です。もう一つは組織を動かして何がしかの情報とか取材のノウハウの蓄積であるとか、そういうものを蓄えている組織、個人が全体として共有しているという意味でプロであるということです。
<記者クラブ>
実は新聞社の外勤記者、取材記者というのは不思議なことに殆ど全ての人が記者クラブに所属しています。それが一概に悪いとは言いません。権力の足下に常に居て、それを監視することを本当にやるのであれば、必要な面もあります。しかし、その記者クラブの形、配置自体が全く変わっていないという異常さを最近感じるようになりました。
例えば、これだけ不況で世の中給料が安いとか払ってもらえないことが大変だと思っている。選挙でも国政に期待することは何ですかというと、必ず景気の問題とか雇用の問題がトップに来ます。ところが新聞の社会面を開くとこれらの問題は殆ど載ってない。どこかの会社が給料を未払いだ、派遣社員を雇い止めにしたなどということは、ストレートニュースとしては殆ど載りません。秋葉原の通り魔殺人のときに容疑者がトヨタ系列の派遣社員だったわけですが、そういうことが個別のニュースとしては殆ど載らない。これはどうしてなのか。理由の一つは担当記者がいないからです。労働基準監督署に記者クラブはありません。常時記者が張り付いているわけではない。中国人研修生が安い給料で働かされるといった外国人労働者のことが問題になっているのに、入国管理局に担当者が張り付いていないからではないかと思います。
<分業>
入社してから今までを調べました。大体どこの社も戦後の日本の記者クラブは、経済、市政(道政)、警察の3つを中心に回っています。警察は事件が多かろうと少なかろうと一定の人数が常に同じだけいます。入社時には道警記者クラブには10人前後いるといわれました。今も全く同じです。世の中がもの凄く変わっているのに人数が同じです。警察担当が8人いれば裁判担当が2人、大体8:2か7:3です。どこの会社もそうです。裁判の仕組みが大きく変わっても割合は全く変わっていない。なぜこんなことが起きるのか。
日本の事件報道は逮捕の段階で大きく扱います。だれだれが逮捕された、家宅捜索が入ったとなると大騒ぎをします。しかし、逮捕や起訴、強制捜査から始まって判決が出るまでの長い刑事司法のプロセスの中で、逮捕なんてほんの一瞬です。そこだけ書いてなぜ後は書かないのか。去年、足利事件で菅谷さんの冤罪が確定しましたが、そうしたことが起きてしまう大きな理由の一つが8:2にあると思います。なぜなら菅谷さんが逮捕されたという記事と判決を書く記者が違うんです。分業なんです。警察担当は警察が逮捕したところまでを書く、裁判が起きてしまえば裁判担当の記者の仕事になってしまいます。なぜ冤罪だという記事を書いて罪の意識がないかといわれても、個人ではあまり意識はないのではないか。
なぜかというとその人の仕事は逮捕まで書いて終わっている。やがて転勤してゆく。判決が出た、有罪が確定した、冤罪が確定したときには書いた記者はどこかに行っちゃってるかもしれない。でも地元の下野新聞は「なぜ冤罪報道を犯してしまったのか」を丹念に検証しています。当時の取材記者にOBも含めて企画取材したものがネット上でも読めます(下野新聞連載「らせんの真実 冤罪・足利事件)
<“じょうご”>
いろんなところに雨を集める“じょうご”があるんです。これが言ってしまえば記者クラブです。その“じょうご”の位置も大きさも50年前と変わっていない。少なくとも1960年頃から殆ど変わっていません。経済、市政、警察の大きな“じょうご”で雨をすくい取ろうとしているんです。
でも雨の降り方、降る場所、風の向きは違ってるんです。土砂降りのところがあっても受け取る“じょうご”がない。雨はどんどん流れ込んでいるのに、取材者である我々は“じょうご”を持ったまま上ばかり見ている。足元がどうなっているか、足元の洪水の様子はわかっていない。昔からある“じょうご”を支えることだけで一生懸命なんです。今の調査報道か発表報道かという前に大きくメディアが問われているのは本当に今の社会の矛盾とかをすくい取るような取材体制とか取材の仕組みというものができているのかどうかを今一度考え直してみる必要がある。本当に変えようと思ったら明日からでも変えられる。
<コンテンツ>
実は取材する方と社会とが大きくズレてきているのではないか。新聞が面白くない最大の理由で、こんなもの読んでてもしょうがない。それならネットにいけば同じような情報があるわけです。発表ものならそうです。我々が官庁などの発表ものを記事にしているうちに、ナマの資料が官庁などのホームページに出ているわけです。じゃあ俺が作っている記事は一体誰が読むんだろうとむなしさを感じたことを忘れません。だから本当に大事なことは「この新聞を読んでいて良かった」というコンテンツの問題です。
よくネットが伸びれば報道が良くなるという話もありますが、それは大きな間違いです。紙はもうだめだという人もいます。媒体としては紙はだめかもしれませんが。要するに中身をどうするかです。誰も書いていない、どこも書いていない、でもこれは凄い話だという中身をどうすれば作ることができるかが、この先の報道各社の最大の問題になって来るんだと思います。おそらく各社も気付き始めていると思います。
<調査報道>
そこで大事になってくるのが一つの柱は調査報道であろう。では調査報道とは何か。定義なんかはありません。定義はないですが私の考えでは少なくとも一般の人が簡単にアクセスできない情報を記者が取り出してくる。その場合の取材相手はこの社会でパワーを持っている人、それは官公庁かもしれないし、司法、警察当局かもしれないし、大企業かもしれないし、或いは政治家個人であるかもしれない。とにかく社会で相当程度のパワーを持っている人、組織の情報を取材してくる。それをテーブルの上に出してみせる、それが調査報道の第一だと思います。もう一つ大事なことは「書きっぱなしにしない」ということです。
道警の裏金報道はテレビ朝日が2003年11月に最初に出しました。その時私が最初に考えたことは、「これを追っかけるけど警察に認めさせよう」、それが大事なんだという目標を言いました。実は警察の裏金は北海道で初めて表に出たわけでも何でもありません。過去の報道を見てみると、毎日新聞が熊本県警の元副署長のことを書いています。全国には広がっていませんでしたが、副署長が裏帳簿つきで裏金がありましたと出てきています。同じく毎日新聞が兵庫県警を、北海道新聞も長崎県警の刑事が自分の関わった裁判で、実は県警は裏金を作っていたと話したことを記事にしています。警視庁でも裏金問題の裁判、民事訴訟が起きている。1984年には警察庁の次長まで努めた大幹部が著書の中で警察は裏金をやっていると書いています(松橋忠光「わが罪はつねにわが前にあり」=オリジン出版センター)。いろんなところで出ているんです。ある
意味常識なんです。
<“書きっぱなし”>
日本の新聞はある意味“書きっぱなし”です。例えば熊本県警で元副署長が裏帳簿と一緒に表に出てきて裏金がありましたと、新聞の一面にドーンと載るわけです。県警は否定して「そんなことはありません」で終わってるんです。その繰り返しなんです。そういう“書きっぱなし”でいいのかなと考えました。“書きっぱなし”というのは一種のガス抜きみたいなところがあって、書いた方が「満足」、書かれた方も「まあ仕方ないか」、そんなイメージです。
でも本当に事実があるんならとことん追及しなければいけない。私は報道で世の中が変わるというほどの楽天家ではない。報道で変わるとすれば戦争に一斉に進んだように悪い方に変えることの方がよほどありそうだ。それでも報道によって何か世の中を変えることができるとすれば、それは“書きっぱなし”じゃないんですよ。やはり書くことによって相手に「あなたの書いた記事の通りでした」と公の場で認めてもらわなければならない。そうしないと物事ってなかなかわからない。
しかし、そういうことは現実問題としてはなかなか起きない。自分たちが間違っていやことをやっていた、不正をやっていたということを改めるためには公にキチンと認めるところからスタートするんです。ですから調査報道に役割があり、意義を見出すことができるとすればその部分だろうと思います。だから裏金問題のときはキチンと認めてもらうまでやろうと思っていたわけです。途中から北海道新聞は「反警察キャンペーンをやっている」と言われました。そうじゃないんです。警察の中で自由に機動的に使うお金が必要があるならキチンと予算要求して確保すればいいんです。でも予算の使途は法律、法令、条令、その他いろいろな法律・法令の枠組みで決まっていて、議会が予算を承認して使い道の枠をはめている。裏金というのはその枠を勝手に外してしまうわけです。
<部数は力>
なぜ、北海道新聞は裏金報道ができ、道警に裏金の存在を認めさせることができたか。理由は2つあります。一つは認めるまでやめなかったこと。もう一つは当たり前といえば当たり前ですが、地元最大のメディアだからです。部数は力なんです。読売の渡辺恒雄さんは「部数は力だ」と事あるごとにいっています。その部数が今はじわじわ落ちている。取材力もどんどん劣化していて記事が面白くない。だんだん見放されている。新聞は崖っぷちのギリギリにいるんじゃないかという感じです。
部数が増えることがないにしても中身がしっかりしていれば低落をとめることができるのではないかと思います。だから部数は力なんです。部数が少ないミニコミ紙が書き続けても絶対こんなこと(裏金を公式に認めさせること)は起きません。それは逆に言えば週刊誌は暴くことはできますが、それを認めさせることはなかなか難しい。なぜなら週刊誌は週に一回しか出ない。毎日の報道はできない。週刊誌は閉じられた記者会見、閉じられた記者クラブを自由に歩くことはできませんから、毎日権力機関の中枢に入り込んで問いただすことができない。ここは大いに改めるべきだとは思っています。私は記者会見、記者クラブは完全フリーにすべきだとは思っています。取材目的を持っていれば誰でも自由にアクセスするのは当然だと思いますし、早く条件整備をしなければならない。
<組織の官僚化>
どうすれば組織的、構造的な問題を変えることができるのか。報道各社はもの凄く組織が官僚化してきています。公務員組織以上に公務員的であるとよく言われます。以前、NHKの女性国際戦犯法廷の番組改変問題、亡くなった中川昭一さんらがNHKに圧力をかけて番組を改変させたんじゃないかという問題が起きました。
先日、その時にチーフプロデューサーだった永田浩三さんとお会いしたんですが、その方が最近出した著書「NHK、鉄の沈黙はだれのために=柏書房、2100円」が抜群に面白いくていろんな方に勧めています。何が面白いかというと、今のメディアの問題がどこにあるかが非常に良くわかります。権力監視の報道が少ないとかいわれますが、根本的に突き詰めていくと組織と個人の問題だと書いています。組織の中枢に座っている人の建前、その下にいる人たちの建前が絡まってNHKが動いている。永田さんも自分が長いものに捲かれてきたとも書いています。
<“突破力”>
それらを考えると、いくら現場の人が調査報道が大事だと意気に燃えたとして、ジャーナリストにとって一番は取材力です。それから物事を分析したり、考えたり、見通したり、それをキチンと読み手にわかりやすく的確に伝える洞察力が必要です。しかし、組織の中で動いている“会社員記者”にとって、それに劣らぬくらい大事なのは“突破力”です。報道機関は権力と闘えとよく言われます。外から見ればそうかもしれません。
でも私が駆け出しの記者だったら自分のうえにいる先輩かキャップを説得しなきゃならない。まずはそこを突破しなきゃならない。そこを突破できたら今度はデスクです。大体年は上ですし頭が固いわけです。更に頭の固い部長をどうやって突破するか。そこが大きな問題です。会社員記者である以上は、それができないとダメです。若い人はそこのところで嫌になっちゃうんです。本当に取材がダメなのか、商品としての記事がダメで戻されているのか、デスクなり部長なり、編集局長なり上のほうの人の心情には何か違う思いが入ってたりするのではないか。それを見極める、問題の所在がどこあるか、そういう攻めぎ合いだと思います。その攻めぎ合いの中で肝心なところが揺らいでくる。ダメだと言われた方は「どうせこの会社はこんなものだ」、つき返した方は「最近の若い記者はダメだ。俺たちの若い頃はもうひとふん張りしたものだ」と、お互いにすれ違っている。それでも会社自体はうまく転がっていく。それがこの十数年くらいの報道の質の劣化の正体ではないかと思います。
<中央目線>
メディア業界に何人も知り合いがいますが、皆「お前なにやってるんだ」といわわれないくらいの仕事はしている。「きょう社会面あいてるぞ」といわわれれば、毒か薬かわからないが何がしかの記事を出すくらいの仕事はしている。そうやってその日その日を終わっている。もう新聞は死ぬんだ、新聞はダメだといわれながらも別に倒産が迫っているわけでもない。なら中身をしっかりしていくしかないわけです。中身についても向き合うところはたった一つしかないと思います。日本のメディアはこれまで権力と常に二人三脚で歩いてきました。時々は足元で噛み付いたり蹴ったりしていますが、向いてる方向は一緒なんです。高いところから下を見下ろしながら、同じような発想、志向で動いている。
実は東京で5年間勤務していましたが、90年代の終わり頃、日銀の記者クラブに所属していてある生命保険会社のシンクタンクの勉強会に出ました。シンクタンクの若い研究員が市町村合併についての研究発表をしていたんです。彼が「これからの自治体はどんどん合併をしなければ大変なことになる。特に北海道なんかは効率が悪いし、どこどこの町は香川県と同じくらいの面積に牛の方が多い」などと勝手なことをしゃべっているわけです。聞いているうちに段々腹が立ってきて、「あなたそんなことを言いますが、病人が出たらどうやって通うんですか、図書館もなくてどうするんですか」と聞くと、彼は「それが嫌なら移住すればいい、日本国憲法には移住の権利は保障されている」とか言うわけです。他の社はまた道新が噛み付いているみたいに聞いているわけです。
でもその時に思ったんですが、彼は北海道に行ったこともないんですよ、それなのになぜそんなことがいえるのかと言ったら、「その地域にいかなきゃ政策提言ができないというのが思いあがりだ」というんです。こういう中央目線、上から目線の人たちが圧倒的な情報を発信して、世の中のことを決めている。日本のメディアの殆どの情報が東京発です。
<読者のために書く>
日本の新聞は地方紙と全国紙をあわせて約5600万部といわれています。そのうちの過半数が全国紙です。地方紙の全国のニュースは通信社からの原稿ですから、物事の目線は常に東京発信になっている。札幌に戻ってきて厚田村におばあちゃんのコメントをもらう取材にいったんです。おばあちゃんは「月に2回病院に行くのに、バスの便が悪くて困っている」と言ったんです。その時に今までとんでもない勘違いをしていたなと感じたんです。読者のために書くというのはこういうことなんだと思ったんです。中央省庁で局長がどうしたとか、その人にいい記事だと言われて喜んでいたのは何だと思うわけです。圧倒的に多い普通の人たちのために何を読んでもらいたいかを考える。権力に寄り添う、権力と二人三脚するのではなく、本当に読者は何を考えているのかについて、もっと入り込んで記事を書く。我々はノウハウがあるわけですから、もっと力を発揮すれば、まだなんとかなるのではないかというおぼろげな希望はあると思っています。
<会場質問への回答>
全国紙であっても目線がしっかりしていれば問題ない。本当は普天間という一つの事象なのに首相官邸、外務担当、防衛担当、ワシントン駐在でみな違って書いている。普天間問題をテーマで追いかけている記者がいない。そこが大きな問題で、ますます蛸壺化してくる。僕は憲法は改正すべきではないと思ってるが、例えば「憲法改正」という列車が走っている。それがどういう色で、どんな機関車で、どんな形で、客車が何両つないでというのが皆見える。いろいろ評価できる。だから意見はいっぱいあっていいと思う。
でも僕らは取材者だから、論評の前にやることがある。機関車の中で石炭をくべている機関士はどんな名前で、どこの所属で、或いは石炭を供給しているのは誰で、停車場に泊まったときに水を供給するのは誰で、そのエネルギーはどこから来ているか、それを動かす金は誰が出しているかーそういう普通の人がなかなか簡単には見えないような情報を取ってきて出すのが仕事だろう。この機関車がいいとか悪いとか評価をし始めたり、論評だけに陥っていくと言葉の過激な人が最後に勝ってしまう。だから取材者である以上は、どうしてこの機関車は動いているのか、誰が燃料を供給しているのかを辿ってゆくことが記者の仕事なんじゃないかと思う。
by masayuki_100
| 2010-08-26 10:32