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ニュースの現場で考えること

高知は朝から雨模様だ。降ったり止んだりの後、少し雲が薄くなってきたかなと思っていたら、正午過ぎになって強めに降り出した。これを書いているのは、高知城から西へ2、3キロの「旭地区」という当たりだ。第二次大戦の空襲を逃れたエリアで、古い町並みと細い路地がうねうねと続いている。高齢化率も著しい。

この時間帯、東京では先だって亡くなられた弁護士・日隅一雄さんのしのぶ会が始まろうとしている。案内には正午開始とある。昨日になって、出席キャンセルの連絡を事務の方に出させてもらった。

旭地区ではきょうの午後、小さな集まりがある。古い住宅街を区画整理事業によって一気にきれいにしてしまおうという計画が今年秋に正式決定しそうなのだが、お年寄りたちが「市役所はちっとも声を聞いてくれない」と声を上げているのだ。市役所の担当者を招いての集まりが、きょうの午後にある。全国的な視野からすれば、あるいは東京(=中央)から見れば、別にどうということはない、取るに足りない集まりである。でも、旭地区では今年5月、死後2年間も放置されていた高齢者が白骨遺体で見つかった。ほかにも似たような事例がある。そのお年寄りたちや地域の人たちが「何百億円もつぎ込むより、住民のためにほかにやることがあるのではないか」と言っている。そういった声を聞きに行く。だから、日隅さんのしのぶ会は欠席させてもらったけれど、彼なら「そりゃ、そっちへ行かなきゃ。そっちがずっと大事だよ」と言ってくれると思う。

手元の記録を見たら、日隅さんと最初に会ったのは、2005年8月だ。東京の弁護士会館だった。「メディア関係の勉強会をやりたいので講師をやってくれませんか」と言われ、引き受けた。夏休み期間中だったこともあって、受講者は日隅さんを含め、2、3人だったと思う。

その後、長い付き合いが続いた。

2010年に「記者会見・記者室開放の会」を立ち上げ、あれこれの動きを始めたときも、支えてくれたのは日隅さんである。彼のすごいところは、それが「応援するよ」といった、抽象的なレベルに止まらないことだ。会見開放の会では、呼び掛け文の添削や法的立場からのコメントをくれたり、文書・資料の整理といった実務的なことを担ってくれたり。物事を動かすときは、「実務」がキーになる。理想は大事だけれど、具体論と実践を欠いた理想論は酒場談義でしかない。

今年2月末には、NPJ編集長としての日隅さんの「連続対談企画」に招いてもらい、東京・神田の岩波セミナールームで対談した。その記録はWEB上に残っている。時々見直しているけれど、一連の対談は、日隅さんの考え方、熱意、人柄、それら全てが凝縮されていると思う。その後、3月に東京で行われた日隅さんの出版記念会では、大勢の人でごった返す中、耳元で「高知新聞社に行くことにしました。やっぱり地方です」ということを伝えた。「良かった。ネットワークをつくっていくことでしか、集権には対抗できないから」と応じてくれた。

日隅さんのメディア批判には、改革への志向が明確にあった。戦略も戦術もあった。マスコミ批判を強めることで非マスコミの相対的優位を図るとか、そんな発想は毛頭なかったし、どうやったら「報道界の壁を崩し、互いに有意に切磋琢磨できるか」を考えていた。2005年から2010年にかけて、日隅さんと交わした話はそんなことばかりだったし、メールにも一時、「新たな調査報道機関はできないか」という文字が並んでいた。

そういった諸々の最初になった2005年8月の弁護士会館での勉強会。その際のレジュメが残っている。読み返してみると、あのころも同じことを言っている。日隅さんも、この雨降りの、どこかそこらへんの空で、同じことを言っているんだと思う。

(レジュメ。その抜粋)
*メディア内の組織上の問題
;強まる自己保身、「面倒は起こしたくない」という風潮
;結果として組織が官僚化

*取材力の低下
;作業量が飛躍的に増大→深く考えることの意欲低下
;記者クラブに座り続ける日常→外の意見や関係者との接触が不足

*センセーショナリズムへの傾斜
;狭い世界で日常を過ごしているため、何か異常事態があると、らせん状にのめりこんでいく。
;自分で判断できない→他社への追随→「激しさ」での勝負
;溺れかけた犬はたたく

*権力監視機能を回復する手立て
:正当な競争の復権
;記者クラブの事実上の全面解放
;読者・市民からの正当な評価。積極的な評価。目に見える形で。
;メディアの現場でのヨコのつながりの強化。個人レベルで
;「ダメだ」では前に進まない。具体論、実践論、実務を








旭地区では正午になると、街全体に毎日サイレンが鳴り響く。
by masayuki_100 | 2012-07-22 12:40 | Comments(1)