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ニュースの現場で考えること

この7月、2年半ぶりに日本へ戻った。英国への赴任後、初の一時帰国である。そして、札幌も東京も大都会だと、改めて実感した。

なにしろ、夜になっても星が見えない。東京はともかく、札幌もこんなに夜空が明るかっただろうか。日本の夏に特有の、あの湿った空気のせいかもしれないが、間違いなく、ロンドンの方が星はよく見える。

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私は星が大好きで、子供のころは本気で天文学者になりたいと思っていた。

夜ごと、天体望遠鏡を庭に運び出した。反射式望遠鏡を自分で作ったこともある。望遠鏡で土星の輪や三日月型の金星を初めて見たときは、心底、驚いた。星雲や星団も目にしたし、表現のしようがないほど美しい連星も瞼(まぶた)に刻んだ。

そして、彗星である。

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by masayuki_100 | 2008-07-24 18:39 | 木をみて森もみる

第22回「男なら銃には銃、爆弾には爆弾だ」から、北アイルランド紛争の話を書いている。「まだ続けるのか?」と思われるかもしれないが、もう一度だけ書いておきたい。

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カトリックとプロテスタント。住民の9割がどちらかの宗派に属する北アイルランドで、無宗教のマイケル・ホールさん(59)は少数派だ。彼は、どの宗派にも属さない利点を生かし、紛争が始まった1960年代末ごろから、「暴力では何も解決しない」と両勢力に働きかけを始めた経験を持つ。

「そしたら双方の組織に脅されてね。ひざをつぶすぞ、とか。後ろから撃れるんじゃないか、車に爆弾が仕掛けられていないか。毎日、それが気になってね」

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by masayuki_100 | 2008-07-24 18:37 | 木をみて森もみる

北アイルランド紛争で世界に名を知られたIRA(アイルランド共和軍)は、「テロ組織」のはしりと言える。紛争が激しかった1970年代は、日本でもIRAが度々ニュースになった。メンバーは当時、銃や爆弾を使って、レストランやホテルなどを何度も爆破。幹部は、覆面姿で「声明」を発表した。そんな様子を覚えている方も多いと思う。

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ベルファストの中心部で、IRAの一員だったマイケル・コルバートさん(58)に会った。彼は「40年前は実力行使に英政府を動かす力があった。あの闘争があったから、その後の和平への動きがある」と言う。

縁の細いメガネ、きちんとしたネクタイ姿。柔和な対応は学者然としており、英兵を殺害し長く服役した人物とは思えない。

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by masayuki_100 | 2008-07-24 18:35 | 木をみて森もみる

北アイルランド紛争の「包括和平」がまとまったのは、1998年である。ちょうど、10年前のことだ。若い人はこの紛争を知らないかもしれない。それでも「IRA」(アイルランド共和軍)という武装組織の名前くらいは聞いたことがあると思う。

紛争の歴史自体は相当に長い。アイルランドへの帰属を望むカトリック系住民と、英国領存続を望むプロテスタント系住民が対立し、激しい抗争を繰り広げ、1970年代に最も激化した。テロの応酬、爆弾闘争、そして市街戦。福島県ほどの面積しかない北アイルランドは、まさに内戦状態だった。一般市民も含め、死者は約3700人。負傷者は3万人近くに上った。

和平は一直線には進んでいない。散発的ないざこざ、各勢力の突っ張り合いは今も続く。それでも北アイルランドには今、かつてないほどの平穏が訪れている。

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「銃には銃、爆弾には爆弾。主義主張のためには暴力もいとわない。男なら当然と思っていた」

プロテスタント系の民兵組織に所属していたノエル・ラージさん(51)は、そう振り返る。貧しい労働者家庭に生まれ、義務教育を終えた1970年ごろから、工場で働きながら闘争に身を投じたという。

当時は、紛争が最も激しかった時期でもある。雇用などで激しい差別を受けていたカトリック系住民が、権利拡大を求める運動に立ち上がったのに対し、プロテスタント系住民が反発。地域は二分され、それぞれが「解放区」を作り上げた。やがて双方の居住区は「平和の壁」と呼ばれる高い塀によって分断され、交流は途絶えた。

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by masayuki_100 | 2008-07-03 09:10 | 木をみて森もみる

ロンドン地下鉄の「惨状」には、いつの間にか、だいぶ慣れてきた。運休、遅れ、運行途中での突然の行き先変更、先頭車両の行き先表示と車両内部のそれの食い違い……。そんなことも、ごく当たり前の感覚になってきた。

それでも私の父がこの現状を知れば、仰天するのではないかと思う。文化の違いもあるから、日英のどちらが良い悪いではないが。

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私の父は国鉄マンだった。

最後の勤務は、高知県の吾桑(あそう)駅という小さな駅だった。今は無人駅に違いないが、父が退職した1970年代には、3人の駅員がいた。もっとも三交代だから、客から見れば駅員はいつも1人である。

父が退職する何年か前の、小学校の高学年の春休みか、夏休みだったように思う。

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by masayuki_100 | 2008-07-03 09:08 | 木をみて森もみる