2005年 03月 30日
広がる警察の匿名発表
情報流通促進計画さんが、自身のブログで「匿名発表が広がっている」というエントリを書かれている。青森県警が2003年4月から、交通事故について、過失割合の少ない第二当事者(被害者など)について、匿名で発表する方針を打ち出したことなどを例示し、匿名発表が広がることへの懸念を示した内容だ。
青森県警のケースは、まさにその青森で2003年9月に開かれたマスコミ倫理懇談会(新聞、テレビ、雑誌などの記者が参加し、年1回、各地で開催されている。青森の会合は数百人参加した)でも随分と議論になった。会場では、神奈川県などでも匿名発表の傾向が強まっていることが報告され、全体としては、警察の秘密主義に強い懸念を示すまとめになった。
その懸念は当然だと思う。何をどう報道するかの判断は、報道する側が行うのであって、警察当局や行政機構等が行うのではないからだ。
したがって、警察に限らず、行政等の行為は極力、情報開示されなければならない。
行政機構や政治、司法警察当局等がそれぞれに法律に基づく権限を与えられているのは、国民の付託によるものであって、それらを恣意的・裁量的に使ったり、発表内容を自らに都合の良いことに限るなどしてはならない。警察の場合、ジャーナリズム考現学さんが提唱している「逮捕公表の法制化」もない現状では、何を発表するか、どういう内容まで公表するか等は、すべて警察側の判断で行われている。これは決して好ましいことではない(もっとも逮捕がすべて公表された場合、いまのメディア状況、社会風潮の中では、そうした情報は被疑者に関する興味本位的、覗き趣味的に扱われる危険も大きい)。
ここから先は私の推測も混じっているが、おそらく警察は神奈川県警や新潟県警、埼玉県警等々で大掛かりな組織的不祥事が発覚した1990年代末ごろから、メディアに対する情報統制、および選別姿勢をかなりのスピードで強めている。それら不祥事は後に警察刷新会議の提言、それに伴う関連法の改正という形になっていくが、このころから、状況は目に見えて変わったように思う。もちろん、その大きな原因は、事件のたびに「犯人探し」「被害者いじめ」「過剰報道」などを続け、結果として「報道被害」に無策だったメディア側の責任がある。
かつて西日本新聞が、「容疑者の言い分」報道を続けたことがある。まだ起訴に至っていない容疑者について、容疑者と接見した当番弁護士から話を聞き、捜査当局が不当な調べを行っていないか等を報道するためである。ところが、しばらくすると、他紙は当番弁護士から取材した内容を警察側に伝え(もちろん信義に反している)、或いは「容疑者は犯行を認めていない」ことをもって「反省していない」式の報道を行うなどした。「ご注進、ご注進」であり、記者は結局、警察と同じ目線でしか取材できないことを関係者は自覚することになってしまったのだ。捜査の適正さをチェックするはずだった取材は、その結果、警察への「弁護士側との信頼関係が崩れ、事実上雲散霧消してしまった記憶がある。
つまり、これまでは「逮捕情報を知ることが権力チェックにつながる。その第一歩だ」とか言いながら、実際の取材・報道はそういった方向にほとんど向かっていなかった現実がある。被害者やその家族は「報道被害」から守ってほしいと警察に訴え、警察がそれに応えている形である。たぶん、派手でセンセーショナルで、津波のように押し寄せる報道関係者は、被害者にとっては、ある意味、「敵」になってしまっている。そこを警察は突く形になった。
一方、公式的には匿名発表であっても、各社が個別の取材力でその名前を確認できていたので、現実にはメディア各社は困らなかった。匿名で公式発表された被害者らの名前すら割り出すことができないで、何が記者か、というわけだ。それはある意味、真理であり、その程度の取材ができなくてどうする!との思いは、私の同年代の記者はみんな抱いているだろうと推察する。そして、その一方では、公式には発表されていない要素を独自の取材活動で取材できている限り(=一方的にりーくしてもらう形)、メディア各社は現状に安心してしまう。記者クラブは本来、当局に対して情報を出すよう迫る「圧力団体」としての側面があるが(もちろん現実はそうなっていない)、とりあえず、リーク頼みで事が上手く運んでいる場合は、各社が一致して繰り返し繰り返し、匿名発表を止めるよう働きかける動きは、なかなか出てこない。
現状の取材方法・実態、報道内容には大きな問題があるが、事件事故取材の基本は(ほかの分野でも同じことだが)、いかにして当事者に取材するか、或いは当事者に近い人から取材するか、反対側の人から取材するか、といった部分にある。警察発表やリーク情報だけでは、加害者や被害者の声は、どこまで行っても「間接情報」でしかない。もちろん、被害者側への接触に際しては、方法や時期等について慎重に検討する必要があるし、性的犯罪の被害者には原則、接触すべきではない。加害者については、その肉親や親族らに対し、連帯責任を求めるような取材・報道は避けるべきだと思う。問題は、加害者等にしろ、被害者等にしろ、それらの関係者にしろ(時期や方法は別にして)、本当は言いたいことが山のようにあるのではないかと言うことだ。しかし、現実はそうした声に冷静に耳を傾け、話をきちんと聞いて、言いたいことよりも、警察情報に大きく依存した形で、いわば捜査側の目線で取材・報道が行われすぎていると思う。
ただ、自分でこんな話を書いておきながら、ではあるが、匿名発表の拡大をどう止めるか、の現実論はなかなか難しい。
長期的視野で考えれば、警察と一体化し、警察の目線で事件を取材する姿勢を改め、市民を敵にしない形の報道を築き、それと同時並行で、各社が個別利害を離れて、情報をオープンにするよう「圧力」をかけていく必要があると思う。「報道の判断は報道側が行うのであって、警察が行うのではない」という姿勢を貫くしかない。しかし、そのためには、逮捕だけを報道して、加害者を犯人扱いし、被害者のプライバシーを暴いたりする、、、そんな今の状況を明確に変えねばならない。一つ前のエントリ「再び、『きょう逮捕へ』について」でも記したが、警察による恣意的・選別的発表にブレーキをかけるには、報道する側が「ペンを持った警察官」であることを止め、「逮捕だけ」「警察発表やリークにもとづくだけ」といった報道から脱却しなければならない、と思う。そうでないと、おそらく読者の支持は得られない。
短期的には、数年後に導入される起訴前の容疑者段階での国選弁護人の導入に際し、弁護士取材(被疑者側の言い分を聞く)を定型化する必要があるのではないか。また、裁判取材の比重を高め、逮捕という「上流」だけでなく、一連の刑事司法の「下流」もきちんと見届ける必要があると思う。
要は、事件事故取材は警察取材とイコールではない、ということだ。事件「を」伝えるよりも、事件「で」何を伝えるか、にあると思う。
青森県警のケースは、まさにその青森で2003年9月に開かれたマスコミ倫理懇談会(新聞、テレビ、雑誌などの記者が参加し、年1回、各地で開催されている。青森の会合は数百人参加した)でも随分と議論になった。会場では、神奈川県などでも匿名発表の傾向が強まっていることが報告され、全体としては、警察の秘密主義に強い懸念を示すまとめになった。
その懸念は当然だと思う。何をどう報道するかの判断は、報道する側が行うのであって、警察当局や行政機構等が行うのではないからだ。
したがって、警察に限らず、行政等の行為は極力、情報開示されなければならない。
行政機構や政治、司法警察当局等がそれぞれに法律に基づく権限を与えられているのは、国民の付託によるものであって、それらを恣意的・裁量的に使ったり、発表内容を自らに都合の良いことに限るなどしてはならない。警察の場合、ジャーナリズム考現学さんが提唱している「逮捕公表の法制化」もない現状では、何を発表するか、どういう内容まで公表するか等は、すべて警察側の判断で行われている。これは決して好ましいことではない(もっとも逮捕がすべて公表された場合、いまのメディア状況、社会風潮の中では、そうした情報は被疑者に関する興味本位的、覗き趣味的に扱われる危険も大きい)。
ここから先は私の推測も混じっているが、おそらく警察は神奈川県警や新潟県警、埼玉県警等々で大掛かりな組織的不祥事が発覚した1990年代末ごろから、メディアに対する情報統制、および選別姿勢をかなりのスピードで強めている。それら不祥事は後に警察刷新会議の提言、それに伴う関連法の改正という形になっていくが、このころから、状況は目に見えて変わったように思う。もちろん、その大きな原因は、事件のたびに「犯人探し」「被害者いじめ」「過剰報道」などを続け、結果として「報道被害」に無策だったメディア側の責任がある。
かつて西日本新聞が、「容疑者の言い分」報道を続けたことがある。まだ起訴に至っていない容疑者について、容疑者と接見した当番弁護士から話を聞き、捜査当局が不当な調べを行っていないか等を報道するためである。ところが、しばらくすると、他紙は当番弁護士から取材した内容を警察側に伝え(もちろん信義に反している)、或いは「容疑者は犯行を認めていない」ことをもって「反省していない」式の報道を行うなどした。「ご注進、ご注進」であり、記者は結局、警察と同じ目線でしか取材できないことを関係者は自覚することになってしまったのだ。捜査の適正さをチェックするはずだった取材は、その結果、警察への「弁護士側との信頼関係が崩れ、事実上雲散霧消してしまった記憶がある。
つまり、これまでは「逮捕情報を知ることが権力チェックにつながる。その第一歩だ」とか言いながら、実際の取材・報道はそういった方向にほとんど向かっていなかった現実がある。被害者やその家族は「報道被害」から守ってほしいと警察に訴え、警察がそれに応えている形である。たぶん、派手でセンセーショナルで、津波のように押し寄せる報道関係者は、被害者にとっては、ある意味、「敵」になってしまっている。そこを警察は突く形になった。
一方、公式的には匿名発表であっても、各社が個別の取材力でその名前を確認できていたので、現実にはメディア各社は困らなかった。匿名で公式発表された被害者らの名前すら割り出すことができないで、何が記者か、というわけだ。それはある意味、真理であり、その程度の取材ができなくてどうする!との思いは、私の同年代の記者はみんな抱いているだろうと推察する。そして、その一方では、公式には発表されていない要素を独自の取材活動で取材できている限り(=一方的にりーくしてもらう形)、メディア各社は現状に安心してしまう。記者クラブは本来、当局に対して情報を出すよう迫る「圧力団体」としての側面があるが(もちろん現実はそうなっていない)、とりあえず、リーク頼みで事が上手く運んでいる場合は、各社が一致して繰り返し繰り返し、匿名発表を止めるよう働きかける動きは、なかなか出てこない。
現状の取材方法・実態、報道内容には大きな問題があるが、事件事故取材の基本は(ほかの分野でも同じことだが)、いかにして当事者に取材するか、或いは当事者に近い人から取材するか、反対側の人から取材するか、といった部分にある。警察発表やリーク情報だけでは、加害者や被害者の声は、どこまで行っても「間接情報」でしかない。もちろん、被害者側への接触に際しては、方法や時期等について慎重に検討する必要があるし、性的犯罪の被害者には原則、接触すべきではない。加害者については、その肉親や親族らに対し、連帯責任を求めるような取材・報道は避けるべきだと思う。問題は、加害者等にしろ、被害者等にしろ、それらの関係者にしろ(時期や方法は別にして)、本当は言いたいことが山のようにあるのではないかと言うことだ。しかし、現実はそうした声に冷静に耳を傾け、話をきちんと聞いて、言いたいことよりも、警察情報に大きく依存した形で、いわば捜査側の目線で取材・報道が行われすぎていると思う。
ただ、自分でこんな話を書いておきながら、ではあるが、匿名発表の拡大をどう止めるか、の現実論はなかなか難しい。
長期的視野で考えれば、警察と一体化し、警察の目線で事件を取材する姿勢を改め、市民を敵にしない形の報道を築き、それと同時並行で、各社が個別利害を離れて、情報をオープンにするよう「圧力」をかけていく必要があると思う。「報道の判断は報道側が行うのであって、警察が行うのではない」という姿勢を貫くしかない。しかし、そのためには、逮捕だけを報道して、加害者を犯人扱いし、被害者のプライバシーを暴いたりする、、、そんな今の状況を明確に変えねばならない。一つ前のエントリ「再び、『きょう逮捕へ』について」でも記したが、警察による恣意的・選別的発表にブレーキをかけるには、報道する側が「ペンを持った警察官」であることを止め、「逮捕だけ」「警察発表やリークにもとづくだけ」といった報道から脱却しなければならない、と思う。そうでないと、おそらく読者の支持は得られない。
短期的には、数年後に導入される起訴前の容疑者段階での国選弁護人の導入に際し、弁護士取材(被疑者側の言い分を聞く)を定型化する必要があるのではないか。また、裁判取材の比重を高め、逮捕という「上流」だけでなく、一連の刑事司法の「下流」もきちんと見届ける必要があると思う。
要は、事件事故取材は警察取材とイコールではない、ということだ。事件「を」伝えるよりも、事件「で」何を伝えるか、にあると思う。

by masayuki_100
| 2005-03-30 16:56
| |--逮捕予告は権力監視?