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ニュースの現場で考えること

結局、「個人」なのだ。

時々、「うおおおお」と叫びたくなる。それほど、ここ数年のメディアの閉塞ぶりは、すさまじい。このブログを立ち上げた理由も、何とも言えぬ閉塞感をどうにかしたいと思ったからだった。でも、こんなちっぽけな試みとは無縁なところで、メディア企業内部の「事なかれ主義」は怒涛のように渦巻いている。しかも渦巻きは激しくなる一方だ。

いまのメディアが最大の病は、組織が官僚化し、事なかれ主義・前例踏襲主義が蔓延し、だれも責任を取ろうとしない、新たな試みに臆病になっていること等々に最大の原因がある。そのことは、この10ヶ月、私もこのブログで書き続けてきたし、最近出した対談集「ブログ・ジャーナリズム 300万人のメディア」でも力点を置いて喋ったつもりだ。先日、集英社新書の「ご臨終メディア」を読んだときも、その内容があまりに的確で、かつ私の感覚と似ていて唸ってしまったほどだ。それほど、病気は重い。

しかし、ほんのわずかではあるけれども、「これじゃイカン」という動きは、細々と動き始めている。最近は企業内記者やフリーを問わず、そういう鬱屈した思いが、じわりじわりとマグマの胎動になり始めているのではないか、と。そうした類の危機感は、既存メディアの心ある記者は、十二分に抱いている。そしてチャンスを待っているのではないか、と。

この数ヶ月、いろんな人に会ったが、みんな驚くほど、「ヨコのつながり」を欲していた。「企業や組織の枠を超えて、個人が個人でつながるネットワークができないか」と口にする人も、何人もいた。大事なのは「個人」なのだ。会社の看板を外し、それでも「記者」として良心と力と役割を発揮していきたい、そのためにはどんな方法があるのか・・・。多くの人がその部分で考えをめぐらせている。時として、官僚組織以上に官僚的に振舞う編集幹部の姿を目の当たりにしながら、「自分はどうすべきか」と真剣に考えている。今はまだ、会社の看板の陰に隠れているけれど、そんな思いは、種々の組織でマグマのように熱を持ち始めている。

もちろん、メディア組織外でも「このままではダメだ」という人が増えているし、何らかの具体的アクションを起こそうという動きが、これもわずかだが、出始めているのは間違いない。私も「自由記者クラブ」構想なる夢想を虚空に放り投げ、それがどこに落ちるのか、目を凝らしている。

この先、何がどうなるか、明言はできない。結局、何も動かないかもしれないし、マグマが噴き上げることになるかもしれない。でも、「自分の胸の内でもマグマがたぎっている」と自覚する人は、どんどん増えているのだと感じる。そして早晩、そうした人たちは、こんないくつものネットワークのどこかに、「個人」として集まってくるのだと思う。
by masayuki_100 | 2005-10-28 16:29 | ■2005 東京発■ | Comments(33)

講演会やら何やら、最近は外でしゃべる機会が増えてきた。やはり、これだけはどうも苦手というか上達せず、毎回、「ああ、あれを言い忘れてしまった」「あれも言いたかった」の連続である。2週間ほど前には平日に休暇を取って、武蔵境のICU大学で、講演の機会をいただいた。熱心な学生さんから「ぜひに」と言われ、私も「学生相手だから、まあ、あんな話、こんな話でお茶を濁して・・・」と思っていたが、教室は160人ほどの学生で満席になり、結局、最後はまたもや「あれをいい忘れたなあ」といった感じに陥ってしまったのだ。

そんなこんなで、少し、そういう機会は減らそう、休みの日はのんびりしようと思っていたが、今回は別である。喜んで、引き受けたのだ。アジア記者クラブ主催の 設立14周年記念シンポジウム「『記者クラブ制度』は世界の非常識、情報カルテルだ」が、そのイベントである。「14周年記念」という、いかにも半端な数字がシブイが。

登場するのは、警察庁記者クラブと警察庁を相手に「われわれの会見出席を妨害するな」事件を起こしている(仮処分申請)、フリーランスの寺澤有さん&週刊現代副編集長の舩川輝樹さんのコンビ、かつて警察庁の会見に出ようとして摘み出された経験を持つジャニーズ系の風貌の西日本新聞記者・宮崎昌治さん(現在は福岡県警担当キャップ)、そして私である。

寺澤さんのブログでは、このイベントは「『記者クラブ問題』最先端事情」というエントリで紹介されている。それによると、『舩川氏と筆者は、「記者クラブが役所から無償かつ独占的、排他的に記者室や情報などを提供されているのは、同業者としてのみならず、納税者としても許しがたい」という意見。高田氏と宮崎氏は、一定限度、記者クラブの効用も認めているようだ』と書かれている。なんだか、私は(宮崎さんも)「守旧派マスコミ」の右代表みたいになりそうで、今から怖い・・・(^^;

いずれにしても、11月11日夕(東京・文京区)の催しはそこそこ面白くなりそうなので、ご関心のある方はぜひどうぞ。
by masayuki_100 | 2005-10-28 11:46 | ■2005 東京発■ | Comments(4)

ここ数日、札幌に滞在している。東京も寒くなってきたけれど、札幌はそれ以上に寒い。5号館のつぶやきさんが少し前のエントリ「ユキムシの頃」で書かれていたように、この札幌郊外でも連日、雪虫が舞っている。もうすぐ、雪の季節だなあ、としんみり。やはり、北海道の夏は短すぎるし、秋の駆け足は早すぎる。空気が凛とした、寒い季節も嫌いではないけれど。

パソコンにアクセスもせず、そんなぼんやりした日々を過ごしているうち、Grip Blogで面白いことが起きたようだ。「緊急!「民主党 ブロガーと前原代表との懇談会」の出席者募集」が、それである。10月末日、民主党の前原代表がブロガーを招いて、党本部で懇談会を開催するという。「懇談」と称してはいるが、内容はオープンになることを前提にしており、実体は記者会見と同種のものだ。

同じ時期、自民党もブロガーを集めた懇談会第2弾を開催するようだ。これもGrip Blogに書かれている。その末尾でGrip Blog主宰の泉あいさんが、「民主党さんはどうすんのょ」と溜め息交じりに書いており、もしかしたら、民主党はその溜め息に突き動かされたのかもしれない。

双方の政党による「ブロガーの招き方」を見る限り、私は民主党に軍配を上げる。自民党が党側で人選を行ったのに対し、民主党側は、人選を泉あいさんに一任しているからだ。警備上の理由など種々の要因が働いた結果かもしれないが、名も無き(いや、すでに有名かな・・・)泉さんに人選を一任するというのは、相当に思い切った策ではないか(もちろん、泉さんある意味、甘くみられているからかもしれない)。ブロガーの囲い込み、ブロガーを利用した宣伝戦も、そろそろ無視できなくなってきたということなのだろう。人選を泉さんに一任したことで、民主党に対する世間の評価がプラスに働くことは、ほぼ間違いないからだ。言ってしまえば、たぶん、民主党による「話題づくり」だろう。

で、問題はその先だ。

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by masayuki_100 | 2005-10-28 10:42 | ■ネット時代の報道 | Comments(6)

小泉首相の靖国参拝について、書こうと思っていた。

中国や韓国の反発があろうとなかろうと、参拝は政教分離を定めた日本国憲法に違反する行為ではないか、とか。「公約を守る男」を演出したいのかもしれないが、それなら在任中に国債発行残高を膨張させ、挙句、国債抑止の公約破りなんか大した問題ではない旨国会で語ったことはどうなのか、とか。そもそも首相には対米追従外交はあっても、東アジア・東南アジアを対象とした中長期の外交構想は無いのではないか、とか。

そんなことを記そうと思っていたが、先ほど、興味深い論文を読んだので、話はそちらへ。新潮社の月刊誌「フォーサイト」11月号の「SNSは権力の複製装置と化すのか」である。筆者はジャーナリストの阿部重夫氏だ。

阿部氏は先の総選挙結果について、「(首相に)尻尾を振るだけの手合いが多いのには驚かされる」と強調する。その上で、若手ベンチャー企業の経営者らが「YES!PROJECT」を立ち上げたことに言及し、そのプロジェクトはそもそも、立ち上がり時点から「誰が見ても小泉改革寄りだったことは明らか」と喝破している。その阿部氏が記事中で引用した同プロジェクトの呼びかけ文は、次のようなものだ。

(以下 同プロジェクトから引用)
「今まで、日本の政治は、支持基盤と癒着した守旧派を中心とした『抵抗勢力』により、遅々として進まず、閉塞感が漂っていた。しかし、今やっと、日本の政治が動き始めるような気配がある」「このタイミングでしっかりとした改革がなされないと、結局そのとばっちりを食うのは、僕ら若手である。今、僕らが立ち上がり、もっと積極的に発言し、選挙に行き、改革を進める人々をサポートすることにより、世の中を変えられると思う」(引用終わり)

「改革」や「守旧派」といったキーワードが、自民党の広報戦略と軌道を一にしたように映るのは、阿部氏だけではあるまい。

詳細は記事を読んでもらうしかないが、阿部氏は、mixiなどのSNSが政治への「貸し座敷」となったとし、組織された個人の集合体であるSNSは早晩、企業のセールスの道具となり、政治の道具として利用されるとの見通しを語っている。阿部氏はまた、政治の暗さや権力の怖さを知らないナイーブな若者たちが、そうしたネットを媒介として国会の外に集っていく現状を記し、国会の外に誕生した「小泉チルドレン」の群れこそが、国会内の小泉追従の議員よりも「恐るべき子供たち」なのだと書いている。

阿部氏は記事は、少々荒っぽい部分もある。しかし、ネット上のブログやSNSは技術的に新しいだけの話だ。技術の新しさは、言論の新しさを担保しないし、知恵にも資金にも長じた人々に上手く絡め取られてるのかもしれない。

そんな当たり前のことを、今更ながら気付かせてくれる。
by masayuki_100 | 2005-10-19 04:12 | ■2005 東京発■ | Comments(18)

読売新聞社会部の手による「会長はなぜ自殺したか―金融腐敗=呪縛の検証」は、実に優れた著作である。取材が深く、あっという間に読んでしまった。この本の紹介では、こうある。

「証券会社による損失補填の発覚に端を発した金融不祥事の嵐は、銀行、大蔵省から政界にまで及んだ。その渦中で、第一勧業銀行の宮崎邦次元会長、新井将敬代議士をはじめ6名が自殺に追い込まれていった―。彼らを追い詰めたものは、いったい何だったのか。政・官・金融界の癒着、「総会屋」という日本独特の存在など、日本企業社会の歪みを徹底的に暴いた記念碑的ルポルタージュ。」

金融不祥事が連鎖していた当時、私は札幌と東京で拓銀破綻関連の取材に追われていて、第一勧銀事件などには直接関わることはなかった。それでも、同じ時代に同じような現場の空気を吸っていただけに、実に感慨深い。その後、見かけ上は金融・証券業界も落ち着き、外資などもたくさん参入し、あの時代の空気はどこか遠くに行ってしまった。

それにしても、企業の不祥事はいったい何だろうか、と思う。1年以上も前の話になるが、講談社が出している「IN・POCKET」の2004年8月号に『「日々、真面目に」の落とし穴』という短い文章を書いたことがある。そこでは、拓銀や道警など不祥事に直面した組織が組織防衛に走る姿を念頭に、こんなふうに記した。

「内部にいる者にとって、自分の所属する組織の「異常性」はなかなか自覚できないのだ。大組織であればあるほど、職務は細分化されているから、自分の仕事を真面目にこなしていれば、それなりに時間は過ぎていく」「組織はトップが動かすが、各部署で陣頭指揮をとる中堅幹部が「日々、真面目に」だけを念頭に過ごしていたら、その組織は緩慢な死に向かうだけである」

企業の不祥事・事件はその後も続発している。そうした事例を見ていると、組織を預かる人たちの目線があまりにも「内向き」であるlことに愕然とする。組織の人間だから、組織を守るために働く場面は、むろんあるだろうと思う。

ただ、上記の読売新聞社会部の著作などを読んでいても思うのだが、不祥事に揺れる組織の中で、その経営陣や幹部たちが「組織を守る」という言葉を吐くとき、多くのケースでは本音は「組織」ではなく、「自分自身」ではなかったのか。「組織を守るために仕方なかったんだ」などという説明は、実態と違うのかもしれない。実際は、組織内での自分の地位や立場を守り、責任を逃れようとしていたのではないか、と。そうした本音を「組織のため」といったセリフが覆い隠しているのかもしれないし、この考えは案外、外れていないのではないかと感じる。

もちろん、金融・証券関係の大企業だけでなく、他の業種も行政も報道機関もその例外ではない。そして、そうした経営陣がそうした「内向き」の発想に寄りかかれば寄りかかるほど、組織は歪み、再生のチャンスを逃し、顧客や社会の信用を失い、結局は「損」ばかりが膨らむ。そんなことは、過去の数多の経験に学べば分かるはずなのに、それが自身に降りかかると、そうした経験には全く眼が向かなくなる。そこが私には、よく分からない。組織の中で地位が上がっていけば、そうした感覚は誰でも身に着けていくものなのだろうか。
by masayuki_100 | 2005-10-18 14:57 | ■2005 東京発■ | Comments(10)

治安維持法と共謀罪

10月17日の午前4時近くになった。夜勤の仕事を終え、少し前に自宅に戻ったばかりである。比較的ゆったりとした夜勤ではあったけれど、勤務中の緊張した感覚が持続していて、夜勤のあとはアドレナリンが簡単には下がらない。勢い、夜更かしが進む。

書こう書こうと思い続けていた「共謀罪」のことを今夜こそ書こうと思っていた。そのために、少し調べものをしていたのだが、なかなか調べきれない。共謀罪については、戦前の治安維持法と比較して語られることが多いのだが、私には、「治安維持法による初の立件は、同法制定から数年後だった」というおぼろげな記憶がある。それを確かめたかったのだが、手持ちの資料やネット上では、それがなかなか見つからない。もしかしたら、記憶違いかもしれない。。。

そうやってネットサーフィンをしていたら、法政大学大原社会問題研究所(大原社研)のページに行き着いた。その中の「日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動(The Labour Year Book of Japan special ed.)第四編 治安維持法と政治運動」が、なかなか読ませる。

その第1節によると、治安維持法による被検挙者数は8万人近いと思われる、という。「8万人」は、相当な数である。さらにページを読み進むと、「第二節 流言飛語の取締り」に行き当たる。かつては「戦争反対」を口にしただけで逮捕・投獄されたという話は誰でも知っているだろが、それがどんなセリフだったのかは、私自身もよく知らなかった。「第2節」から一部を抜粋すると、こんな風だ。(以下引用)

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by masayuki_100 | 2005-10-17 04:32 | ■2005 東京発■ | Comments(3)

宣伝です。時事通信社の湯川鶴章さん、元徳島新聞記者の藤代裕之君、それに私。この3人による対談を中心にした本が出版されます。「ブログ・ジャーナリズム~300万人のメディア」が、それ。今月中旬、15日ごろから入手できるようになるそうです。対談自体は今年6月初旬に行われ、その後、総選挙の動向なども踏まえて、加筆するなどの方法が採用されています。

「ブログ」と「ジャーナリズム」は、「情報伝達手段」と「報道内容」の話であり、ごっちゃに議論しているとワケが分からなくなる分野です。では、この本の中では?・・・少なくとも、それぞれの意見の違い、問題へのアプローチの仕方等々に違いがあることは読み取っていただけるのではないかと思います(もちろん、意見が同じなら、話はおもしろくないわけですが)。この対談の中で私はおおむね、「ブログはいろんな可能性を秘めているけれども、情報の伝達手段にすぎない。また日本での利用者はまだまだ少ないうえ、ブログやネットの世界は利用者が偏在しており、現実社会の社会構成に比例していない。そこをきちんと認識しないといけないし、ネット・ブログ=改革派といった単純なものではない」等々という立場から種々の意見を述べています。

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この書籍は、仙台市の出版社「野良舎」から出ます。問い合わせなどは、野良舎へ。同社のブログもあり、そこから注文できるようにもなっています。

誰もが情報発信 ブログが開く個人メディアの時代 「ブログと総選挙」を緊急収録

Web log(ウェブログ)。新しいスタイルのホームページ・ブログがブームになっています。2005年3月末の国内ブログ利用者数は延べ約335万人で、2007年には約800万人になると予測されています。ネットの新しいコミュニケーションツールというだけでなく、アメリカでブロガーが記者として認められるなど、ジャーナリズムを担う新しい媒体としても関心を集めています。本書は記者ブロガーが語り合った近未来のホットなメディア論です。「ブログと総選挙」を緊急収録しました。(野良舎のブログから)


本の第2部では、R30さんら著名なブログ主宰者による対談もあります。

野良舎を主宰されている中沢さんは、本当に良い方で・・・。朴訥とした感じで、決して口達者ではないけれど、その雰囲気に思わず、「お父さん!」と呼びたくなってしまいます(もちろん、そんなに年齢が離れているわけではありませんが)。そんな方に出会えただけも、良かったなあ。
by masayuki_100 | 2005-10-12 13:23 | ■ネット時代の報道 | Comments(13)

過日、有楽町にて

過日、東京・有楽町の安居酒屋で、各地の地方紙の方々と飲む機会があった。記者ではなく、営業や広告、メディア部門の方々である。飲みながらの話だから、特段、結論があるわけはないし、元々、そういう場でもなかった。

話ながら思ったのだけれど、組織体それぞれの風土や慣習等々があるとはいえ、いまのメディア界においては、組織内部の「壁」みたいなものが、改めて再認識されているのではないか。

一つは、ネットを中心に媒体手段の進化は日進月歩で、それに沿うように、技術が変われば何かが変わる、という意識。一方で、技術が進化しようとしまいと、大事なのは報道の中身であって、それが変わらない限り、情報伝達手段が多少進化したところで、いまの報道業界が抱える本質的な問題(例えば「官依存」「発表ジャーナリズム」への過度の傾斜)みたいな部分は、何も変わらないだろう、と意識。その双方が、例えば、新聞社では、営業・広告、メディア、編集の各部門で別々に議論され、なかなか交わらないのだろと思う。おまけに、たぶん、そうした組織内部では、「編集がイチバン! その他は従」みたいな考えが染み付いている。染み付いていという人がいれば、それはたぶん、気付いていないだけのことではないか。

もう、そういう時代ではないはずなのだ。そのへんのことは、ずっと前にここでメモ書き風に記したことがあるけれど、実に当たり前のことだが、そんなことをぼんやり考えていた。。。そしたら、その飲み会に遅れて到着したGripBlogの主宰者・泉あい氏が開口一番、「取材がうまく進まない」「落ち込んだ」「もうだめだ」と弱気の連続。その場でこそ、私は、「なに言ってるんだ!」みたいなことを大きな声で言ったけれども、そういう気分、よく分かるな。私もしょっちゅう、そういうものに取りつかれる。強気で強がりな風を装っても、ああ、もうどうでもいいやとか、流れに身を任せた方がずっと楽じゃないか、とか。誰でもそうでしょ?
by masayuki_100 | 2005-10-10 20:10 | ■2005 東京発■ | Comments(1)

愛媛県警の現職警察官でありながら、組織的な裏金づくりの存在を暴露した仙波敏郎巡査部長について、仙波さんを支える会が、実名告白の前後の動きを連載している。これがなかなか面白く、迫力満点だ。愛媛県警の裏金問題をめぐっては、地元紙の愛媛新聞も今なお、精力的な報道を続けている。

双方の記事を読んでいると、「本当に役所の文化は全国共通だなあ」と思う。会計の仕組みが基本的に同じだし、組織的に裏金を捻出しようとすれば、その方法は限定されてくる。だから、どこでも同じような方法で裏金をつくらざるを得ないだのだろうし、同時に、警察庁を頂点に種々の指導が行き届いているに違いないことも、それに拍車を掛けているのだろう(もちろん警察庁は「指導」の存在を否定している)。

ところで、先に示した「仙波さんを支える会」のレポート第4回には、こんな場面が登場する(以下引用)。

ようやく話し終えた仙波に、弁護士の今川正章が
 「捜査協力者は一人もいないという話だったが、一人もいないなどということは、いくらなんでも無いんじゃないのか?」
 とたずねた。
 仙波は笑いながら
 「そういう認識が、もう間違いなんです。たった今、その認識を改めてください。そうしないと、裏金問題の本質を見誤ってしまいます」
 と応えたと言う。そして続けた。
 「警察官になって38年になりますが、少なくとも私はその間、捜査報償費が協力者に支払われたと言う事実をただの一度も耳にしたことがありません。県警は、捜査協力者の身に危険が及ぶという理由で、捜査報償費が支払われたことを証明する書類の開示を拒んできましたが、違うんです。捜査協力者は知る限り、全て架空の人物なんです。捜査報償費は所属に配分された瞬間に裏金に化け、その辻褄あわせのためにニセ領収書作りが始まるんです。だから、開示できないのです。不正がばれるから。考えても見てくださいよ、誰が身に危険の及ぶ情報を3000円や5000円の端金で売りますか」(引用終わり)

要するに、「捜査協力者」なんていないのである。それは北海道警察でも高知県警でも同じだった。最近と言っても、たぶん2ヶ月くらい前だったと思うが、朝日新聞が社会面で、「協力者への捜査費・報償費がいかに大事か」という趣旨の記事を社会面で大きく掲載していた(東京本社版)。愛媛新聞の記者も高知新聞の記者もそうだろうし、私もそうなのだが、少なくとも、この問題を真剣に取材すれば、朝日新聞の当該記事のような内容は事実に反していることが即座に分かると思う。最近では大分県警でも不正経理問題が浮上し、地元紙の大分合同新聞が関連記事を熱心に掲載している。
by masayuki_100 | 2005-10-08 19:57 | ■2005 東京発■ | Comments(4)

記者クラブ制度に関連し、私はいま、ぼんやりとした「構想」を持っている。構想だから頭の中に描いているだけであって、それを実行できる物理的・財政的根拠は、何も持ち合わせていない。でも、こういうものがあれば、いいだろうなあと。まあ、夢想と紙一重かもしれないが。

記者クラブ制度の問題は各所で議論されていたし、今も議論されている。それはそれで大事なことなのだが、私自身は、この制度に関する問題点の洗い出しは終わっており、論点は整理し尽くされたと思っている。あとは、どこをどう変えていくかの具体論しかない。で、その具体論のところで、既存メディア側はなかなか動かず、物事はまったく進んでいない。私は記者の集団としての「記者クラブ」は、あってしかるべきだと思っている。それについては、過去のエントリ(例えばココ)でさんざん書いてきたので、関心のある方はそちらに目を通してもらいたい)。

新聞やテレビによる報道の一番の問題は、「発表依存」「官依存」「当局依存」の構造になっている点にある。いわば、「発表ジャーナリズム」に陥っているのであって、どんな理屈を並べようと、現状を俯瞰すれば、当局(大企業等の民間も含む)の広報機関になっている事実は疑いようが無い。その点は、ジャーナリストの岩瀬達哉氏浅野健一氏らが早くから指摘しているし、事実、その通りだと感じる。最近では、ジャーナリスト寺澤有氏の指摘と行動が鋭い。

そうした「発表ジャーナリズム」を取材現場の日常風景に置き換えれば、こういうことだ。多少大袈裟な書き方かもしれないが、「毎日、役所等の記者クラブに出社する。役人等の話を聞く。役所側の発表を聞く。同業他社に役所ネタが抜かれていないかチェックする。役所の人と夜の街へ繰り出す」・・・そんな感じである。記者の日常は、多くが役所の庁舎内で終わり、取材相手は役所関係者だけで終わる。この場合、「役所」は「警察」でも「検察」でも「政治家」でも「大企業」でも、まあ、なんでも良い。要するに、「狭い」のだと思う。記者はよく、「付き合いの幅が狭い」と言われるが、それは一面で当たっている。日常のビジネスシーンに、役所関係者と同業他社と社内関係者しか登場しないのだ。そして、そうした日常風景を支える場所として、いまの記者クラブがある。

私の考えによれば、「発表ジャーナリズム」を支えているのは、記者クラブの存在よりも、記者の日常の仕事様式・思考様式そのものにある。記者クラブ所属している記者の中には、当たり前の話だが、素晴らしい仕事をする記者もたくさんいる。記者クラブの机から、その当該役所を揺るがすような記事もたくさん発信されている。それは間違いない。ただ、多くのケースでは、役所との関係の中でのみ記者の日常が終わり、記者の思考も役所的になっているのも、また事実だ。権力悪を暴き出すような原稿が「記者クラブ発」で世に出たとしても、多くの記事・多くの記者は「脱当局」の行動様式がなかなか取れない。そりゃそうだ。記者クラブに出社して、毎日そこに通って、役所関連の記事を書けと仕事で言われたら、開き直ってサボる場合は別にして、会社員はふつう、役所通いを続けるのだ。自由な取材ができる立場を組織内で得ようとすれば、10年くらいはかかる。そこに到達したとしても、その他大勢の記者・若い記者は、役所通いが続くのだ。これでは、「構造」は変わるはずがない。

だから、現行の記者クラブ制度が変わり、自由化されたとしても、取材者の姿勢・目線・行動様式が変わらない限り、おそらく、報道の内容は大きく変わらないのだ。今の日本では、メディア側の権力への「すりより」が一層激しくなっている。それは記者クラブ制度が存在するからではなく(もちろん大いなる関係はある)、記者の姿勢・性根にかかわる部分が根本にあると思う。

で、私の「構想」の話である。

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by masayuki_100 | 2005-10-08 14:50 | ■ネット時代の報道 | Comments(52)