ブログトップ

ニュースの現場で考えること

「自殺」はなぜニュースにならないか。

盛夏の前、ある大学でジャーナリズムを学ぶ学生さんたちを相手に講演したり、ゼミで話したりする機会があった。ロンドンでの仕事のことや最近の報道に関することなど、あれやこれやを話したのだが、そうした中で私が最も力入れた話題の一つが「事件報道」である。

なぜ、「事件」はニュースになるのか。

政治家や官僚、大企業など、いわゆる「権力を持つ人」が絡む犯罪は当然、ニュースになる。これに異論はあるまい。また、末端の公務員等がその職務に関して何らかの犯罪に手を染めた場合もニュース価値はある。私が問題にしたのは、そうしたケースではなくて、一私人の、チンケな犯罪について、である。新聞をひもとくと(ネットもそうだし、テレビもそうだが)、単純な窃盗、傷害、万引きと紙一重のコンビニ強盗(事後強盗)、ハレンチ罪など、あらゆる犯罪がニュースになっている。当事者や近親者ら以外はほとんど関心を持ちそうもない事件が、活字や映像になって流れる。

ところで、一般人の自殺はどうして報道されないのだろうか。有名人が当事者だった場合などは、自殺もニュースになる。連載企画やルポものでも、自殺が取り上げられることは多い。しかし、たいていの場合、自殺に関するストレートニュースは「年間3万人を超えた」といった数字や統計である。一般人の個々の自殺がニュースになることは、事実上ない。

自殺を報道しない理由については、ふつう、「本人の意志によるものであって事件ではないから」「故人の名誉にかかわるから」などの説明がされる。自殺の事実を知られたくない近親者も多いから、この説明は理にかなってはいる。しかし、本当にそれで良いのだろうか。報道しない「実際の」理由は、本当にそれだけなのだろうか。

こんなことを書くのは、個々のストレート・ニュースを考える場合、少なくとも今の日本社会においては、窃盗やケンカの延長線上のような傷害事件などよりも、自殺の方がはるかにニュースとして扱うべき要素が多いのではないか、と感じるからだ。自殺の多くは、生活苦に起因していると云われる。実際、種々の統計などを見ても、「生活苦」が自殺の大きな原因である。交通事故による死者が急増した1970年頃、日本では「交通戦争」という言葉が使われ、新聞社も種々のキャンペーンを貼った。そのころの年間死者は全国で1万人超。これに対し、自殺者はいま、年間3万人超である。

自殺報道によって、自殺者のプライバシーを暴け、と言っているのではない。

例えば、全く仮の話だが、「埼玉県南部で8日夜、30代の男性会社員が排ガス自殺した。遺書によると、男性は最近、勤務先を解雇され、再就職もできず、将来を悲観していたという」というだけでも良い。「生活苦」+「自殺」が重なれば、(ベタ記事にしかならないだろうが)報道する価値はあると感じる。少なくとも、細かな事件(=微罪)の逮捕原稿などよりも、意味はある。実際、この数年間、「生活苦」に起因する自殺のベタ記事が、連日報道されていれば、「小泉改革」なるものの正体は、もっと早くに国民全体に認知されていたのではないか、とも思う。

「死亡交通事故の記事は載るのに、一般人の自殺はなぜ報道されないか」「チンケな犯罪は実名付きで新聞に載るのに、なぜ自殺は報道されないか」という最初の疑問に立ち返れば、私の回答は、たった一つである。それは警察が発表しないからだ。警察は逮捕事案をすべて発表するわけではないが、そこそこのもは発表する。だから、それは(新聞社やテレビ局による取捨選択の後)ニュースになる。交通事故も死者や重傷者が出るようなものは、警察が発表する。だから、ニュースになる。各社はそれぞれに「自殺を報道しない理由」を内部で定めているはずだが、そういう表向きの理由とは別に、現場での感覚で云えば、自殺報道をしない理由は「発表されないから」が実感だと思う。ひとことで云えば、「習い性」「前例踏襲」がそこにあるのだと思う。

しかし、「発表がない」と「ニュース価値がない」は、当たり前の話だが、同義ではない。しかも、記者であれば、社内の掲載基準すら常に疑ってかかるのが当然である。

そう考えて行くと、最終的には「ニュースとか何か」という問題に行き着く。「ニュースはだれが決めているのか」という問題にも行き着く。自殺のような繊細な事柄も含めて「役所は情報をどこまで公開すべきか」という問題にもなる。今度、どこかで学生さんたちと議論する場があれば、このテーマでじっくりと意見を交わしてみたいと思う。
by masayuki_100 | 2009-09-09 14:31 | 東京にて 2009