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ニュースの現場で考えること

ロンドンで摘発された航空機同時テロ計画に関連して、この事件の詳細をニューヨーク・タイムズ紙が28日付けで報じた。ところが、同紙は、ウェッブ上の同じ記事について、英国内からはアクセスできないよう措置を取ったという。それと同時に、当日の新聞紙そのものについても、英国への配送を中止した。。。という話を、英メディアが伝えている。たとえば、ガーディアン紙の「New York Times blocks UK access to terror story 」の記事。

英国には、過度の事件報道は裁判に予断を与えるとして、場合によっては報道が法廷侮辱罪に問われることがあるらしい。ニューヨークタイムズ紙もそれを恐れて、弁護士の指導に基づいて、「閲覧禁止」措置を講じたのだと言う。副編集長は英メディアに問われ、「報道の自由も大事だが、法律は尊重せねばならない」と答えている。「恐れ」だけで「自粛」するのはどうかと思うし、実際、英メディアも「過剰反応だ」という論評を掲げている。

まあそれはともかく、私は、「特定の国からのアクセスに対し、特定の記事(コンテンツ)だけを閲覧できないようにする」ということが、いとも簡単にできてしまうことに、ううむと思ってしまったのだ。知識としては知っていたが、それがどのような形でどう実行されているか等々は、あまり思いをめぐらせたことがない。

しかし、考えてみれば、たとえば中国は、当局がネット全体を厳しく統制し、国民一般が特定のサイトにアクセスできないように技術的制約を加えている。そんなことは、技術的には造作もないことなのだろう。ただ、中国みたいに、いかにもそういうことが起きそうだという国ではなくて、一般にはそういうことが起き難いと思われている国で、それが発覚してしまった。そこに、「ううむ」感がある。

おそらく、中国でも米国でも英国でも日本でもその他多くの国々で、インターネットに技術的制約を加えることができる人々が(それは多くの場合、治安当局や企業等である)、それぞれに都合よく、「こっちのサイトはわが国民に見れないようにする」「このサイトのこのコンテンツは某国からはアクセスさせない」などとやっているのだろう。当たり前だが、情報をたくさん持っている人々はいつも、それを自らの都合で加工したり、隠したり、誇大に宣伝したりといったことを繰り返しているのだ。

わたしは以前から、どうも「インターネットがつくるフラットな世界」とか、「ネットによって言論はフラットになった」とか、そういう議論に首をかしげていた。確かにネットの普及で、大勢の人が自在に情報を発信できるようになったけれども、それは「ツールを手にしただけ」の話である。ツールがあるからといって、情報もそこにあるわけではない。そして、そのツールすらも、自らの気付かぬところで、誰かが制約を加えているかもしれない。

「ネットが生むフラットな言論空間」などという牧歌的な雰囲気に包まれて、ばら色の世界を夢見る気分には、どうもなれないのだ。実際、この瞬間にも、ある検索サイトでは、ある特定の語句が検索できなくなっている、あるいは表示されなくなっているかもしれない。そして、そのこと自体にわれわれは気付かない。そんな世界が、もうそこまで来ているような気がする。実際にそうなっていなくても、そういうことが技術的に可能な世界、というのは相当にマズイと思うのだが。
by masayuki_100 | 2006-08-31 17:16 | ★ ロンドンから ★ | Comments(9)

「糞バエ」

スミヤキスト通信ブログ版さんが「辺見庸氏の罵倒」という一文を書いている。そこに引用されている辺見氏の近著を私は読んでいないが、会社員記者を「糞バエ」と呼んだ氏の文章は、以前にもあった。「永遠の不服従のために」か、「いま抗暴のときに」か、あるいは別の一冊だったか。詳細は忘れてしまったが、辺見氏は過去、幾度か、わたしもそうである会社員の新聞記者・放送記者に対し、「糞バエ」か、それに類する激烈な言葉を投げかけた。

新聞労連委員長だった共同通信社の美浦さんは「辺見庸氏の罵倒に答えてみたい」という文章を書かれている。それらを読んでいたら、あの辺見氏の激烈な言葉を目にしたときの、言いようのない、深い絶望感のような感覚を思い出した。

私が「糞バエ」を初めて目にしたのは、たぶん、2001年ごろである。東京で経済官庁の取材を担当していた。日々の仕事にそれなりの刺激はあったけれど、一方で、役所の広報マンじゃあるまいに、役所が主語の記事をこんなにも書き続けて喜んでいる俺はどうかしている、という思いも抱えていた。

「糞バエ」を記者仲間に読ませたとき、「いくら何でもここまで言うか?」という感想が返ってきた。それがたぶん、一般的な感想だろうと思う。書いてあることは正論だが、その正論はなかなか組織の中では通じないんだよ、会社あっての個人だから、と。

そういう声に対し、辺見氏は種々の著作の中で、問うている。で、君は、組織の中でどう抵抗したのか? 戦争反対の誰かのインタビューを取りに行くのもいいけれど、そんなのは簡単だろう、それよりも日々戦え、と。虚飾に満ちた紙面を脇に置き、記者たちの内臓に手を突っ込むような激しい言葉で迫ってくるのだ。識者の「反戦談話」を取り、それを紙面に載せることで、日本の平和に寄与したような感覚になる記者を、彼は許そうとはしない。それは偽善だ、と。足元で戦えない者は、結局、戦えないのだ、と。私なりの解釈では、辺見氏はそう繰り返している。

「糞バエ」と言われて、それに反論する気持ちにはなれなかった。ひたすら落ち込んだ。今もそうかもしれない。ただ、一方では、自分自身と自分の行動に対する、もっと深い洞察が必要だと思った。もし万が一、「自分は糞バエではない」と胸を張って言えるとしたら、それはどんな姿なのだろうかと、それをもっと深く考え、行動すべきだと。そして、今もそうなのだが、あの激烈な言葉を読むと、自分の心の奥底に、なにか、ずっしりとした、例えば、マグマのようなものが燃えているように感じることがある。そこからはいつも、「このままじゃ、いかんだろ」という声が発せられているように感じるのだ。夜逃げのように慌しい引越し作業の中、ロンドンへの荷物の中に辺見氏の本を半ば無意識に何冊も詰め込んだのは、その何か燃えるようなものを、時々、呼び起こしたいという気持ちがどこかにあったからなのだと思う。
by masayuki_100 | 2006-08-30 11:59 | ★ ロンドンから ★ | Comments(4)

オーマイニュース日本版が始まった。初日には、市民記者による記事が80本近く掲載されたそうだ。アクセスも順調のようで、ページを覗きに行くと、画面が非常に重い。画面が重いということは、アクセスが多いことの裏返しでもあるから(もちろん技術的理由等もあろうが)、読者としては、つながりにくい画面をじっと待つ。つながりにくいと、余計見たくなるのだ。待ちながら、「画面が重いのはオーマイニュース側の戦略かもしれないなあ」と思ったり。だから、まだ、ほんの一部のページしか見ていない。

一部のページを見た中で、気になったことがいくつか。一つは、<ある日本人男子留学生に「怒り」 中国大連の空の下、30女は吠えた!>という記事である。今現在、アクセスランキングは第2位で、すでに3万以上のページビューがあったらしい。気になったのは、記事の内容そのものよりも(内容も気になったが)、コメント欄に記された筆者自身のコメントだ。

そのコメントは、60番目にあり、筆者は「準備中ブログの時掲載された記事が創刊号にも掲載されるとは思っていなかった為、自分でも驚きました」と書かれている。そのコメント内容が事実その通りとした上での話しだが、これは編集部がまずいと思う。過去に同じ企業体に投稿したものであるとはいえ、「準備号」と「本番」は、媒体と注目度も違う。それに、「ニュース」をうたうならば、たとえそれが評論的なものであっても、「新鮮さ」は命だ。

「準備ブログ」の掲載が8月8日だから、本番への掲載までに20日以上も過ぎている。この間、記事の登場人物や背景、その他諸事情に、どんな変化があったか分からない。それを考慮せずに、まして筆者当人にも知らせずに再掲載したとしたら、これはもう、ニュースに対する編集部の感覚が少しおかしいと思わざるを得ない。ふつうは「再掲載しますが、書き換える場所とかないですか?」と連絡するのが筋だろうと思う。

もう一つは、トップページの左上にある「オーマイ速報」だ。各記事を読んでいると、ソースはほとんど「NHK」「朝日新聞」「読売新聞」である(米国の航空機事故のように、ソースが明示されていないものもあるが、これは論外)。おそらく、推測ではあるが、これらの速報記事は、オーマイニュースの在東京本社の編集部員が、本物の新聞やテレビを見ながら、重要だと思った記事を要約して掲載しているのだと思う。

しかし、日本のメディアの構造的欠陥の一つは、ニュースの過半が「東京一極集中型発信」にあることは疑いない。そのことは、私自身もこのブログに何度か綴ってきた(たとえばこのカテゴリーの記事など)。オーマイニュースの「オーマイ速報」は、全体の中では単なる付け足しかもしれないが、編集部の手のみで作られているからこそ、その姿勢も垣間見える。「東京発」「中央発」のニュースに頼っていては、既存の大手メディアの目線と、なかなか違いは打ち出せないように感じる。
by masayuki_100 | 2006-08-29 03:34 | ★ ロンドンから ★ | Comments(1)

いつしか夏も終わり

前回、ここに書いたのは、サッカーW杯の最中だった。その間に、「1912年以来」と言われた猛暑の7月は去り、夏は8月4日に終わった。いまはもう、ロンドン市民は、朝晩長袖である。時には、コートを羽織っている人もいる。それほどに街は涼しくなった。

この間のトピックと言えば、ロンドンを舞台にした「航空機爆破テロ未遂事件」だろうか。ロンドン・ヒースロー空港発の米国行き航空機を大量に爆破する計画であった、とされている。標的は10機とも12機とも、言われた。当初、24人が身柄を拘束され、起訴前に数人が保釈された。

この種の事件の実相は、裁判が始まってみないと分からない。当地の報道でも、計画内容はずいぶん、種々の内容が語られた。「子連れの夫婦が実行役で生後半年の子供を道連れにするつもりだった」という話、「ペットボトルの燃料を使い捨てカメラのフラッシュで発火させる計画だった」という話、「殉教ビデオが見つかった」という話。ほかにも種々、書き尽くせないほどの雑多な話が報道されたが、計画内容については、9・11と比較すると、どうも幼稚な感じがする。嘘ではなくても、政府・治安当局から英国記者へのリーク情報が、どこかで何かが誇張され、それが繰り返され、派手に喧伝された感じがぬぐえない。

この関連でいうと、計画発覚後、英国やその他の国々の空港では、「どうしてこんなことで?」と思うような理由によって、乗客の強制降機や航空機の引き返し・緊急着陸が続いている。

数日前に明らかになった「強制降機」は、22歳の大学生2人。スペインに旅行に行った帰り、英国行きの飛行機に乗ったところ、他の乗客が「あいつらアラビア語をしゃべっている」「名前がイスラム系だ」「服装がヘンだ」とか騒ぎ、「こいつらを降ろしてくれ。きっとテロをやる連中だ」などと乗務員に言い募ったらしい。

2人は確かに中東系の容貌で、黒の革ジャンを着込み、飾り物をちゃらちゃらと身につけていた。でも、それは、高齢の人から見れば眉をひそめたくなる格好ではあっても、「テロリスト」ではない。だいたい、テロリストに決まったファッションなどあるものか。結局、2人は降ろされ、別の便で英国へ戻ったのだが。

他にも、機内に備え付けの紙製汚物入れの隅っこに見慣れぬ文字が書かれていたとして、エジプト行きの飛行機がイタリアに緊急着陸したとか、搭乗前の清掃中に機内で読めない文字の紙片が見つかり一帯が閉鎖されたとか、航空会社のパイロットなのにイスラム系というだけで飛行機から下ろされたとか、とにかく、そんな話が続々と明るみに出ているのだ。過敏すぎると言えば、その通り。乗客の不安も分からぬでもない、と言われても、うなづいてしまう。

空港の警備担当者は、明らかに「人種」を意識し、非白人を重点的に調べているのは、周知のことだ。実際、ヒースロー空港に行くと、搭乗前の保安検査において、係員に声をかけられ、別の場所へ連れて行かれるのは、ほとんどが非白人である。実際、昨年7月のロンドン同時テロ後は、ロンドン警視庁幹部が「白人を捜査対象にするのは時間のムダだ」と語っている。

そんなことを考えているうちに、当地の夏は完全に終わったのだ。
by masayuki_100 | 2006-08-26 08:01 | ★ ロンドンから ★ | Comments(4)