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ニュースの現場で考えること

米紙、日本メディアのヘタレぶりを大批判

民主党・小沢前代表の秘書が逮捕された事件に関連して、ニューヨーク・タイムズが、日本メディアのヘタレぶりを記事にしている。欧米の新聞にも相当にひどいものはあるし、「さすがニューヨーク・タイムズ」とか無原則に褒めるつもりはないが、こういう記事を読むと、やはり、ため息の連続である。

記事は、「In Reporting a Scandal, the Media Are Accused of Just Listening」というタイトルで、原文はここにある。内容については、「金融そして時々」さんのブログ記事、 「ニューヨーク・タイムズ、検察に媚びる日本の新聞を切る」に詳しい。要するに、「小沢スキャンダルのとき、日本のメディアは検察当局からのリークを垂れ流しただけじゃないか」というものだ。検察の捜査に疑問を差し挟む報道はほとんどなかったじゃないか、と。この記事の中で、上智大学の田島教授は、メディアは本来、権力の監視者(watchdogs on authority)であるべきなのに、実際は権力の擁護者=番犬( like authority's guard dogs)のように行動している、と批判している。

そして、私が思うに、この記事の一番の読みどころは、ニューヨーク・タイムズ記者に対する朝日新聞の回答である。朝日は、書面で、こう答えたのだという。「“The Asahi Shimbun has never run an article based solely on a leak from prosecutors,” 」。朝日新聞は検察からのリークだけで記事を書いたことは決してありません、という内容だ。

そりゃ、そうかもしれない。検察からのリーク情報に基づいて記事を書くときも、一応、小沢事務所のコメントを取るとか、そういう作業はするだろう。この朝日の回答は、検察からのリーク「だけ」で書いたことはない、という「だけ」にある。逆に言えば、検察からのリークに寄りかかっていることは、何ら否定していない、ということだ。こんな子供じみた「言い訳」によって、「私たちは何ら検察寄りではありません」と言ったって、だれも信用などしない。こんなことを言っているから、読者に笑われる。

例えば、こんなことも頻繁に起きる。夜回り記者が、一線の現場検事から事件に関する情報を得たとしよう。ふつうはそれだけで記事にはしない。当然、検察上層部にその情報の確認を取る。これを業界内では「ウラを取る」という人がいるが、同一方向から同一内容の情報について確認を取ることが、なぜ「ウラを取る」ことになるのか、私は理解できない。しかも問題なのは、そうやって上層部に情報の確認を求める際、その過程で、現場検事からの情報は間違いなく、上層部によって「修正」され、検察全体にとって都合の良い情報に変わって行く、ということだ。

あるいは、現場の捜査検事が、記者に対し、小沢捜査の批判を行ったとする。しかし、そういう情報は滅多に記事にならない。そんな記事を書く記者は、地検側が「出入り禁止」にする。或いは、批判的な情報を漏らした検事は誰であるか、を徹底的に調べる。かつて私たちの取材チームが道警裏金問題を追及していたとき、道警側は徹底して、道警内部にいる我々の情報源を見つけ出そうとしていた。それと同じである。

話が脇にそれかけたが、世の中の人がいま、新聞に厳しい目線を向けているのは、「あんたたちは当局の言いなりで記事を書いているんじゃないの? ちゃんとその情報の検証をしたの?」という部分にある。それは、「この記事には小沢事務所のコメントも入っています。検察情報だけではありません」という風な、重箱の隅的な反論によって解消できる類のものではない。

しかも問題なのは、「記事は検察寄りだ」「リークに寄り添って書くな」という読者の疑問・叱責に対して、取材現場の人たちが「自分たちは嫌がる検察の口をこじ開け、情報を取っている。それはリーク情報などではない」と、恐らくは信じ切っている点にある。記者たちは毎晩、夜遅くまで、がむしゃらに働いている。「そういう苦労は読者には分からないだろう」と、思っているはずだ。取材者はいわば、善意の塊である。そして、そういうところにこそ、ある意味、新聞と読者の、救いがたい乖離がある。

検察の捜査がおかしいと思えば、おかしいと、堂々と書けばいい。要は、書くか・書かないか。やるか、やらないか。それだけの差しかないことなのだ。その結果、仮に、検察から「出入り禁止」処分を受けたら、それも堂々と書けばいい。

新聞記者はよく、「取材しても書けないことがある」という言い方をする。それはその通りだ。しかし、私たちがふだん、役所の中を自由に歩き、(一部の例外を除いて)官僚たちの机の間をある程度自由に歩き回ることができるのも、それは、国民が持つ「知る権利」を私たちが代行しているに過ぎないからだ。だからこそ、記者が取った情報は、記者個人のものでも新聞社内部のものでもなく、基本は読者のものであるはずなのだ。だからこそ、書くのだ。

小沢事件では、「検察捜査はおかしい」という疑問が世に溢れた。「検察はどうして小沢氏を狙い打ちにするのか」という疑問があふれた。だったら、「知る権利」の代行者であるメディアは、その疑問に答えなければならない。それができないのなら、「私たちは権力の監視者ではありません」「そんなことはできません」とと言い切った方が、まだ格好がつくのではないか。
by masayuki_100 | 2009-05-31 12:36 | 東京にて 2009