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ニュースの現場で考えること

東京地検特捜部の元検事、郷原伸郎氏の「検察の正義」(ちくま新書)を読んでいたら、ライブドア事件に関連し、ライブドア株で損失を被った機関投資家が、ライブドアに損害賠償を求めた民事事件について触れたくだりがあった。

裁判自体の筋立ては、ややこしいので省略するが、郷原氏の著作(83~84頁)によると、この裁判の判決理由の中では「…検察官が、司法記者クラブに加盟する複数の報道機関の記者に、報道されることを前提として…容疑事実の一部を伝達したこと」が認定され、さらに「…検察官によって粉飾決算容疑についてのリークが行われた事実を正面から認定し」たのだという。また昨年5月には、一般株主がライブドアを相手に起こしていた、同様の損害賠償訴訟においても「検察官のリークの事実を認定した上で」判決が言い渡されたという。

判決については、「御器谷法律事務所」さん、「弁護士阪口徳雄の自由発言」さんのページで、要点が解説されている。

それにしても、である。記憶力の乏しさとは恐ろしいもので、確かにそんな裁判はあったし、種々の報道に接したことも覚えてはいたけれども、2008年6月の一審東京地裁が、検察官のリークを判決で認定していたとは知らなかった。無知は罪、とは良く言ったものだと思う。引き合いに出して恐縮だが、私だけでなく、多くの報道関係者も知らなかった・忘れていたでのではないかと想像している。
by masayuki_100 | 2010-02-19 12:09 | 東京にて 2009 | Comments(3)

原口総務大臣が、検察庁を含めた中央省庁の裏金問題について、実態把握に乗り出すと述べた。2日前のことである。どんどんやってもらいたいと思う。そもそも、国家会計の元締である財務省が架空予算を計上するような国である。本気で調査すれば、裏金やら予算の流用やらは、次から次へと出てきて、収拾がつかなくなるのではないか。そして、そういった税金の不正使用を暴いて国庫に返納させる方が、豪勢な舞台での「事業仕分け」よりも、よっぽど実益がありそうだと、私は感じている。

全国市民オンブズマン連絡会議の調査によれば、全国の自治体で2006-2008年10月に発覚した分に限っても、裏金の返還額は29億円を超えている。その後も「裏金」問題はあちこちで発覚し、というよりも、発覚しすぎて、もう記憶しきれないほどだ。オンブズマン会議のブログ「事務局日誌」を見ていると、「はぁぁ」と溜め息の連続だ。最近に限っても、「横浜市で裏金約3億円」など実に盛りだくさんである。警察に限って見ても「岩手県警が1898万円返還へ」のほか、千葉県警、神奈川県警で億単位の裏金が発覚している(詳細は同オンブズマンの警察不正特設ページ)。

民主党の小沢幹事長や小林ちよみ議員などの政治資金規正法違反事件が話題になっている。犯罪はそれぞれに個別の案件だから、あれとこれ、これとそれ、などの比較はできないし、そうした比較には意味がないかもしれない。しかし、自治体や国の役所、警察・検察などの裏金も立派な犯罪であろうと思う。公金を裏金にするには、公文書を偽造する必要があり、虚偽公文書作成・公文書偽造、同行使に該当する可能性がある。納入業者等を巻き込んでいる場合は、私文書偽造・有印私文書偽造などに該当する可能性がある。さらに、詐欺や業務上横領等も当然、視野に入るであろう。

こうした組織的な裏金作りは、ほとんど犯罪として立件されたことがない。市民団体や弁護士等が刑事告発した事例は多いが、多くは立件されてこなかった。警察や検察が持つ捜査権限は、実に裁量権が広いのだが、それをある意味、心底分からせてくれるのが、組織的裏金作りに対する捜査当局のこうした態度であろうと感じている。

ところで、先の原口総務大臣の発言に対しては、「小沢問題に対する民主党の意趣返しではないか」的な立場からの報道が多かったように思う。たとえば、時事通信は<「検察の裏金」調査する=行政評価使い、けん制球?-原口総務相>という見出しを用い、こう報じている。(以下引用)

<原口一博総務相は17日、行政評価の一環として、検察の会計経理の状況を調査するよう16日の政務三役会議で副大臣や政務官に指示したことを明らかにした。17日開かれた同省の行政評価機能強化検討会でのあいさつで「検察の裏金も全部オープンにするように(行政)評価しなさいと言った。聖域なくしっかりやる」と述べた。
 同相は会合後、記者団に対し「新政権になり今までのあかを全部流さなきゃいけない。その調査をちゃんとやりましょうと。与党、野党から政府に求めが来ている」と強調。政治とカネの問題で鳩山内閣の支持率が急落する中、関連する捜査を続けてきた検察当局をけん制したとも取れ、波紋を呼びそうだ。>(引用終わり)

原口総務大臣の真意は分からないが、しかし、「裏金列島」と化した日本の現状を正確に観察していれば、ちょっと茶化して終わり、といったニュースではない、と気付くはずだ。なんでもかんでも「小沢VS検察」ではあるまい。少なくとも、自民党政権時代は、時の政権が、役所の組織的な裏金問題に真正面から取り組むことはなかった。仮に犯罪に該当しなかったとしても、裏金作りとは、主権者の代表である議会が決めた予算の使途を、官僚たちが無視し、勝手に都合良く使っている、ということなのだ。だから、裏金問題は民主主義の問題とも表裏一体である。原口発言を「小沢VS検察」的な立場から冷やかしてみるのも悪くはないかもしれないが、そこに止まっていては、お里が知れる。

警察や検察の裏金問題は、断片的にではあるが、過去、種々の日刊紙でも報道されてきた。週刊現代などの雑誌メディアが熱心だったことは事実だが、新聞・テレビでも報道はされている。ただ、多くの裏金報道は「断片的」に報道された「だけ」だったところに、限界があったのだとも思う。

北海道警察の裏金問題が発覚したのは、2003年11月である。あれから6年以上が過ぎたし、今さら道警裏金問題でもないが、私が担当デスクだった当時の報道に、今も生きる教訓的なものがあるとすれば、それは「道警記者クラブ詰めの記者たちが取材した」ことと、裏金があるあると報道するだけではなくて、それを「道警に認めさせる方向で取材した」ことの2つである。

最近は、記者クラブ批判が一段と強まっているし、私自身も記者クラブは全面開放すべきだと思っているが、記者クラブ・メディアであっても、組織悪を暴くことは十分に可能だと思う。権力の足下に日々座り込んでいる記者クラブメディアこそが、人脈等から言っても本来は一番権力悪を暴きやすい。問題は「覚悟」と「やる気」だけである。そして悪弊を「暴く」(=書きっぱなし)だけでなく、当該組織にそれを認めさせるような方向に持って行くこと。これも極めて重要である。検査の裏金問題が典型例だと思うが、「裏金がある」ことは半ば常識となっていても、それを突き詰めて認めさせない限り、なかなか旧弊が改められることはないからだ。そのあたりのことは、「追及・北海道警裏金疑惑」「日本警察と裏金」「警察幹部を逮捕せよ!」などに縷々記したので、機会があれば、ぜひ目を通してもらいたいと思う。
by masayuki_100 | 2010-02-19 11:18 | 東京にて 2009 | Comments(5)

松本サリン事件での集団的大誤報などが、なぜ起きるのか。事件報道でとくに顕著であるが、常軌を逸した集中豪雨報道は、なぜ無くならないのか。「悪者」を作り出し、当局と一緒になってバッシングする報道が、どうして続くのか。こうした問題は、古くから指摘されているのに、なかなか改善されない。いったい、これは何なんだろうね、という議論を最近、メディア関係者と飲みながら交わした。

毎度のことながら、「これ」という結論があるわけではない。それでも、いくつかのポイントは見えているように思う。

新聞社や放送局の取材現場は、かなりの部分が細分化され、かつ縦割りになっている。政治部は「官邸」「与党」「野党」「省庁」などに分かれ、経済部は「財務省」「日銀」「東証」「経産省」「東商」などに分かれ……という具合である。世の中が大激変を繰り返しているのに、こうした取材態勢は、各社とも実はそんなに変化していない。

この何年かの間には、各社とも、例えば、社会保障や福祉を扱う「部」を作ったり、政治部の名前を消したりと、そこそこの衣替えは実施している。しかし、ちょっと前の記事「事件報道自体の量的抑制が必要だ」でも触れたが、記者クラブの配置、各社ごとのクラブへの記者の配置人数等は、この何十年か、大きな変化はほとんどない。だから、報道各社が組織を多少改変したとしても、「情報の吸い込み口」は旧来型のままなのだ。

先だって、ある大学に招かれて講義した際、私はそんな状況を、「雨降り」に例えた。あんまり上手な例えではなかったが、つまり、こういうことだ。

社会全体を大きな教室だとしよう。いま、天井からは雨が降っている。雨は気象現象だから、豪雨になることもあれば、小雨のときもある。強風を伴うこともあれば、風のない雨も降る。窓際だけが雨のときも、教室の後ろだけが雨の時もある。しかし、その雨を受ける漏斗は、位置も大きさもほとんど変わっていない。何十年か前、一番雨の多い場所に、それに見合った大きさの漏斗を設置したけれど、いまもそのままである。最近になって、漏斗と繋がったホースは、あっちをこっちへ繋いだり、こっちをあっちへ繋げてみたりと多少いじってはみたものの、漏斗はやっぱり、そのままである。しかも、漏斗の管理人は天井を向いたままで、足下にどれだけ水が溜まったか、床の水流がどう変化しているかに、ほとんど関心を払っていない…。

雨は情報、漏斗は記者クラブとそこに所属する記者、ホースは報道各社の組織、足下の水流は読者である。

事件報道に話を戻せば、ここも同じようなものだ。事件を扱う「社会部」は、多少の組織改革等はあったとしても、昔も今も警察に人員を多数配置している。それに対し、裁判担当はいかにも少ない。記者の人員が少ない地方紙では、警察担当記者が裁判担当を兼ねている例も多い。しかし、全国紙や通信社になると、警察担当は警察担当、裁判担当は裁判担当だ。人数の比率は、8:2 程度だと思う。7:3くらいの社もあるかもしれないが、5:5は聞いたことがない。

すると、どうなるか。警察担当は事件の発生から検察への送致までしか取材を担当しない、という形が出来上がる。検察担当が独立している場合は、その担当は起訴まで、である。刑事裁判の担当は、ちゃんと、別に裁判担当がいるからだ。このブログの、やはり少し前の記事「続・リークと守秘義務」の中で、私は<捜査段階のリーク情報によって「A容疑者は、これこれだったという」といった記事を書いてはみたものの、起訴状や冒頭陳述はおろか、証拠採用された調書にすら、その片鱗も出てこない……。こんな経験をした記者も少なくないはずだ。>と書いた。しかし、これは正確な表現ではなかったかもしれない。なぜなら、こうしたことを経験するよりも、警察担当として報道した事件について、当の記者がその刑事裁判を引き続き取材する例は、そんなに多くないからだ。よほどの大事件とか、あるいは何か別の事情があるとか、そんな時には、取材の手足が足りないから、警察担当記者が公判取材に出向くこともある。しかし、それはあくまで、「例外」である。

事件報道の現場だけではないが、結局、既存大手メディアにおいては、取材が「テーマ主義」になっていないのだ。そして、その原因は、上記の「雨降り」の例え話で示した通りである。取材現場が「テーマ主義」を貫くことが可能な組織形態になっていれば、例えば、米軍普天間飛行場の移設問題で云えば、それに関心を持つ記者は、首相官邸から外務省、防衛省、米大使館、沖縄の関係自治体などを縦横に取材し、自らの目を通して、この問題の焦点は何かをじっくり書くことができるはずだ。しかし、現実はそうではない。首相官邸には首相官邸の、外務省には外務省の、防衛省には防衛省の、それぞれの担当記者がいて、あの問題もこの問題も、右も左も上もしたも、あれやこれやと本当に忙しい取材を、言葉を換えれば、断片的な取材を繰り返している。比較的自由に動ける編集委員のようなポストに就く記者は、そうそう多くない。

で、話は事件報道に戻るが、例えば、冤罪事件において、捜査時・逮捕時・起訴前などの報道に関し、メディア内部から真摯な反省がなかなか出て来ないとしたら、一つはこの「テーマ主義」が貫徹されていないことに原因があるのではないかと思う。逮捕原稿を書いた記者は、その後の裁判の様子を取材していないことが多いのだから、そこに真摯な反省など生まれるはずはない。「社」としては一つのテーマを継続して追っている形はつくれても、記者1人1人に立ち返れば、逮捕原稿やそれに関する続報は、たいていの場合、いわば、書きっぱなしなのである。「テーマ主義」取材の対局とも言える、この「担当部署主義」こそが、事件報道がなかなか切り替わらない、大きな原因の一つだ。

週刊や月刊の雑誌と違い、新聞やテレビは日々のニュースを追う。ただし、それは「担当部署主義」を温存しておく理由にはならないはずなのだ。組織が大きくなれば、転勤や部内移動等もあるから、
「テーマ主義」に基づいて記者が働くのは、難しいのかもしれない。でも、例えば、警察担当者と裁判担当者の比率を5:5にしたら、どうなるか。あるいは、警察担当と裁判担当を一つのグループにまとめ、逮捕原稿を書いた記者は必ず判決も書くような仕組みを作ったらどうか……。答えはもちろん一つではないけれども、もう少し落ち着いた事件報道をするには、そういう地味な改革も必要ではないかと感じている。
by masayuki_100 | 2010-02-15 04:03 | 東京にて 2009 | Comments(1)

ふだんはあまり顧みることもないが、ごくごくたまに、「新聞倫理綱領」に目を通すことがある。新聞協会が創立時につくったもので、現在は2000年6月の改訂版が最新の綱領だ。どういう内容かは、新聞協会のHPのこの頁で閲覧できる。皮肉でも何でもなく、この種の文章は、それ自体は実に美しい。憲法(とくに前文)や世界人権宣言も同様である。そして、だからこそ、その文章の崇高な理念と現実の差異を見せつけられると、表現のしようがないほど、がっくり来ることがある。

新聞倫理綱領はそう長い文章ではない。その中でも、私がとくにアンダーラインを引きたくなるのは、以下のような箇所だろうか。

<国民の「知る権利」は民主主義社会をささえる普遍の原理である。この権利は、言論・表現の自由のもと、高い倫理意識を備え、あらゆる権力から独立したメディアが存在して初めて保障される。>
<……すべての新聞人は、その責務をまっとうするため、また読者との信頼関係をゆるぎないものにするため……>
<新聞は公正な言論のために独立を確保する。あらゆる勢力からの干渉を排するとともに、利用されないよう自戒しなければならない。>

こういう見解や私個人の考え方を下敷きにして、この週末の土曜日、2月5日(金)の朝刊各紙を読み直している。もちろん、関心事は、不起訴という結論が出た小沢一郎民主党幹事長をめぐる政治資金疑惑である。5日朝刊は、いわばこの問題の「総括紙面」であるから、在京各紙は相当に力が入っており、各紙とも社会部長やそれに準ずる方々が署名入りの原稿を書いている。しかし、大きな違和感を抱いた記事も少なくない。これら署名記事には、ネット不掲載のものもあるようだから、私の「感想」も交えながら、記録として残しておこうと思う。

在京6紙(読売、朝日、毎日、日経、産経、東京)のうち、私が一番、あれれれと思ったのは、朝日の「解説」記事である。司法担当編集委員の村山治さんは、朝刊2面右上の「解説」でこう書かれている。(ゴシックは筆者、以下同)

<石川議員の逮捕に踏み切る際、検察幹部たちは「小沢起訴」までいかないと、「捜査の失敗」と多くの国民に受け取られることを覚悟したはずだ。結果は「不起訴」。国民から失敗と評価されることは避けられないだろう。
 最大の原因は、石川議員から見込み通りの供述を得られなかったことだ……(中略)……一方、一連の小沢氏側への捜査では、小沢氏だけを狙った恣意的な捜査だったという批判が生まれた。だが、不起訴は、そうした「思惑」だけで結論を出していないことを裏付けている。検察は昨年3月の西松事件で端緒を得てから証拠を積み重ねる捜査をしてきた。この日の不起訴の結論は、どの事件でも同じの、捜査で得た供述や物的証拠を厳密に評価した結果だ。
 公共事業利権は究極の税金の無駄遣いだ。その利権に政治資金規正法の情報開示義務違反を武器に迫る、という検察のモチーフと捜査手法は、市場化時代の要請であり、国民のニーズにも沿っている。
 捜査は、小沢氏側に巨額の不透明なカネの出入りがあることを国民に知らせた。その価値は正当に評価されるべきだろう。>

 小沢氏は嫌疑不十分で不起訴だった。起訴しても、公判に耐えうる証拠が集まらなかったということだから、百歩譲って「怪しい」と言い続けることはできるのかもしれない。しかし、日本は、当たり前の話だが、法治主義の国だ。とたえ被告人になっても、判決確定までは推定無罪の原則が働くのだ。そして、これも当たり前のことであり、釈迦に説法のようで申し訳ないが、刑事責任と政治責任は、全く次元の違う事柄なのである。そういうことが、朝日新聞の司法担当編集委員に分からないはずがない。
 それなのに、それなのに、である。あらゆる権力から独立すべき新聞が、不起訴に終わった捜査に対して、明確な証拠がなかった事案に対して、その結果の重大性を問わず、そのプロセスを取り出して積極評価するとは、どういうことなのだろうか。「不透明なカネの出入りがあることを国民に知らせた」と。その価値は正当に評価されるべきだろう」とは、どういうことなのだろうか。私には、まったく理解できない。
 検察・警察などの捜査当局は、どの事件をどう捜査するかという点での裁量権がものすごく広い。だからこそ、新聞にとっては「監視対象」であるはずなのだ。それなのに、捜査のプロセスで、疑惑の存在を広めたから価値がある、と論評してしまうのでは、ちょっと待って下さいよ、である。これでは、捜査当局がその裁量権によって捜査した事案は、すべて価値があるというようなものではないか。
 新聞が政治家の資金疑惑を追及するのは当然である。しかし、それは新聞の責任において、新聞の独自の取材において行うべきものであり、捜査が動いたから一緒にやる、捜査が動かなかったら報道しない、といった性質のものではないはずだ。「当局と一緒だから正義の旗をふる」みたいな、ある意味、ヤワなことをやっているから、読者に見放されていくのである。

 産経新聞社会部長の近藤豊和さんは、1面に「ほくそ笑むのはまだ早い」と題する長文の論考を掲げている(これはネットでも読むことが出来る、、、と書き、リンクしようと思ったら、いつの間にか、MSN産経の当該ページはリンク切れでした)。前半から中盤まではともかく、私が異様に感じたのは、末尾部分である。
 
 <……小沢氏の不起訴の観測が一気に拡大した2日夜。小沢氏側関係者たちは早くも「勝利宣言」をあちこちでし始めていた。この日昼、衆院本会議場で鈴木宗男衆院議員とほくそ笑む小沢氏の姿を報道各社のカメラがとらえていた。
 「疑惑の山」への捜査は継続されるだろう。そして、国民の注視もやむことはない。ほくそ笑むのはまだ早い。>

 読む人それぞれに読み方は違うのだろうけれど、私はこの末尾の部分が「捜査当局と一緒になって小沢氏の疑惑を追及していく」という内容に読めてしまった。どうして、捜査当局と一緒になって、あるいはそういう気持ちで、報道を続けるのか。なぜ、もっと捜査当局と距離を置き、捜査自体も突き放しながら眺めることをしないのか、と思う。なんというか、新聞も「正義」を振りかざしたがる存在ではあるけれども、強大な国家権力と二人三脚で「正義」を唱えることの危険性は、戦前の新聞人の行動から十分学んだはずではないのか。
 検察・警察という強大な権力と一緒になって、「悪者」を徹底的に叩く報道のパターンは昔からあるけれども、和歌山カレー事件あたりから一層ひどくなってきたと思う。松本サリン事件で生じた、報道各社による集団的大誤報の反省もなにもあったもではない。犯罪が犯罪であることの証明は、裁判所のみにおいて決着する。そして、当然ながら、捜査も間違うことがある。それらの前提を吹っ飛ばして、「悪者」をつくっていっせいに叩くパターンに、読者・国民は、いっそう疑問の目を投げかけているのだ。

 そうした中で、一番、新聞らしく感じたのは、東京新聞社会部司法キャップ・飯田孝幸さんの1面「解説」記事「検察は国民に説明を 土地購入原資示せず」である(こちらはネットでも読める。リンクも切れていません)。この中で、飯田さんは、こう記されている。

<東京地検特捜部は石川知裕被告ら三人を起訴、小沢一郎民主党幹事長を不起訴として、小沢氏の資金管理団体をめぐる捜査を終結した。特捜部長は「土地購入の原資の隠ぺいを図った犯罪だ」と明言しながら、原資を明示しなかった。事件の核心部分を公表せず、「実質犯だ」と事件の悪質性を強調しても、これでは国民の納得は得られまい。
 ……(中略)…… 特捜部には乗り越えねばならない壁が二つあった。一つは、小沢氏から石川被告らへの虚偽記入の指示などを明らかにすること。もう一つは、虚偽記入しなければならなかった理由を明らかにすることだ。捜査の結果、前者は、小沢氏の明確な指示などを確認できなかった。問題は後者だ。原資にゼネコン資金が含まれていたため虚偽記入したとの特捜部の見立てが、正しかったのかどうか。それがはっきりしない。
 「土地購入費の原資は何だったのか」との大疑問を明らかにすることこそが、今回の捜査の最大の意義だったはずで、国民の関心もこの点にあった。
 刑事訴訟法四七条は、公判前の訴訟関係書類を公表することを禁じている。しかし、特捜部は小沢氏の事務所や複数のゼネコンも捜索した上、国会開会直前に国会議員を逮捕してまで捜査を進めた。
これだけ影響を及ぼした捜査の結果について、刑事訴訟法を盾に口をつぐんだままでいられるはずはない。特捜部にとって有利、不利を問わず、国民に最低限の説明を果たす責務があるはずだ。>

 日経社会部長の平岡啓さんの署名記事、「権力の対立 何を残したか」は、こう書かれている。
 
<…… 税金が政党交付金として政治活動に投じられている今、政治資金規正法の政治家への適用は「形式犯」「微罪」との批判にさらされながら、それでも政治家の不正を暴く重要な手立てとして多くの国民は支持してきた。
 だからこそ「なぜ不起訴なのか」の理由を検察は説明する必要がある。なぜ小沢氏の共謀を立証するのが困難だったのかを明らかにすべきだ。準司法機関である検察は行政機関の一員でもある。政界最大の実力者に配慮して捜査に手心を加えたことはあり得ないことを国民に示すことが、検察への国民の信頼を保つ第一歩だろう。
 今回の捜査では検察OBの間からも検察の「独善性」を指摘する声があがった。政治資金規正法の摘発基準が事件によって恣意的に運用されていないか。強制捜査の時期、対応について議論は十分だったのか。……>

 毎日、読売の両署名記事は、省く。で、決着紙面のごく一部の記事だけで、一連の小沢氏資金疑惑に関する報道を全体的に論ずることはできないけれども、要は、検察当局との距離、いわば新聞の立ち位置はそれぞれにどうだったかは、これらの署名記事に現れていると思う。

 広告や各種事業からの収入もあるけれど、新聞の場合、収入の太宗は購読料である。しかも、月単位・年単位の長期読者たちだ。しかし、現場記者の、あるいは現場記者を指揮する新聞社の編集幹部は、読者からの声を直接聞く機会はそう多くない。今は各社とも読者からの電話を受け付ける部署は、編集とは別の部署に別個に設置されている。読者からの声が記者に届くときは、たいていの新聞社では、それらがすでに簡潔にまとめられた記載となっているはずだ。
 その一方で、記者が日々相対するのは、取材相手である。多くの場合は、当局者であり、当局幹部であり、権力者であり……である。そういう日々の繰り返しの中で、記事の評価を直接耳にする機会が一番多いのも、おそらく、読者ではなく、そうした取材相手である。「キミ、きょうの記事は良かったね」とか、そんな感じである。このあたりのことはなかなかうまく表現できので、また別の機会にゆっくり書こうと思うが、結局、「読者が知りたいこと」と記者の感覚が限りなく離反してしまい、報道現場の思考と行動が、当局へ当局へとなびいてしまっているのだと思う。

 今回の一連の報道では、報道各社は読者・視聴者からその立ち位置、すなわち取材相手との距離感を厳しく問われたのだ。同様に、今回も含めて犯罪報道の立脚点はどこにあるのか、それをどう実践しているのか、も厳しく問われた。読者の疑問に答えるのが、新聞である以上、そうした疑問に頬被りはできないはずだ。そして、犯罪報道・事件報道のありよう自体を、いい加減に見直さないと、また近い将来、読者から同じ疑問をさらに厳しく突きつけられ、新聞は(テレビも)今以上に立ち往生してしまうのではないか、と感じている。
by masayuki_100 | 2010-02-06 17:20 | 東京にて 2009 | Comments(19)

なかなか眠れないので、今宵3本目のエントリである(笑)。 「世界に架ける橋」という朝日新聞の元記者さんが運営しているブログで知ったのだが、朝日新聞は昨年10月の新聞週間にちなんだ特集で「検証 昭和報道 ~ 捜査当局との距離は」という記事を掲載している。その中で、東京地検特捜部が司法記者クラブ所属の記者に発する「出入り禁止」措置について、以下のような用語解説を載せている。

「世界に架ける橋」さんの当該エントリから孫引きする。

<検察の出入り禁止> 87年、東京地検特捜部名で司法記者クラブ各社に出された文書では、出入り禁止とするのは(1)部長、副部長以外の検察官、検察事務官などへの取材(2)被疑者等への直接取材など捜査妨害となるような取材(3)特捜部との信義関係を破壊するような取材・報道をした場合とされている。
 禁止内容には、「担当副部長の部屋での取材不可」から、最も重い「最高検、東京高検、東京地検への出入り禁止」まで各種ある。


 「出禁」があることは当然知っているが、その根拠・運用が文書になっているとは、不覚にも知らなかった。

 これはいったい、何なのか。百歩譲って、(1)はまだ自分ところの組織の問題だから、そう宣言するのも分からないではない。しかし、この(2)はいったい何なのか。「被疑者等」の「等」は当然、弁護士も含まれるであろう。もし(2)の行為によって捜査が妨害されたとうのであれば、その記者を逮捕するなり在宅起訴するなりすればいいだけのことだ(もちろん、筆者はそれが良いことだと云っているのではない)。

 この文書が今も生きているのかどうかは知らないが、昨年10月の記事に掲載されているくらいだから、有名無実になったわけではあるまい。しかし、いずれにしても、こういう文書を出された時点で(おそらく)さしたる抵抗もなく受け取ったことは、報道機関としては言語道断の体たらくではないか。被疑者「等」の取材に行くなとか、余計なお世話である。「そんな文書を出されても実際は無視しているし、現場の取材活動に支障はない」という声もあろうが、それとこれとは、また違う話だ。

 上記の(3)の関係で云えば、これは地検の話ではないが、以前、道警の裏金問題を取材しているとき、取材班の記者が、道警幹部から「飼い犬に手を噛まれたようなものだ」と言われたことがある。私も知己の道警幹部から「これまでのおたく(北海道新聞)との信頼関係が崩れた」と言われた。(3)はあれと似たような話である。だから、仮に、どこかの新聞社なりが、検察の裏金を告発している三井環氏の発言などを徹底して報道していけば、この(3)に該当するということになるのかもしれない。
 組織と組織幹部が、組織の名をもってして語る「報道との信頼関係」など、しょせん、そんなものである。報道側が「取材先とは対等だ」と声高に力んでみても、日々の取材現場においては、要は、なめられているだけでないのか、と思う。そして、こうした関係はもはや、簡単には転換できない「構造」となって、目の前に立ち現れている。

 想像以上に、根は深い。
by masayuki_100 | 2010-02-02 05:18 | 東京にて 2009 | Comments(10)

民主党の小沢一郎幹事長に関する資金「疑惑」で、たびたび三重県の「水谷建設」が登場する。水谷建設は、福島県の佐藤栄佐久・元知事の収賄事件の際、贈賄側としても登場する。この種の事件においては、何やら常連となった感じすらあるが、「水谷建設」の名は私個人としても忘れがたかくある。今から10年以上も前のことだが、1997年5月の北海道新聞1面にこんな記事が掲載されている。東京新聞などの友好紙にも原稿は送られ、結構、大きく扱われた記憶がある。記事は、こんなふうだ。(解りにくい部分や個人名は省略・修正するなどした。従って原文と同じではない)

<忠別ダム用地買収解決資金*旭川開建、6億円出させる*受注・大成建設の下請けに*入札直前*談合認め要請か>
 二〇〇三年の完成を目指して、国が建設中の石狩川水系・忠別ダム(上川管内美瑛町ほか)で、旭川開発建設部(国の出先機関)が一九九四年、水没予定地の買収をめぐるトラブルを解決するため、ダムの本体工事を受注した大手ゼネコンの大成建設(本社・東京)を通じ、下請け企業に六億円もの巨額資金を提供させていたことが、北海道新聞社の調べで分かった。旭川開建から大成建設への資金要請は、ダム本体工事の入札前に行われ、大成建設側は落札後、六億円を支払っていた。複数の関係者は「大成建設の落札は業界の談合で早くから決まっていた」と証言しており、旭川開建が談合を容認したうえで、資金の要請をした疑いが強まっている。

 旭川開建の当時の担当者らによると、本体工事の入札が九三年度内と決まった際、水没予定地には土地計一・三ヘクタールが未買収で残っていた。その用地所有者と開建は八九年に売買契約を結んだが、所有者が新たな補償を要求するなど、土地名義が変更されないままトラブルが続出。本体工事の入札を直前に控えた段階で、開建側の用地買収予算は二千数百万円しか残っていなかった。
 しかも、「すべての解決にはさらに三億円以上必要」(同開建関係者)という苦しい状況に追い込まれていた。
 このため、開建側は九三年十一月ごろ、「用地問題が解決できない。必要な金は後でゼネコンに出させる。すべて任せるので解決してほしい」などと、道内のあるブローカーに解決を依頼。ブローカーは翌九四年二月、自ら用意した三億数千万円を使い、水没予定地を買収し、その後、土地を国(建設省)に転売(名義変更)した。その価格は、同開建の予算残額に相当する二千数百万円だったとされる。

 この記事はまだ続きがあり、社会面にも関連記事がある。さらに、翌日以降も報道は続いた。それらの報道によると、こういうことだ。

 要するに、土地買収のトラブルの解決を国がブローカーに頼み、ブローカーは売却を渋る地主から3億数千万円で土地を買い、さらに2千数百万円で土地を国に売った。長くなるので上記では引用していないが、このブローカーへの支払いが「3億数千万円の経費込みで6億円」なのである。
 そんな6億円ものカネを国が用意できるはずがない。そこで国は、談合で落札が決まっていた大成側にかねをつくってくれ、と頼む。大成は、一時下請けに入ることが決まっていた水谷建設に「カネを用意してくれ」と頼む。で、水谷はそれを用意し、ある日、このカネの受け渡しが行われた、という流れだ。

 記事によると、大成建設の当時の営業責任者は「水谷建設が六億円を払った事実は事後、私が水谷建設から確認したが、水谷建設が自発的にやったこと。理由は分からない。大成は全く関係ない」と言った。当時の国側の幹部は「(国の)組織でもないあなた方(記者)に話すことは何もない。男には死んでも言えないことがある」と言った。さらに、開発局官房用地課は「指摘されるような事実はない。調べてはいないが、ないものはない」と言い……。
 おどろおどろしいが、簡単に言えば、そういう流れである。

 で、何が言いたかったのかと言えば、カネの受け渡しである。一連の取材は当時、私と後輩とでやったのでよく覚えているが、カネの受け渡しが行われたのは、札幌の有名ホテルのスイート・ルームであり、そのことは記事にも書いた。ヤミのカネとは、だいたい、そういった人の目に付かぬ場所で行われるものだ。

 ところで、一連の小沢氏の資金疑惑では、水谷建設幹部は、東京の全日空ホテルの「喫茶室」でカネを渡したことになっている。少し前の当ブログのエントリ「事件報道自体の量的抑制が必要だ」において、あんな人目に付く場所でヤミのカネの授受をするだろうか、と私は書いた。それは、あのホテルの喫茶室の様子を知っているから浮かんだ当然の疑問でもあるが、もう一つの理由もある。それは、水谷建設側も参加したとされる札幌でのカネの授受の場が、ちゃんと「スイート・ルーム」に設定されていた、ということだ。

 確かに、動いたカネに金額の差はある。片方は6億円、片方は5000万円。しかし、こうしたヤミのカネは、当たり前の話だが、菓子の手土産のように、突然渡されるモノではあるまい。事前に、少なくとも、暗黙の了解程度のものがあるからこそ、受け渡しは成り立つ。
 そういう場合、ふつう、政治家の秘書なら、オープンな場である全日空ホテルの喫茶室など、嫌うのではないか。他の政治家が来るかもしれない、政敵の秘書が来るかもしれない、マスコミもいるかもしれない、警察から天下ったホテルのマネージャーが見ているかもしれない、、、水谷建設は、2004年よりも相当前から、種々ウワサのあった会社らしいから、その程度の警戒心は抱いて当然である。

 小沢氏疑惑では種々、山のような情報が流れている。私は直接何も取材していないから、単なる感想程度の話でしかないが、「なぜ授受の場が喫茶店か」がどうしても引っ掛かる。札幌では、政治家やその秘書がいたわけでもないのに、「スイート・ルーム」なのだ。何千万円ものカネを動かす会社が、ホテルの客室代金をけちるとは、とても思えない。
 これは空想だが、水谷建設やその関係者による宿泊・利用の記録が全日空ホテルに存在していないのではないか。だから、「喫茶店」で授受があったというストーリーになっているのではないか、と感じている。
by masayuki_100 | 2010-02-02 04:18 | 東京にて 2009 | Comments(0)

夜になって、東京は雪になった。重く、湿った、札幌でいえば3月のような雪である。たぶん、明日の朝は通勤・通学でたいへんな思いをする人も多いだろう。

数日前、「リクルート事件・江副浩正の真実」(中央公論新社)を読み終えた。リクルート事件が表面化したのは、1988年だからもう12年22年も前のことだ。リクルート事件の関連書籍はほとんど読み尽くしたつもりだったが、この江副氏の本は出色である。

御承知の方も多いと思うが、リクルート事件は、川崎市の助役に対し、リクルートコスモス社(当時の社名)が未公開株を譲渡していたことを朝日新聞が報道したことに端を発している。取材に当たったのは、朝日の横浜・川崎両支局の若い記者で、それを指揮したのが、調査報道の旗手として知られた山本博氏だった。少し前、山本氏と食事をしながら、調査報道とは何か、といったテーマで話をさせてもらったことがある。「なるほど」と感心することが多く、調査報道の重要性にあらためて思い知った。私は当時の朝日の報道にあこがれ、自分もあのような調査報道を手掛けたいと強く思うようになった。山本氏の話を聞きながら、その初心を思い起こしたし、朝日の両支局が手掛けた(初期の)リクルート報道は今も何ら色あせてはいないと思う。

しかしながら、その報道をきっかけに全国紙各紙やテレビ局がリクルート報道に参加し、激しい報道合戦を繰り広げ、やがて東京地検特捜部が動き始めて以降は、おそらく、「事件」の様相は全く違うものになっていったのではないか。それが本書からは読み取ることができる。

江副氏は本の冒頭で「本書は私が書いたものであるから、私にとって都合のよいように書いているところも少なくない。本件がもし検察側から『リクルート事件・検察の真実』として書かれれば、別の内容の読み物になるであろうことも、お断りしたい」と書かれている。特捜部に逮捕され、否認を続けていた江副氏は、拘置所内で、その日その日の調べの模様などをノートに書き残していたという。そして、本書は実に冷静な筆致で、検察官や当事者の実名を挙げながら、当時の取り調べのもようなどを綴っていく。その中にこんな箇所が出てくる。検察の言うとおりの調書になかなか署名しない江副氏に対し、検事が「なんとか頼む」という場面である。

<187ページから。以下引用>
 当時の私は毎週のように政治家を囲む朝食会や夕食会に出席していたが、政治家にリクルートの事業に関連する依頼をしたことは一度もない。調べられても、コスモス株を譲渡した政治家が収賄罪で立件されることはないと思っていた。ところが宗像検事は言った。
 「政治家の中から誰か立件できないか、合同会議で検討された。これだけマスコミに書かれると、政治家をあげないわけにはいかなくなった」
 「私は政治家へ頼み事をしたことはありません」
 「大局的見地からあなたに協力をお願いしたいんですよ。自民党2名、野党を1名あげたい」
(中略)
 「特捜は中立的、という世間の印象も大事なんでね。加藤のほかに自民党1名、野党1名を挙げる方針が決まった。仕方ないと思ってもらいたいんですよ」
 「そこであなたとのネゴシエーションなんだが。。。政治家の件では君を逮捕しない。4回も逮捕されたら、あなたの世間体も悪いだろう。僕もしのびないと思っている……早期に保釈する。求刑は起訴時に検査が決めるんだよ。悪いようにしないことを約束する」
(中略)
 ……しばらく沈黙が続いた。しばらくして宗像検事が言った。
「4回目の逮捕と長期の勾留か、執行猶予がつく起訴時の求刑と早期釈放か、どちらが得か冷静になって考えてみなさいよ。新聞がここまで書いているのに、政治家は何もなかったということでは特捜のメンツが立たない。政治家をあげるのは合同会議の結論なんですよ。僕はそれを実行する立場でね。早く決着させないと政治的空白がいつまでも続く。それは避けたい。そのことはあなたも理解できるでしょう」
 メディアが疑惑と報道することが世論になる。特捜は世論に応えなければならない。私は、メディアが「第3の権力」と言われることを、改めて思い知った……
<引用終わり>

この本の前半には江副氏が逮捕され、地検の車両に乗せられた場面も出てくる。そのときは道路が大渋滞していたが、道を変えても渋滞していた。そこで検事が言うのである。「マスコミには4時半に(東京地検に)入ると知らせてある。マスコミを待たせるわけにはいかない」。拘置所に近付くと検事は「ここで君に手錠をかける。これから大勢のカメラマンが君を撮る…」と云うのだ。江副氏はその後、何度も何度も同じことを思うのだが、これが「特捜はメディアをフルに使っている」と感じた、最初の出来事である。

こういう文章を読んでいると、「捜査当局の記者クラブに記者を配置して日々張り付いているのは、当局の違法・不法な捜査を監視するためでもあります」的な、既存メディアの言い分が、子供の言い訳にもなっていないように思えてくる。少し前の「志布志事件」やかつての「菅生事件」のように、新聞がいわゆる調査報道によって、冤罪を暴き出したことは何度かある。しかし、それらの多くは、捜査段階ではなくて、裁判が始まってから後の報道である。捜査段階において、その不当性を鋭く、粘り強く報道した日本の事例を、私はほとんど知らない。

「報道とは権力監視です」とは、いったいどういうことなのか。それを実践し、持続するとは、どういうことなのか。いったい、マスコミとか新聞とか報道とか、それらはいったい、何なんだろうと思う。

理屈ではいくらでも説明できよう。報道の役割をきれいな文章で書くこともできる。朝日が手掛けた初期のリクルート報道のような「調査報道」は絶対に必要だし、それを目標にしてきたし、今もそうしたいと思う。しかし、一方では、ものすごく、いつも、居心地の悪い、嫌な嫌な感覚がいつも淀みのように、自分の奥底に溜まっている感じがある。職業人として、自分の仕事には常に前向きでありたいと思いつつも、例えば、だいぶ以前に「糞バエ」や「きれいごとと闘い」を書いたときのように、表現しようのない、苛立ちやどこか絶望的な感覚や諦めや、そんな訳の分からぬ思いにも、時に、支配される。第一、この自分自身がいったい、何をできているのか。もちろん、そういう思いもある。
by masayuki_100 | 2010-02-02 01:22 | 東京にて 2009 | Comments(5)