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ニュースの現場で考えること

第二次記者クラブ訴訟と私の陳述書

私の友人でもあるフリージャーナリストの寺澤有氏が、裁判所での判決取材に際し、裁判所から判決要旨の配布を拒まれたのは違法であるとして、第二次記者クラブ訴訟を起こしている。

訴訟については、ココ(ストレイ・ドッグ)が詳しいので、まずはそちらを。簡単に言えば、こういうことだ。

大きな裁判の判決では、判決要旨はふつう、記者クラブ側の事前要請に基づいて、裁判所が配布の可否を決定し、OKとなれば、クラブ加盟社に判決の言い渡し直後に交付する。ところが、寺澤氏はかつては松山地裁で(第一次記者クラブ訴訟)、最近は札幌地裁と東京地裁で、立て続けに判決要旨の配布を拒まれた。その理由は、「記者クラブ所属の記者ではない」というものであったことから、言論・取材の自由をおかすものであり、だいたいフリーというだけで区別・差別される筋合いはない、と怒って提訴したのである。

その裁判(後者の札幌地裁と東京地裁分)において、私は寺澤氏を支持する「陳述書」を提出した。きのう4月13日、東京地裁で口頭弁論があり、私が3月末に出していた陳述書も無事、「陳述」となったようだ。

法廷取材に関する私の考え方は、以前にも「フリーランス記者にも法廷取材に自由を<1>」 「フリーランス記者にも法廷取材の自由を <2>」で、ある程度展開している。

記者クラブの問題点は、すでに語り尽くされたと私は感じている。当該官庁等に情報開示を迫る「圧力団体」、フリーであれ会社員であれ記者を守る職能団体としての価値は、間違いなく存在するし、単に廃止すれば良いとも考えていない(もちろん現行のクラブ制度には大いに問題がある)。要は、これまでにさんざん語られた問題点をどう是正していくか、その方法論と実行が問われる段階に入ったと思う。種々の外圧等によって、いわゆる広報垂れ流しの受け皿としての記者クラブ、仲良しこよし的な記者クラブは早晩、間違いなく瓦解する。だからこそ、瓦解してめちゃくちゃになる前に(そうなると、ある意味、権力側には好都合な状態になる可能性も強い)、記者クラブの門戸を広げ、閉鎖性を打開していくことが何よりも重要だと考えている。

で、私の陳述書の内容は以下の通り。当然、陳述書の内容は、私個人のものである。事実誤認や浅はかな部分があるかもしれないが、現在のところ、考えをまとめたら、こういう内容になった。(なお、引用に当たっては一部固有名詞等を省く、または仮名を用いるなど表現を一部改めている)。




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東京地方裁判所民事部 御中                          
          
                       陳 述 書


私、高田昌幸は北海道新聞社の記者として、十八年間、取材活動を続けている者です。現在は本社編集局報道本部次長の職にあります。これとは別に、私は二〇〇四年度から札幌地方裁判所地方裁判所委員会(委員長は門野博・札幌地裁所長)の委員も務めております。
 本陳述書は、私の知人でもある本件損害賠償事件の原告寺澤有氏の訴えが、いかに正当なものであるかついて、記者クラブ制度とその弊害・矛盾、報道機関に属さないフリーランス記者(以下「フリー記者」)の重要な役割等を私の経験を踏まえて記したものです。

 なお、以下の内容はすべて一個人として記したものであり、勤務先の北海道新聞社の見解等とは無関係であることをあらかじめ申し添えます。


(1)「稲葉事件」取材の重要性

 ジャーナリストの寺澤有氏が本件損害賠償事件において、裁判所の「不法行為」としている事案のうち一件は、北海道を舞台とした、いわゆる「稲葉事件」と呼ばれる事案である。この事案は、北海道警察本部元警部の稲葉圭昭に対する覚せい剤取締法違反(営利目的所持、所持、使用)及び銃砲刀剣類所持等取締違反(拳銃所持)の刑事被告事件であり、北海道警察の現職警部が覚せい剤の密売等にかかわったとされただけでなく、北海道警が組織的に関与していた可能性も取り沙汰されていた。
 札幌地方裁判所が二〇〇三年(平成十五年)四月二十一日午前に言い渡した稲葉事件の判決は、こうした北海道警の組織的関与を認定しなかったが、稲葉事件は公判前から「日本警察史上、有数のスキャンダル」として耳目を集め、道民だけでなく、多くの国民が高い関心を持って推移を見守っていた。そうした関心の高さは、刑事被告事件の判決当時、北海道新聞社報道本部のデスクとして勤務していた私自身が強く感じていた。
 報道に携わる者からすれば、稲葉事件を取材・報道することは、報道の本義である「社会性・公益性」に応えるものであり、少しでも警察問題等に関心を持つジャーナリストであれば、稲葉事件の判決公判は取材対象として絶対に欠かすことのできないものであった。


(2)一次資料としての「判決要旨」

 二〇〇三年四月二十一日の判決公判においては、北海道司法記者クラブの加盟社を対象に札幌地裁より判決要旨が配布された。地元紙や通信社、全国紙は当該判決を大きく報道したが、その際、正確性等を担保するために判決要旨を最大限利用した。さらに、各紙とも分量を短縮しながらも判決要旨を紙面で掲載したが、そうした報道は稲葉事件への関心の高さを考えれば、当然の判断だったと言える。
 ところで、各新聞が掲載した稲葉事件の判決要旨を比較すると歴然とするのだが、判決要旨は裁判所が配布したものと全く同一の文言で新聞紙上に掲載されてはいない。新聞社や通信社は紙幅の制限があり、それぞれの編集上の判断によって、たとえ判決要旨であっても、その趣旨を変えない形で短縮して掲載するのが普通である。紙幅の都合や紙面制作の時間的な制約等から、交付された判決要旨の文字数を半減させて紙面掲載する例も珍しくない。
 一方、新聞各紙に掲載される判決要旨は、新聞社側によって加工(短縮)されているケースが少なくないうえ、どの部分がどう削除されたか等の実情は、部外の読者には俄かに判断できない。従って、稲葉事件の判決公判を取材した寺澤有氏が札幌地裁に対し、一次資料としての判決要旨の交付を願い出たのは、取材者として当然の行為だったと言える。
 一般に、取材・報道活動は、多くの取材記者がそれぞれ別個の関心を持って取り組んでおり、同一の取材対象であっても、各々の記者は違った興味・関心を持ち、独自の視点から取材活動を行っている。その「自由な取材活動」こそ、多様な言論を保障するものであり、民主主義の基盤を成すものであることには誰も異論はあるまい。
 従って、真摯に取材活動を行うのであれば、誰かの手によって、いずれかの部分が削除された可能性が強い判決要旨を基礎資料として、取材を行うことは大きな危険性をはらむ。一次資料としての判決要旨を読むことなく、判決取材を行い、報道することに対しては、フリー記者であれ、記者クラブ加盟社の記者であれ、大きな躊躇を感じるはずだ。一歩間違えば、自らの書く記事が大きなミスリードをしかねないからである。
 本件の対象となった稲葉事件の判決で、その判決要旨の配布を寺澤氏は札幌地裁に要請しているが、真摯な報道姿勢を持つ記者ならば、一次資料たる裁判所配布の判決要旨を求めるのは当然である。
 なお、付言すれば、稲葉事件はそもそも、その内容を社会に広く知らしめることで特定の者が精神的被害を受けたり、名誉を毀損されたりする事案ではなかった。従って、仮に裁判所が、プライバシー問題が生じることを懸念して、フリー記者に判決要旨配布を拒んだとしても、それは正当な理由ではない。



(3)判決内容の周知は国民に対する裁判所の義務

 ふつう、判決要旨については、当該記者クラブが事前に要請し、その要請に基づいて、担当裁判官や合議体が判断している。その手続き等は各地で若干の差異はあっても、大筋は全国同一はず、と私は認識している。
 ところで、そうした判決要旨の配布に関し、裁判所側が「義務ではなくサービス」であるとの見解を示すことが、ままある。しかし、こうした主張は国民の裁判所に対する期待および裁判所が現に目指している「開かれた司法」に逆行した判断であると言わざるを得ない。
 裁判とその判決の役割は、憲法で保障された権利を国民が等しく享受できているかどうかを見極めることにある。裁判はもちろん、第一には訴訟当事者に対して行われるものであるが、社会性・公益性の高い裁判とその判決は、広く社会全般に大きな影響を与えることは論を待たない。実際、各地の裁判所が記者クラブ側の要請によって判決要旨の配布を現に実行しているのも、それぞれの判決の重大性に鑑み、広く、速やかに、判決結果を国民に知らせる必要があると裁判所自身が判断しているからに他ならない。

 社会構造が複雑になり、種々の紛争や事件が絶えない現在、裁判所に対する国民の期待は極めて高い。そうした状況下で、万が一、裁判所が「サービスを中止する」と言って判決要旨の配布を中止すれば、どのような事態になるであろうか。
 私の経験では、非公式な場ではあるが、多くの裁判官が判決要旨を配布する意味と意義について、「社会性・公益性の高い裁判では、義務的な要素を持つ」との考えをもっていた。確かに、法的規定が無いという意味においては、確かに判決要旨の配布は義務ではないかもしれない。しかし、社会性・公益性のある判決を、経験豊かな、かつ独自の視点で、広く社会に伝えようとしているジャーナリストに対し、「義務ではない」ことを理由に判決要旨の交付を拒んだとしたら、裁判所は判決要旨配布の意義を自ら否定したことになりはしないか。


(4)所属による取材記者の区別は無意味

 現在、報道界では現在、大きな地殻変動が起きている。新聞を定期購読しない「無読層」が増大するなどして、各新聞とも部数の減少や停滞が顕著になってきた一方、インターネット上でニュースを読む人が増大している。また報道する側も既存の新聞社やテレビ局だけでなく、インターネット専門のニュースサイトも多数登場するようになった。もちろん、種々の雑誌も継続して存在している。つまり、ニュースを伝える手段は極めて多様になってきたのであり、この傾向は強まることはあっても、弱くなることはあるまい。
 そうした現状をつぶさに観察した際、「記者」を「記者クラブ加盟社所属の記者」に限定する合理的な理由がどこにあるだろうか。
 実際、日本新聞協会も、こうした区別については疑問を投げ掛けている。
 二〇〇二年(平成十四年)一月十七日、日本新聞協会は「記者クラブに関する日本新聞協会編集委員会の見解」を発表した。その「見解」は、記者クラブの開放性について「可能な限り『開かれた存在』であるべきだ」としてきた従来の原則を引き継いだ上で、「日本新聞協会加盟社とこれに準ずる報道機関から派遣された記者など」で構成される、と結論付けた。
 さらに、この「見解」に添付された「解説」では、記者クラブを開放するに際し、外国報道機関に加えて、「報道活動に長く携わり一定の実績を有するジャーナリストにも、門戸は開かれるべきだろう」との姿勢を示している。この見解は(当たり前のことではあるが)、協会加盟社の所属記者でなくても、きちんとその業績を評価すべきであると宣言しているのであって、記者クラブ加盟社の記者か否か等によって、記者を区別することの愚かさを指摘したものである。
 この指針に沿えば、本件原告の寺澤有氏が「報道活動に長く携わり一定の実績を有するジャーナリスト」であることは、疑う余地がない。
 もとより、会社員新聞記者であろうが、個人営業記者であろうが、雑誌記者であろうが、記者には変わりがない。それどころか、最近では新聞・テレビは例えば、権力機構の不正を追及し、それを正す力を急速に失ってきた。その一方で、雑誌記者やフリー記者は、政治家や企業等の不正に目を光らせ、国民の立場に立った記事を意欲的に発表している。本件原告の寺澤有氏もこうした輪の中に居る、優秀なフリー記者である。


(5)記者クラブも開放へ取り組み

 既に述べたように、報道手段がますます多様化する現代においては、大手新聞社やテレビ局だけが「記者」として活動しているわけではない。
 新聞協会が示した二〇〇二年の「見解」は一種の指針であり、それぞれの官公庁や団体、地域で個別に組織された記者クラブの運営を一律に束縛するものではない。また本件における原告寺澤有氏の主張も裁判所の不法行為を問題にしているのであって、記者クラブの開放性の問題は直接的には本件の争点ではないかもしれない。
 しかし、日本新聞協会の新たな見解に沿うように、各地の司法・裁判所記者クラブでは、種々の動きが始まっている。そうした動きはまだ萌芽であり、十二分ではないが、各地の記者クラブが曲がりなりにも開放へ向けた取り組みに着手している中で、裁判所側が記者クラブ加盟社の記者かどうかで線引き・区別を行い、それに基づいて対応に差を付けている現状は、そうした動きに逆行するものであり、「開かれた裁判所」を目指す裁判所には似つかわしくない判断と言える。


(6)「開かれた裁判所」をもっと

 ところで、冒頭で記したように、私は二〇〇四年度から札幌地方裁判所地方裁判所委員会の委員を委嘱されている。同委員会は、裁判所の運営や広報等について議論し、意見を裁判所側に伝え、ひいては「開かれた裁判所」の実現に資する狙いがある。私も各回の委員会においては、いかにして「開かれた裁判所」を実現するかについて、報道する側の立場から考え方等を表明してきた。
 同委員会は、公開された議事録以外の内容については対外的に明らかにしない取り決めとなっており(ただし、これを取り決める際の初回委員会で、私は強く原則全てを公開するよう強く主張し、最終的には私のその発言を私の名前入りで公開議事録に記載することで合意した)、そこでの議論の内容には、ここで言及しない。
 しかし、裁判員制度の導入などで国民と裁判所の距離が、今後ますます近づき、また近づくことが必要とされている点は、何度でも強調しておきたい。
ただし、裁判員制度等の導入が進めば、国民と裁判所の距離が「自然に」近くなるわけではない。双方の距離を近づけるためには、互いを結ぶ「パイプ」役、すなわち報道の役割がますます重要になってくる。いくら通信手段等が発達したとしても、国民が知る「裁判」「裁判所」の姿は、報道を通じてのそれが大半であろう。
 おそらく、本件損害賠償事件で寺澤有氏が指摘したような実態、つまり、裁判所が「記者クラブ加盟社の記者かどうか」によって、判決要旨の配布を受けられるかどうか等の「差別」が存在していることは、ほとんど知らないと思われる。残念ながら、本件提訴の際も全国紙等は、提訴をほとんど報道せず、新聞では北海道新聞などわずかな新聞が報じたに過ぎない。もし、多くの国民がその実態を赤裸々に知ったならば、恐らく、仰天するに違いないと思う。それほどまでに、寺澤氏に対する裁判所の判断は、情報開示が進む社会の常識から外れている。


(7)むすび

 私自身は札幌で取材活動を続けていることもあって、本件で不法行為の当事者とされた札幌地裁総務課のA氏も、よく承知している。これは私の想像であるが、同地裁の広報担当者として、日常的に多くの記者と接しているA氏は、寺澤氏の要請に対し、本来はもっと柔軟な対応をしたかったのではないかと思う。私の知るA氏は「開かれた裁判所」の実現に向けて、とても熱心であり、かつ柔軟な発想を持っているからだ。そして、そうした考え方は、裁判所委員会やその他の場所で接する裁判官、司法関係者も同じであると、私は強く思っている。
 問題は、そうした裁判官や裁判所職員の柔軟な発想が、一個人ではなくて、わが国の裁判所総体の判断として発露されるかどうかにある。
 先述したように、記者クラブ制度の閉鎖性については、各報道機関によって各地で種々の改革が緒に就こうとしている。日本新聞協会もすでに、フリー記者の重要性を認めた。そうした流れの中にあって、仮に、本件訴訟において、裁判所が「フリー」というだけで、差別的な扱いをしたことを肯定すれば、報道に携わる者だけでなく、広く国民一般が大きな失望を覚えることは、疑いようが無い。
 「開かれた裁判所」の実現を真摯に願うのは、裁判所もすべての記者も、そして国民も、まったく同じである。
 本件訴訟においては、そうした社会の動きを見失うことなく、わが国の裁判所全体の範となるような判決を期待しているし、実際、そのような判断が下されると信じている。


 2005年3月28日
  


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by masayuki_100 | 2005-04-14 11:25 | ■ジャーナリズム一般