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ニュースの現場で考えること

検察の「伝統」

小沢氏疑惑の一連の報道を眺めながら、あらためて検察・警察の捜査とはなんぞや、といったことをつらつら考えている。

魚住昭氏の「特捜検察の闇」の中に、こんな一節が出てくる。大阪・東京両地検で特捜部の検事だった田中森一氏が、大阪地検特捜部で大阪府庁の贈収賄事件を捜査していた1985年ごろの話である。大阪府では、1979年まで知事は黒田了一氏だった(1期目は社会党と共産党推薦、2期目は共産党推薦)。

<以下引用>
……強制捜査の着手には上司の決裁が必要だ。田中は手書きの報告書を携えて検事正室へ行った。当時の検事正は「ライオン丸」というあだ名の強面の男だった。
 田中は報告書を差し出し、捜査経過を説明し始めた。検事正はさっと報告書に目を通した後、両切りのピースを一本取り出した。それでテーブルをとんとんと叩きながら、いきなり怒鳴った。
 「たかが5000万円(のわいろ=高田挿入)で、お前、大阪を共産党の天下に戻すんかァーッ!」
 共産党系の黒田府政は79年に終わり、自社公民推薦の岸府政が誕生していた。
 「共産党に戻ろうがどうしようが、私には関係ありません。事件があるから、やるんです」と田中が答えた。
 「そんなことは聞いておらん。共産党に戻すかどうか聞いとんのや!」
 結局、いくら食い下がっても検事正は強制捜査の着手を許さなかった。田中が当時を振り返って言う。
 「それでも諦めきれずにY(収賄が疑われた府幹部=同)の捜査を続けてみたけれど、本人が癌の診断書を出して入院してしまった。上司に呼ばれ『お前、余命いくばくもないやつをいじめてどうするんや、それが検事の仕事か』と責められるし、事務官たちは『田中の仕事を手伝うな』と指示が出るわで、結局、手を引かざるを得なかった。もちろん、癌なんて嘘っぱち。Yは今でもピンピンしてるよ」
 田中が初めて味わう挫折だった。そのときフッと頭をよぎったのが「いったい検察の正義ってなんや」という疑問だった。
<引用終了>

 田中氏はこの大阪府事案の前にも、政治家や公務員のかかわる事案において検察上層部からの圧力を受けた経験を持っていたようだから、この大阪府事案が検察不信の決定打になった。
 一方、同書には、こんな話も出てくる。上記の田中氏とは全く違う話だが、終戦間のない頃、特捜部設立に尽力し、後に検事総長になった馬場義続氏は、大蔵官僚の谷川寛三氏に対し、こう語ったというのである。これは谷川氏の著書からの引用である。
 「私が昭和40年(1965年)、関東信越国税局長になり、当時、検事総長だった馬場さんをときどきお訪ねしてご指導を受けたものだが、例えば、査察などについては、『谷川君、税も大事だが現在の安定日本の体制をひっくり返すようにならないよう、大所高所から判断するように』と言われたことであった」
 脱税を摘発するにしても、自民党政権の不利にならぬよう、そのへんはわきまえてやりなさい、という「指導」である。

 馬場氏の「指導」は1965年、田中氏の大阪府事案は1985年。その差、20年だ。「指導」の時代に若い検事だった人は、「大阪府事案」のころは幹部級になっていたはずだ。で、例えば、1985年ごろに任官した検事もまた、今現在、そろそろ幹部クラスである。そういう中で、組織は「伝統」をつくり、受け継いでいく。

 そういう点で思うことが一つ。
 今の「小沢氏疑惑」については、「田中角栄時代からの田中派的なものと検察との最終戦争」といった論評がなされている。ロッキード事件以降、東京地検特捜部が摘発した国会議員・閣僚は、ほとんどが田中派・経世会系であり、清和会系はほとんど挙げられていないから、その見立てはなるほど、そうなんだろうな、と思う。
 ただ、あまりにも政治的な臭いがする今回の検察の動きに関しては、私はちょっと違う感じも抱いている。それは「労組」である。1970年代までの総評のような、ある種の戦闘的労組とはまったく違うが、「連合」も労組は労組である。日教組やら何やらも含め、労働組合が与党を支える側になった。そこに何か、大きなポイントがあるような気がしてならない。民主党がマニフェストで取り調べの可視化推進をうたったことも、なるほど検察を刺激していよう。しかし、特捜検察誕生のころからの検察の思想的な流れを視野に入れると、彼らの「伝統」を背景にした風景も見えてくる。

 だから、仮に私が検察幹部だったとしたら、小沢氏の次に狙うのは、労組をバックにした民主党の
有力政治家である。そして、その過程では「労組と民主党の醜い関係」をマスコミを使って喧伝する。
by masayuki_100 | 2010-01-21 11:54 | 東京にて 2009