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ニュースの現場で考えること

「容疑者=犯人」報道は、やっぱり続く。

裁判員制度と報道の関係は、どうあるべきか。それに対する報道機関の姿勢を問うような「逮捕劇」が、裁判員制度がスタートしたまさにその日に起きた。「中央大学教授殺害事件」での、元教え子の逮捕である。

それを伝える新聞やテレビを見て、違和感を感じた人も多いのではないか。

裁判員裁判の開始に向けて、事件報道のあり方を変える。新たな報道指針をつくる。そういったことをマスコミ各社はうたっていたはずなのに、実際の報道は、これまでとほとんど変わったところがないように思えるからだ。新聞に限っていえば、確かに各社は工夫を凝らし、記事表現の方法を(一部ではあるが)変えている。「・・・と供述していることが、捜査本部への取材で分かった」というスタイルは、その典型だ。各社によって表現方法の際はあるが、これが裁判員制度下での記事表現で、一番目立つようになったスタイルだ。

この種の表現は、これは捜査当局への公式発表ではありません、わが社独自の取材で判明した内容です、ということを明示することにある。

ほかには、「逮捕容疑は・・・・した疑い」という表現方法も、新たに導入されるようになってきた。従来だと、「調べによると、××容疑者は・・・・した疑い」と書いていた。何がどう違うのか、一般読者には非常に解りにくいと思うが、要するに、これも、「まだ容疑段階ですよ、疑い段階ですよ」ということを強調する意味合いがある。

しかし、である。表現方法を一部変えたからといっても、根本が変わらなければ意味はない。裁判員制度の導入に当たっては、「容疑者を犯人視しない」「犯人視報道はしない」というのが、各社の指針だったはずではないのか。その点からすれば、中央大学教授殺害事件の報道は、かつてのそれと、ほとんど変化はない。容疑者の自宅や近所に押しかけ、近所の人の「容疑者は、道であってもあいさつもしない人だった」という声を拾う。勤務先を転々としていたことが、事件とどう繋がっているかも判然していないのに、最近の職歴や職場での様子を次々と活字にする。だいたい、ふだんの生活態度とこの事件は、いったい、どう関係しているというのだろうか? 

こうした報道が、総じて、「犯人視」報道と呼ばれるのである。そもそも、逮捕後の数日間で、動機や犯行も細かい様子などが判明することなど、そうそうありはしない。

この容疑者の逮捕は、一部を除き、全国紙はほとんどが1面トップで報じ、社会面で大展開した。こんなにいらない。今の段階では、少なくとも、報道の量をもっと抑制すべきだ。事件報道をもっと抑制的に扱うことの意味と実例については、今月10日発売の朝日新聞出版「Journalism 2009.05」において、「スウェーデンの新聞から日本の犯罪報道を考える」にも書いた。

裁判員制度下において、事件を報じるとき、捜査当局への取材で分かったことを、そのソースをある程度明示しながら書くことは悪いことではない。しかし、例えば、逮捕段階での容疑者供述は、それが発表であれ独自取材であれ、捜査当局からの一方通行の情報でしかないことを、きちんと明示しなければならないと考える。容疑者に弁護士が付いていない、或いは接見禁止状態のときは、それも書き、「警察からの情報について、容疑者側からは取材ができていない」と、明示しなければならない。

日本の新聞社やテレビ局は、事件報道において長年、逮捕段階(起訴前)の容疑者の言い分を取材し、それを記事にすることを怠ってきた。西日本新聞が1990年代の初め、当番弁護士制度の導入に併せて、「容疑者の言い分」報道を行ったが、これは私の知る数少ない例外である。現行の刑事司法の下では、記者は被疑者に直接取材できない。しかし、「容疑者側に取材できていないことを明記する」「自宅や周辺取材など不必要な報道はやめる」「全体として抑制的に報道する」など、できることは、いくらかは、あるはずだ。
by masayuki_100 | 2009-05-24 16:51 | 東京にて 2009