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ニュースの現場で考えること

「自身の生活実感に照らして、「今の暮らしぶりは、どうも、根本には今の政権の政策が間違っているからではないか」と思ったとする。大した根拠もないかもしれないが、そういう「生活実感に基づく意見」みたいなものは、日常には数多存在する。当たり前だ。ふつうの人は、毎日毎日、政党の政策を比較したり、経済の仕組みを考えたり、そんな小難しいことを考えながら生活しているわけではない。

で、その当人が「市民記者」となって、その媒体に記事を書くとする。そのような記事は、「説得力の有無」に基づいて評価するにふさわしい対象だろうか。

「オーマイニュース日本版」に書かれた佐々木俊尚氏の記事<記事の質、最終的には「説得力」>を読んでいて、やや違和感を感じた。オーマイニュースに言及するのは、もうやめようと思っていたが、どうしても引っ掛かりがあったので、少しお付き合い願いたい。

佐々木氏の文章については、原文をお読みいただくのが一番いいのだが、佐々木氏は「記事の質は最終的には説得力の問題だ」と書いている。一般論では全くその通りだ。オピニオン記事(意見)であれ、ファクト記事(ニュース)であれ、説得力が必要なことは言うまでもないし、それを構成する要素も「誰かの発言」「書類」「出来事の事実経過」「しっかりした論理構成」などなど、書ききれないほどある。おそらく、一冊の本が出来上がってしまうだろう。

私の違和感は、佐々木氏の「例示」にある。佐々木氏は当該記事でこう書かれている。

<オーマイニュースの市民記者の記事には、その論理的組み立てが欠如しているケースが多いように思う。たとえばありがちなパターンとして、何でもかんでも小泉批判に結びつけて、「小泉改革がこういう社会を生み出したのだ」と書く人が案外に多い。しかしオーマイニュースに集まってきているすべての人々が小泉首相をけしからんと思っているかといえば、決してそうではない。小泉改革を評価している人は実のところかなり多いわけで、その前提をいきなりすっ飛ばして「小泉路線を止めなければ世の中が悪くなる」と書かれても、困惑してしまうだけだ。>

要するに、安直な政権批判に対し、疑問を投げかけているのだが。佐々木氏は以前にも、どこかに書かれていた(或いは発言されていた)が、市民記者の原稿に対し、その「左傾化」を危惧している。しかし、「一般論としての原稿の書き方の問題」と「右か左かの立場」という2つの命題を重ね合わせて、議論するのは、問題を混乱させるだけではないか、と私は思う。政権批判をする人々は左翼的であると位置づける発想も少々古臭い。

頭の体操みたいな話だが、上に引用した佐々木の文章を、例えば、以下のように書き換えてみよう。

<オーマイニュースの市民記者の記事には、その論理的組み立てが欠如しているケースが多いように思う。たとえばありがちなパターンとして、何でもかんでも小泉賛同に結びつけて、「小泉改革がこういう社会を生み出したのだ」と書く人が案外に多い。しかしオーマイニュースに集まってきているすべての人々が小泉首相をすばらしいと思っているかといえば、決してそうではない。小泉改革を批判している人は実のところかなり多いわけで、その前提をいきなりすっ飛ばして「小泉路線を続けると世の中は良くなる」と書かれても、困惑してしまうだけだ。>

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by masayuki_100 | 2006-09-23 04:16 | ★ ロンドンから ★ | Comments(9)

少し前に書いた私の記事「どう考えても、ネットで言論はフラットにならない」について、スポンタさんがコメントを寄せてくれた。簡単に言えば「絶対的正義などというものは成立しえない」ということである。それは、当然にその通りである。「正義」であれ、「邪悪」であれ、古来、社会通念や道徳等もすべては相対的なものだ。そうした概念に「絶対」が付される社会は、実に気味が悪い。

そんなことを考えていたら、松下竜一氏の著書、「豆腐屋の四季」を思い出した。それがどれほどの著作であるか。例えば、ここのサイトを読んでもらえれば、と思う。その書評にこういう一節がある。

「日々の労働でくたくたになり、あくせく働くことをえんえんと繰り返す人間の生活――私もまた、社会人のひとりとして会社に勤める身であるが、最近つくづく思うのは、仕事以外の時間を見つけ出すことの困難さである。生きるというのは、こんなにも哀しいものなのか、と思う。だが、同時にこうも思うのだ。生きるというのは、こんなにもいとおしいものなのか、と」

この著作の、おぼろげな輪郭は分かってもらえるのではないかと思う。松下氏は、自分が夜中の2時、3時に起きて豆腐を作っていた当時、例えば、そういう人々の日々の生活とは無縁のところで叫ばれていた、学生運動のスローガンを嗤っていた、のだと思う。そこで叫ばれる「正義」にいかほどの意味があるのか、と。

もし、市民型ジャーナリズム(その定義については、ここでは捨象する)が成り立つとすれば、それはこの「豆腐屋の四季」のような内容においてこそ、ではないかと思う。

手前みそで恐縮だが、もう10年以上も前のことになるが、紙面で「しごと・いきる」という連載を始めたことがある。取材前、私自身はスタッズ・ターケルの「仕事!」みたいな、インタビュー集を新聞でやってみたいと思っていた。もちろん、そんな大家の作業にかなうはずはないのだけれど、連載自体は多くの記者の手に引き継がれ、都合、2年以上も続く長寿企画になった。その第一回目に、私はこう書いた。

<日々、仕事に追われ、あるいは仕事に立ち向かう。働くことに費やす時間は、そのまま人生の時間でもある。充実と退屈。追いかける夢と忘れかけた夢、そして、夢が欲しいと思う時。笑顔で自信を語れる日と、うつむいて沈黙する日。さまざまな思いを抱えて、わたしたちは働き続ける。その胸のうちにしまい込んだ、「生きる」ことの喜怒哀楽を伝えたい。>

文章自体は稚拙で恥ずかしい限りだが、このころから抱いている私自身の「視線」のようなものは、今も変わっていない。世の中の大多数の人は(それが賃金労働であれ何であれ)、ずっと働き続ける。一日の大半、人生の大半は、働き続ける。ターケルは、その人々の「群れ」を膨大なインタビューで照射し、現代社会を浮き上がらせようとした。

市民型ジャーナリズムが何か新しいものを生み出すのだとすれば、それは、ネットかブログか紙かYouTubeかといったツールによって完成するものではない。ツールも非常に重要ではあるが、必要なのは、いま既存メディアが伝えていないことをどう伝えるか、にある。そしてそれは、「正義」や「国家」といった概念を、抽象的な言葉を用いてこねくり回すことではなく、豆腐屋の四季が描いたような、足元の世界とそこから見える社会と世界のありようを活写することだと思う。

残念ながら、それは「マス」になりきってしまった既存メディアには、なかなかできない仕事だと感じている。それを達成する可能性が一番高いのは、今も現に一生懸命働いている一人一人が文字や映像で、それを伝えることだと思う。もちろん、日々忙しい人は、その仕事を他人に伝える暇など、なかなかありはしない。そもそも、一般社会に広く「伝える」ことに、価値などを見出してはいないかもしれない。

「ネットで言論がフラットになる」かどうか等々という、私に言わせれば牧歌的な議論の脇では、数は少なくなったとはいえ、きょうもたくさんの豆腐屋で、たくさんの豆腐が作られているのだ。
by masayuki_100 | 2006-09-19 05:13 | ★ ロンドンから ★ | Comments(8)

スウェーデンにて

過日、出張先のスウェーデンで、60代の日本人に会った。ストックホルム在住で、九州出身の方だ。朴訥とした語り口、飾らない人柄。少し前の日本でなら、どこにでもいそうな、「お父さん」タイプの方だ。

この方は、中学、高校で美術部に所属し、将来は絵の世界で生きようと思っていた。九州の高校を出て、東京に少し居た後、友人が先に住んでいたストックホルムを目指したのだという。40年近くも前のことで、もちろん、「地球の歩き方」など、ありはしない。ストックホルムでは、まず皿洗いから、だった。

「皿洗いは言葉ができなくても、やれますでしょ。他に理由はありません。ストックホルムを選んだ理由? 友人が先に居たからですよ。本当は世界一周でもしてから、日本に戻るつもりだったんですが、そのまま居ついてしまいました」

その後、いくつか職を変え、電気関係の会社に長く勤めた。数年前、その会社を定年で退職。以後は、絵筆を抱え、北欧諸国や東欧・中欧を行き来しているという。

その方には今、いくつか希望・・・夢がある。一つは郷里で、展覧会を開くこと。もう一つは、その展覧会のために、オーロラを見ることだ。北欧に長く居ながら、本格的にオーロラはまだ見たことが無い。それを目の当たりにして、白いキャンバスに筆を走らせる。実際に見ないことには描けないし、光が天空で揺れる様を見れば、どんなに身震いするだろうかとも思う。

彼は故郷が懐かしい、と何度か口にした。同時に、これから描く絵が、「勝負なんです」とも言った。決して、大袈裟には話さない。時には聞き取りにくいほどの、小さな声。だからこそかもしれないが、「勝負なんです」という言葉に、60余年の年数を経ての、強い意思を感じた。
by masayuki_100 | 2006-09-13 03:38 | ★ ロンドンから ★ | Comments(1)

今朝の朝日新聞の1面に、<自民総裁選への視点 下 「官から民」風止めるな>という記事が大きく掲載されていた。ネットには載っていないようなので、原文は新聞を読んでもらうしかないが、私なりに簡単にまとめると、その記事は、「格差社会に目が行くようになり、総裁選候補も改革は行過ぎていたと感じているようだ。官から民への動きが止まろうとしている、その隙間を縫って、再び官が勢いを増そうとしている」という趣旨だ。

確かに、官から民へ、という動きが、すべて悪であるはずがない。税金の非効率な使い方を改め、官業をより効率よくするのは(行き過ぎは別だが)当たり前の話だろうと思う。ただ、小泉政権が続いていた間、官僚の力が弱くなった・弱くなっていた、という見方には若干の異論がある。

むろん、「弱くなった」かどうかは、「比較」の話だから、何と比べて・いつと比べて、という基準が欠かせない。だから、人によって種々の見方はあると思う。だが、私の感覚的な意見で言えば、少なくとも、経済の根幹を握る金融庁や財務省はこの間、より一層、力を貯え、政治や経済への影響力を強めたように思う。首相直属の経済財政諮問会議にしても、その事務方は内閣府であり、内閣府は省庁再編後の早い時期から中枢は財務官僚が仕切ってきた。私が東京で、内閣府を担当していた時代は、「骨太の方針」を軸として、まさに経済財政諮問会議が一番脚光を浴びていた時期だが、あのペーパーも官僚が書き上げていた。

そして、銀行や保険会社の生死を、いわばツルの一声で決める権能は、かつてよりも強くなっていったと感じる。

この間、弱くなったものがあるとすれば、自民党の「族」である。だがそれも、自民党の権力維持の源泉が、郵政関係から他に移ったとか、或いは特定の部会の力が相対的に落ちたとか、そういった「権力の重心移動」の話ではないか。そして、かつての田中派につながる種々の権力維持の仕組みは、ほぼ崩壊したということなのだろう。

最盛期の田中派(田中首相)は、官僚を自在に操ったとされる。小泉政権は、そこまで官僚に睨みを効かせていたのだろうか。
by masayuki_100 | 2006-09-13 03:14 | ★ ロンドンから ★ | Comments(2)

オーマイニュース日本版が始まって、数週間になった。正直言って、少々落胆している。この間、種々の意見の中では「すちゃらかな日常」の松岡さんのこの記事が、一番参考になったのだけれど、私の感じる落胆は、内容よりも(内容もそうだが)、見た目、である。要するに、レイアウトの話だ。

ネットの技術に関しては、私は門外漢なので、それを差し引いての意見なのだが。。。どうして、ニュースを扱うサイトのデザインは、どこもかしこも、レイアウトが似ているのだろうか? 上の方に「スポーツ」「国際」「政治」「社会」といったタブが並び、各項目のニュースは、上から下へスクロールして読む仕掛けになっている。

ネットは横書きだし、文字数は無限だとはいえ、画面の大きさには限界がある。だから、ある程度、スクロールして読む方法を導入しなければならない、という理屈は分かる。それに慣れた人には、この方法が一番親しみやすいということも分かる。しかし、政治経済ニュースを一番に読みたい人と、スポーツ記事を真っ先に読みたい人とでは、ニュースに対する受け止めも感性も違うはずだ。政治経済ニュースとスポーツニュースでは、書き方も文章もレイアウトも、写真の扱いもその他もろもろ、大きく違っていて当然だと思う。

深く読むのか、リンクを充実させるのか、読者のコメントから読むのか、議論したいから読むのか、ニュースを読みたいから読むのか。或いは、分野を超えて縦横にいろんな角度からニュースを読みたいのか。。。人々の要求は多様に多様を重ねているはずなのに、「政治ニュースはここ」「経済はここ」という、過去に既存メディアが作り上げてきた価値観と見せ方から、全く脱することができていないように感じる。

新聞社やネットメディアのニュースサイトの今の形は、おそらく、最初に読売新聞とか朝日新聞とか、そういった大手のメディアがHPを作った際に、雛形ができ、それを元に各サイトも作っているような気がする。全く違った価値観でニュースを提供するとしたら、今のデザインも根本から疑ってかかった方が良いと思うのだ。(個人的に種々考えていることはあるが、その内容はまだ茫洋としているので、いずれかの機会に)。
by masayuki_100 | 2006-09-10 22:10 | ★ ロンドンから ★ | Comments(2)

深い沈黙

ロンドンは9月10日の日曜日、昼である。日本は午後9時すぎ、もうすぐ日付が変わる。で、あと少しで、「9・11」から、ちょうど五年になる。すでに日本のメディアも種々の特集を組んでおり、当日になれば、さらにいろんな話題が沸騰するだろうと思う。

「9・11」から少し過ぎたころ、どうしても現場を見たくなり、休暇を取ってニューヨークに足を運んだ。行きの飛行機は乗客が10数人程度しかおらず、異常に静かだったことを覚えている。倒壊したビル現場へ向かう道には、長い長い行列ができていた。そして、それにもかかわらず、そこに向かう道も、奇妙に静かだった。きな臭さが残る中、多くの人が押し黙り、しゃべったとしてもヒソヒソ声で、行列はまさに、慰霊の群れだったように思う。

それから五年がたった。その間、ロンドンでもテロがあり、テロ計画発覚騒動があった。中東では毎日のようにテロがあり、ロンドンの新聞でも「WAR」などの大活字が躍らない日はない。どこかで読んだのだけれど、「9・11」で犠牲になった人の数よりも、その後の「テロとの戦い」で犠牲になった米国人の方が数は多くなったそうだ。

「9・11」が陰謀であったかどうかは、分からない。例えば、ヒロさん日記の記述を頼りにあちこちにネットサーフィンしていると、陰謀説をめぐる種々の議論があり、時間のたつのも忘れるほど引き込まれてしまう。

ただ、「テロとの戦い」は、この複雑な世の中にあって、どうも単純すぎる。「テロとの戦い」を結果として喚起する種々の出来事も、単純すぎるように思う。例えば、米大統領選の投票日の直前に、ビンラディンの映像が流れたことがあった。今年夏のロンドンの旅客機爆破テロ計画も、イスラエルによるレバノン侵攻が大問題になりつつある最中に起きた。つい先日は、米議会の報告書で「実はイラクのフセイン政権はアルカイダとは無関係だった」という結果も出てきた。

善か悪か右か左か。或いは上か下か斜め前か斜め後ろか。。。この複雑な世の中を、単純なスローガンや言説で切って見せようとするときは、やはり、どこかに作為が潜んでいるように思う。
単純な言葉の繰り返しよりも、深い沈黙の方が、人間らしさに溢れているように感じる。
by masayuki_100 | 2006-09-10 21:41 | ★ ロンドンから ★ | Comments(1)

「格差社会」について、あちこちで種々の意見が交わされている。しかし、それらの格差(主に経済的なそれ)を若い人々はすでに、すんなりと受け入れているのだとしたら、議論のありようは根本的に違ってくるはずだ。「格差?それがどうしたの?それのどこが問題なの?」という人々が大多数だと仮定すれば、では、今の格差社会論議は、いったい、社会の何をどう解明し、その先、どう展開していくのだろうか?

以下、少々長いけれども、山口二郎北海道大学教授のHPからの引用。06年8月:対抗軸としての社会民主主義の創造

(引用開始)

去年の総選挙で若者・都市住民が小泉自民党に雪崩れてうっていきました。「騙された」という説明もあり得ますし、ドラマ化された政治、「刺客」とか「セレブ」とか面白いトピックを繰り出していくエンターテイメントとして選挙をやったということをいう人もいます。しかし、それですべてを説明するのは無理だと思います。私は、実体的な理由があったと思うわけです。そこで考えたことが、再分配あるいはリスクを社会化するという仕組みについて人びとが大変大きな不満を持っているということです。日本人がみんなアメリカンイデオロギーに染まって、平等や公平を放棄したのではなく、歪んだ平等主義や正義感によって、「小さな政府論」を支持しているという捻れた状況があると思うのです。再分配政治は、何となくうさんくさいものに見え、無駄が多い、腐敗がいっぱいある、一部の人間だけを太らせているという一連のイメージが一般的にあり、それらを大掃除する手段として「民営化」はすごく魅力的な手段に見えたのでしょう。
 私は、最近、「プチ不平等」という言葉をよく使います。ヒルズ族と「おんぼろアパート」との間の格差は、もはや政治的争点にならないのですが、「おんぼろアパート」と公務員宿舎の格差は政治の問題になるわけです。非正規雇用が急激に増え、リストラで大変辛い目にあった民間企業の人たちが大勢いるなかで、雇用のリスクがない公務員は特権階級に見えちゃうわけです。あるいは、農業などに対するサポートも、輸入食料品で食費を安くあげる生活をしている人から見れば、「弱者面をした人間」にいっぱい金をまいていると見えちゃうわけです。
 公共セクターは平等をもたらす仕組みではなく、むしろ格差や特権を部分的にこしらえている存在で、「官から民へ」「小さな政府」にすることが、むしろ世の中を公平にして風通しをよくすると思えちゃうのです。そこをキチンと理解しないと、小泉人気の説明がつかないと思います。

(引用終わり)

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by masayuki_100 | 2006-09-10 17:38 | ★ ロンドンから ★ | Comments(3)

溜まった資料を読んでいたら、眠れなくなってしまった。日本はもう、朝の9時だ。眠れず、資料も読み飽き、で、再び、「ネット言論がフラットである」という意見について、今晩もつらつらと考えていた。「ネット言論はフラットだ」という話は、私の理解度が浅いこともあるだろうが、この概念は抽象的で、なかなか分かりにくい。

それでも、私なりにまとめると、こういうことだろうか。「これまでは既存マスメディアを軸とした「絶対的正義」の言論が支配的だったが、簡便に情報発信できる『ネット』『ブログ』等を誰もが手にすることができる現代・将来においては、かつての絶対的正義は相対化され、その権威は崩れ、やがて言論界はフラットになっていく」

既存メディアに対する評価については、私もそう思う。種々の例外はあるとはいえ、既存メディアが、絶対的正義を振りかざしていた部分は相当にある。たぶん、それは病的ですらある(もっとも以前に何度も書いたように、既存メディアの病気は、そもそもはネットと無関係に発症した。ネットの発達が病気の進行を早めてはいるが)。


だけれども、「言論のフラット派」(と名付けてみた)の言うように、ネットが発達し、だれもが自由に情報を発信できるようになったとしても、それによって「情報の所有度」までもがフラットになるわけではない。だいたい、「格差社会」などと言われ、種々の社会的格差が拡大する現在においては、情報を持つ者と持たぬ者の格差もどんどん広がっていく。情報を持つ者と持たざる者の「情報発信力」は、最初から格段の差があるし、パソコンとネットを少々手にしたところで、それが解消されるわけではない。

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by masayuki_100 | 2006-09-05 10:31 | ★ ロンドンから ★ | Comments(4)