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ニュースの現場で考えること

先だって、「日本でオルタナティブ・メディアをどうつくるか」(既存メディアとは違った新たなメディア、という程度の意味)というエントリを書き、多くのコメントやトラックバックをいただいた。とくに、私が勝手に送ったトラックバックを「宿題」だとして、「オルタナティブ・メディアについて」という記事をわざわざ書いてくださったテサラックのあいださん、ありがとうございました。そうした意見も参考に、私はその後もつらつらと、「新しい形」をぼんやりと考えている。

最近、一番参考になるのは、「Grip Blog ~ 私が見た事実」である。主宰者の泉あいさんとは、何度か会って話し込んだこともあるが、このブログは、「報道」の観点からみて、最近にないヒットだと感じている。どこかどう素晴らしいか。私なりに解釈すると、こういうことだ。

(1)名前出し、顔出し。書き手の存在がはっきりと目に見える。
(2)自分で足を運び、そこで得た事実をはっきりそれと分かる形(1人称)で記載している。文字通り「私の見た事実」であって、情報には、いわゆる純粋な意味での「客観的事実」など存在していないことを最初から前提にしている。
(3)誰かにインタビューする際、事前にそれを告知し、質問内容を広く公募するなど「双方向」の強みをふんだんに生かしている(衆院選における各党の候補予定者へのインタビューなど)。その結果も、種々のエントリで書き連ねている。
(4)相手側とのやり取りも含め、取材の経過を示している(警視庁記者クラブ問題など)。
(5)文章が的確。かなり上手い。

さらに言えば、「大卒が入社試験の必須要件であり、その後の下積み時代を経て、ようやく書きたいポジションに座ることが出来る」といった、既存メディア企業の旧弊も、この「Grip Blog」は軽々と超えようとしているのかもしれない。発信媒体(この場合はブログ)さえ準備が出来て、そして、熱意と戦術と若干のスキル等があれば、だれでも、記者になれるという事実を証明しているように思う。

ネット上には、同様に素晴らしいブログがたくさんある。

反骨のジャーナリスト、山岡俊介さんの「ストレイ・ドッグ」、ビデオジャーナリスト神保哲生さんのブログ、的確で簡潔な指摘が鋭い「木偶の妄言」さんのブログ、、、数えていくときりがなくなるが、こうしたブログには共通項がある。

実名でブログを作成し、なおかつ、自分の足で集めた情報を発信していることが、明確に分かる点だ。どこかで、どなたかが使っておられたが、「取材するブログ」という言葉が一番ぴったり来る。匿名ブログの場合は、必ずしも「取材するブログ」という特色は出し切れていないが、しかし、伝えたいこと、言い換えれば、当人の立ち位置が非常に鮮明だ(もちろん私は匿名ブログは全く否定していない。その理由は過去に何度か書いたので、繰り返さない)。

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by masayuki_100 | 2005-08-27 23:06 | ■ネット時代の報道

あちこちのブログで、「総選挙とネット」に関する話題が花盛りだ。ネットのヘビーユーザーも「数が多すぎて、もう追いきれない」が本音ではないか。

つい先日は、自民党が「メルマが・ブログ作成者との懇談会」まで開いた(報告はここが詳しい)。「単に自民党がブロガーたちを取り込もうとしただけではないか」「ブロガーもいい気分になったんだろうな」といった批判も既にたくさんネット上に溢れている。私もそうだよな、と思う一方、いずれにしても、技術革新に伴って、世の中はそういう方向に進んでいくわけだから、そろそろ「ネットジャーナリズム」の「第一次腕の見せ場」が近づいてきたと言える。

それはともかく、「ネットと総選挙」で私が言いたいことは、別のところにある。

過去のエントリでも書いたが、私自身の実感においても、あるいは種々の統計数値によっても、ブログの利用者はまだ日本の全人口の数パーセント程度しかない。ブログを頻繁に利用する人はそれはそれで良いのだろうけれど、世の中では、「ブログ」と聞いても「はぁ?」と思う人が圧倒的に多いのだ。しかも、ブログ利用者はおそらく、若年に偏在している。実際の世の中の社会構成、つまり、年齢構成や男女比、職業別・地域別といった社会の実相が、そのまま等しい割合でネット上に立ち現れているわけではない。

ネットが社会にどれだけ影響を与えるか、という命題を考える際、これは無視できない要素だと、私は日ごろから感じている。社会への影響度を現状に即して考えるにしても、将来見通しを語るにしても、参加者が少なかったり、偏在していたりといった実態がある限り、なかなか「影響度」の実態はつかみにくいのだ。

総選挙は、それを推し量るまたとない機会でもあると思う。投票前後には、マスメディアが高い費用を使って、大々的に世論調査を実施する。サンプル数も多いし、これは良い機会・・・と思うのは、私だけだろうか。世論調査の項目に、以下のような質問を入れてみると、現状での「ブログの力」がある程度分かると思うのだが。


<問い>
投票の際、あなたは主に何にを参考にしましたか(しますか)。

<答え(順不同に並べてみた)>
*テレビ *新聞 *街頭演説 *雑誌 *インターネット *選挙公報
*知人や肉親の薦め *その他


<問い>
上記でインターネットと答えた方にのみ、お尋ねします。インターネットの何を参考にしましたか。

*政党のホームページ *候補者のホームページ *報道機関のホームページ
*候補者とは関係ないホームページ(個人ブログを含む) *その他
by masayuki_100 | 2005-08-27 16:09 | ■2005 東京発■

Center and Periphery

台風一過のあと、東京は急に秋が近づいてきた。昼間はそこそこに暑いが、夜はもう秋だ。札幌の同僚に聞くと、札幌は最高気温がすでに20度くらいだという。季節は確実に動いている。

1週間以上もブログを放ったらかしにしている間に、多くの方からコメントやトラックバックをいただいた。その一つに極東ブログさんの「スティーブン・ヴィンセントが最後に伝えたこと」という記事がある。私の一つ前の短いエントリ「イラクの子供がこんな死に方をするときに」に対して、<このエントリに、「なぜ、即断せず考え続けないのか」と反論したい。なぜ、一人のジャーナリストが命をかけて、ニュースの現場であげた声を聞かず、教条主義に陥ってしまうのかと問いたい。>と書かれている。

重い問いだと思う。私はなかなか答えを見つけられないでいるが、その間に、極東ブログさんのエントリをたどっているうちに、懐かしい名前を見つけた。国際政治学者の高柳先男先生である。極東ブログさんは、高柳先生の著作を紹介し、<[書評]戦争を知るための平和入門(高柳先男)>というエントリを立てている。

「国際政治学を勉強してました」というのも恥ずかしい話だが、私は大学時代、国際政治学を専攻していた。高柳先生は中央大学だが、20数年前の当時は私の母校にも講師として来ていて、私もその講座を取っていた。講座だけでなく、神楽坂で終電近くまで、何度か「ああでもない。こうでもない」と議論したことを覚えている。高柳先生はよく「非対称の世界」という言葉を使っていた。現実を覆い隠す、うわべだけの言葉や概念を嫌い、それらを拭い去って現実を直視することの必要性を盛んに口にしていた。「正義のため」「国のため」「飢えている子供がかわいそうだから」。。。そういった言葉によって、何が隠れているか、あるいは誰が何を隠そうとしているか。それを見極めない限り、紛争の根幹は無くならない、と。当時はまだ、ソ連が平和勢力として日本の一部の人たちに受け入れられていた時代だが、高柳先生は「ソ連=平和勢力」といった発想を断罪し、例えば、ソ連のノーメンクラツーラと呼ばれる特権階級は何をしているかをきちんと見極めよ、と。そんな話を盛んにされていたと思う。もちろん、その対象は日本やアメリカ、欧州各国にも及んでいた。そのエッセンスは、極東ブログさんが「戦争を知るための平和入門」を引用して書かれている。

<地球上の一方でたらふく食っている人間が、チャリティでお金を出すというのも、非対称的すぎるわけです。そのような非対称的な世界を、「人道的」とか「地球市民」とか、きれいごとの言葉で覆い隠していることが多いのです。そういう非対照的な世界を覆い隠すような、きれい事の学問を作ってはだめなのです。>

<人道とか人権をふりまわすと、そのうち手垢がつく。そうすると政治の道具でしかなくなり、人道の名のもと、無告(ママ)の民が犠牲になるということがおこってくる。第三者が大義名分を振りかざして犠牲者を増やすよりも、当事者同士を消耗するまで戦わせる、というリアリズムが必要です。>

高柳先生の発想は、ノルウェーの国際政治学者ヨハン・ガルトゥング(Johan Galtung)氏から大きな影響を受けている。ガルトゥング氏の訳書もあるし、共同の著作もあったように思う。高柳先生の言う「非対称の世界」とは、世界の貧困や不公正の多くは、日米欧中などの先進諸国の連合(連合内に争いがあるにしても)が、その他の貧しい国々を主に経済的に支配していることに原因がある、というものだ。もちろん、単純なマルクス主義者ではないし、経済の下部構造を最重視するわけでもない。むしろ、それぞれの被支配層はなかなか団結できないということを証明した論理のように思える。そのへんは、「Center and Periphery」(世界の中心と周辺)という考え方をもとに体系的に説明されている。もちろん、私みたいな非才が理解できるレベルの話ではない。ガルトゥング氏の大まかな考え方はウエブ上でも読める。ほかにも最近の講演録はウェブ上で簡単に検索できるし、氏の言葉をイラク戦争支持の論拠にした政治家に対し、怒りをぶつけたブログなどもあって、なかなか面白い。

ガルトゥング氏の考えをまとめるのは簡単ではないが、その発想の基礎になった「Center and Periphery」については、簡単に言えば、以下のようなことだろうか。

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by masayuki_100 | 2005-08-27 14:56 | ■2005 東京発■

「薔薇、または陽だまりの猫」さんのブログにこんなエントリがあります。

「イラクの子供がこんな死に方をするときに、どうして米軍が勝利できよう」

内容は「薔薇、または陽だまりの猫」さんのページで読んでもらいたいと思いますが、どんな言葉を並べ立てようと、「国家」や「正義」といった種類の語句を使って現状を説明しようとしても、結局、戦争とはこういうことだと思います。私は、このイラク戦争を支持する人の気が知れません。なぜっかって? 「支持」するとは、それを認めることです。積極的支持か、消極的支持か、そんな言葉遊びは別にして、上記のエントリにあるような当事者(犠牲者たち)と面と向かった際、その相手の目を見て、「おれはこの行為(=あなたの肉親が殺された戦闘行為)を支持しているんだ」と言い放つことと同義です。

そんなことは、私はできない。だからイラク戦争もそれに加担するあらゆる行為や言説を、私は支持しません。
by masayuki_100 | 2005-08-17 11:42 | ■2005 東京発■

「大きな言葉」ではなく

何かの議論をしているとき、私はよく、「なるべく大きな言葉でしゃべらないようにしよう」と言う。とくに、仕事に関する議論で、そう口するケースが多い。

「大きな言葉」とか「大きな言葉を使わない」という台詞は、我流の言い回しだが、簡単に言えば、一つ一つの語句が指し示す「範囲」や「対象としているもの」をどんどん絞りましょう、というニュアンスだ。

例えば、Aさんが、「それは北海道のためにならないよ」と言ったとする。その場合、この「北海道」は何を指しているのか。それをもっと絞り込んでくさい、ということなのだ。Aさんの言いたかった「北海道」とは、何を意味しているのか。北海道の土地か、そこに住んでいる人か、気候風土か。人すなわち「道民」を指しているのだとすると、じゃあ、それは若者なのか年配者なのか、農業者なのかサラリーマンなのか、男性なのか女性なのか、主婦なのか、、、そうやって、最初に使用した「北海道」という言葉・語句をどんどん噛み砕いていきましょう、ということである。

こういう例示は、いくらでもできる。「この政策は日本人のためを思って提示した」という政治家が居たら、「日本にも多種多様な人が住んでいますが、そこで言う日本人とは、どういう人々を指していますか? 日本人全体にプラスになる政策があるのですか? それともこの日本人とは特定の階層の人を指しているのですか? そうであればどんな層ですか?・・・・」とか。

仕事帰りに居酒屋などで一杯やりながら、「だいたい今のニッポンは」などとやるのは、それはそれでいいし、私もよくそういう時間を持つ。居酒屋論議は議論そのものを楽しんでいる感じもあるし、ストレス解消になる。あれは結論など出ないところが良いのであって、そうした場においてまで、「大きな言葉を使うな」というつもりもない(場をしらけさせるだけだし(^^;))

でも、真面目な場面(例えば、選挙や議会での政策論争や仕事の議論・・・等々)においては、この「大きな言葉をなるべく使わない」作業は、極めて重要ではないかと感じている。実務的な、実質的な結論や成果を得ようとする際は、なおさらである。「大きな言葉」が使われるとき、それは、しばしば、議論のための議論に終始するケースが多いように思うし、物事の本質を覆い隠すことも多いし、はたまた扇動的・情緒的な側面のみが強調され、延々と議論した結果、何も残らなかったということも頻繁に生じるように思う。

最近は、ネット上の議論・言説がどこまで実社会を動かすことができるか、といった話をあちこちのブログなどで目にする。それ自体の回答を私は持ち合わせていないが、実社会への影響度という点に絞っていえば、「大きな言葉をなるべく使わない」ということも、モノサシの一つではないかと感じる。

それに、この「大きな言葉」に寄りかかり過ぎると、一気に老化が進むのではないか、と自分でも心配なのだ。例えば、「ネットばかりやっている最近の若いモンは・・・」みたいな。
by masayuki_100 | 2005-08-17 11:08 | ■2005 東京発■

8月15日の夜に。

日付が変わって、8月15日も終わってしまったが、この季節は、戦争を経験していない私にとっても、いろいろなことを思い出させてくれる。「特別な季節」とでも言おうか。

私事で恐縮だが、父方の祖父母と母方の祖母の3人は、20-30年前、いずれも高知の実家で他界した。最後は3人とも寝たきり状態だった。病院や施設で人生の最期を迎えることが多くなった現在では考えにくいことかもしれないが、当時は自宅で死を迎える人も珍しくなかったし、日本全体もそのような社会だったと思う。

父方の祖父母が他界したのは、確か、私が小学校5年生のときである。だから、あの晩の出来事は、その前年だったように記憶している。ある日、祖母が夕食のとき、突然、「清茂の分がない」と言い出した。母に詰め寄るように、「清茂の分はどうした?」と繰り返していた。父は困ったように「おばあちゃん・・・」と言い、祖父は祖母の名前を呼んで「もうええ加減にしいや」と言う。それでも、祖母は「清茂、清茂」と言い続けた。もしかしたら、もっと前にもそういうことがあったのかもしれないが、私がそういう祖母を見たのは、それが初めてだったように思う。

私は「清茂」さんを知らない。いや、正確に言えば、顔は知っていた。実家の床の間の高い位置、天井と壁が直角に交わるあたりに、軍服を着た清茂さんの写真がかかっていたからだ。清茂さんは父の兄で、終戦の前年に南方戦線で戦死したと聞かされていた。父は何度か、私たち子供3人に「兄さんが生きちょったら、どればあ、お前たちをかわいがってくれたろうねえ」と言ったことがある。

私の両親の戦争体験は以前のエントリでも少し触れたが、たぶん、祖母の心の痛手は相当のものだったのだろう。子供5人のうち、「戦後」を経験できたのは、父を含めて2人しかいないのだ。生き残った父も徴兵で中国戦線に行き、そして辛酸をなめたし、母は高知大空襲を目の当たりにした。母はしばしば「もう戦争はいかん。戦争だけはいかん。どうぞお前たち子供が大きゅうなったとき、戦争が無いようにと、そればっかり思いよる」と、子供たちに語った。父も中国の話や下関への引き揚げ船のことをよく語ったし、私たち子供はそうやって育った。

ただ、そんな中にあって、祖母から戦争の話を聞いた記憶はほとんど無い。それが、その夕食以来、一変したのである。

祖母の「清茂、清茂」という言葉を何度も自宅で飛び交う。「さっきまで清茂がここにおった」「清茂にも何か送ってやらなあいかん」・・・。「清茂のために」と言って、何か、服を用意していたことも覚えている。そして、みんなが「清茂さんは戦争で死んだぞね」というと、祖母は決まって、「清茂は終戦の年にちゃんと帰ってきた」と言うのだ。祖父や両親の困惑は日を追って強まった感じがした。祖母が「清茂」と言うと、両親は困ったように、私に向かって「あっちへ行き」と言っていたし、最後はいつも、祖父が「もうやめんかね」と言い聞かせていた記憶がある。

大きくなってから、祖母は認知症だったと私は知るのだが、当時はわけが分からず、そして、「清茂、清茂」という祖母の声が今も頭の隅から消えることが無い。そんな祖母も、祖父も、母方の祖母も、最後は実家の和室で大往生だった。

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by masayuki_100 | 2005-08-16 04:05 | ■2005 東京発■

福岡空港を離陸したJALウエイズ機から金属片が多数落下した事故で、少し前(8月13日夜)、こんなニュースが流れた。以下の引用はヤフーニュースの「時事通信」。

金属片落下、「航空事故」該当せず=事故調も調査見送り-国土交通省
 福岡空港を離陸したJALウェイズ機の金属片落下事故で、国土交通省は13日、けが人や機体の損傷状況から航空法が定める「航空事故」には当たらないと判断した。事故に準じる「重大インシデント」にも該当しないとし、同省航空・鉄道事故調査委員会も調査官派遣を見送る。


朝日新聞の報道では、「・・・国交省によると、航空事故は墜落や衝突などの重大事象を指し、それに準ずる「重大インシデント」は航空法施行規則でエンジンの破損や火災などについて14のケースが定められている。 今回はエンジンが破損し、炎が噴き出しているが、施行規則が定める破損は「エンジンを部品が貫通した場合」に限っており、火災も生じていないため、同省は「インシデントにも該当しない」と説明。同省航空・鉄道事故調査委員会による原因調査はしない」ということらしい。

たぶん、事故調派遣の細かな規則に則っての判断なのだとは思う。でも、上空から高熱を帯びた約600片もの金属部品が落下したことを考えると、なぜ、重大事故ではないのか、と思わずにはいられない。福岡空港やその周辺は、私もよく知っているが、住宅の密集ぶりはすさまじい。着陸時に機内から外を見ていると、まさにその住宅地に飛行機が突っ込んでいく気がするし、下から見上げると、「こんな場所をよくあんな低空で飛ぶものだな」と感じてしまう。「金属片の直撃を受けたら、死亡していたかもしれない」と住民が語っているのをテレビニュースで見たが、けが人が出なかったのが不思議なくらいだ。

そういうことを考えると、事故の原因究明を警察だけに担わせて良いのかと思う。当たり前の話だが、警察はそもそも原因究明を任務の第一にしているわけではない。今回の事故で言えば、航空会社側に刑罰に問うべき過失が無かったかどうかをまず調べる立場にある。

読売新聞の報道などによると、国土交通省はこの6月、タービン破損の恐れがあるとして、航空各社に部品交換などの対策を指示し、日航側は2010年までに対応すると回答。これを国交省も了承していたという。つまり、事故の原因はすでに明らかになっているから、また改善の指示は既に出していたから、わざわざ事故調を派遣するまでも無い、ということなのだろうか。

最近は、地震も怖いが、飛行機も怖い。JR西日本の列車事故のときにも漠然と感じた、何とも言えない気分----安全だと信じられていた人工構造物や人為的なシステムの内側で、何かが少しずつ欠落して行く、そんなもやもやとした不安がまとわりついている。「効率最優先」社会の帰結なのかどうか、そのへんは判然としない。だけれども、秒単位の遅れも許されなかったJRや、数分の遅れもマイナスになる航空会社のありようを考えたり、航空会社や鉄道会社の労働組合のホームページをたどっていると、余計にそんな感じが募ってくる。
by masayuki_100 | 2005-08-15 02:39 | ■2005 東京発■

まだ少し先の話だが、9月17日に東京の駿河台で、「第21回人権と報道を考えるシンポジウム 市民による 市民のためのメディアを」というイベントがあり、私もパネリストの1人として参加する。

当日はまず、かの韓国のネット新聞・「オーマイニュース」代表の呉連鎬(オ・ヨンホ)さんが講演する。後半のシンポジウムは「日本でオルタナティブ・メディアをどうつくるか」をテーマとし、パネリストには、<1>呉連鎬さん <2>フリージャーナリストとして警察腐敗・武富士・記者クラブ問題などの追及を続ける、私の友人でもある寺澤有さん <3>元毎日新聞編集委員で国際ニュースに強い永井浩さん(現在は神田外国語大学教授、かつネット新聞「日刊ベリタ」代表) <4>市民記者で同志社大学大学院留学生の李其珍(リ・ギジン)さん <5>私・高田 の5人が参加する予定だ。司会は、人権と報道・連絡会世話人で同志社大教授の浅野健一氏が務める。浅野氏は、月刊誌「論座」の9月号に「動き出す日本版オーマイニュース」という一文を寄せていて、新たなネットメディアの立ち上げにことのほか熱意を見せている。

時間のある方は私の過去のエントリ、例えば、「ネット(ブログ)は新聞を殺すのか」 「第二次記者クラブ訴訟と私の陳述書」 「マスコミを勧めない理由に対して」などを読んでもいただけたらうれしい。それらを見ていただければ分かる通り、私は日本の既存メディアがすべてダメだと思っているわけではない。

新聞社にしてもテレビ局にしても、いわゆる既存メディアは相当な問題点を抱えている。何かを変えようとしても組織がそれなりに大きくなりすぎて、事なかれ主義(=誰も責任を取りたがらない)がはびこり、変革に対する熱意が組織体から失われ、日々何となく過ごしていく風潮が年々強まっているように思う。1人1人の記者には、特に若い記者には、問題意識も豊富で取材も粘り強く、「すごいな」と感心させられる人がどの新聞社にもテレビ局にも居るけれど、それが組織全体の変化や斬新さにつながるかというと、それがどうもそうではない。個別の問題・具体的事例については、このブログでも再三書いてきたので、今回はもう書かないけれど、今の既存メディアにとって「そこが問題だ!」と指摘される事柄は、多くの部分が「組織のありよう」に帰結するのではないか、と感じている。

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by masayuki_100 | 2005-08-15 01:26 | ■ネット時代の報道

竹中平蔵氏のウエブサイトに、衆院解散を受けての記者会見の様子が収録されている(もちろん内閣府のHP内にもある)。

その中から以下のQ&Aを抜粋してみたい。

(問)大臣は、担当大臣になられまして、2003年の竹中5原則から始まりまして、郵政民営化の有識者会議であるとかタウンミーティングであるとか、手順を踏んできたわけですが、結果としてこのように否決になったということに対する責任について、どのようにお考えなのか。それと、その責任を何らかの形でとるおつもりがあるのか、その辺をお願いします。

(答)責任に関しては、明白であると思います。私たちの主張を滔々と展開して、国民から信任をいただくこと、そしてその信任の上に立って、郵政民営化の法案を将来の国会、次の国会でしっかりと通すこと、それが私の責任であると思っております。
 重要な点は、私たちは郵政の民営化を提案して、詳細な資料を提供して、そして190時間を超える時間にわたって答弁したわけですけれども、反対する側からは何の対案も出されていないということです。この点は大変、この問題を考える上で重要だと思います。
 皆さん、郵政の問題、「このままでいいとは思わない」と言います。「ではどうするのですか」ということになるわけですが、もちろん自民党の中の反対派も対案を出しておりませんし、民主党も何の対案も出しておりません。ただただ、「嫌だ、嫌だ」と言っているだけではないでしょうか。きちっとした対案があって、それで論争で敗れたということであるならば、これは責任のとりようもありますけれども、我々がきちっと案を示しているのに対して「嫌だ、嫌だ」と言うだけで、それではどうするのかと。将来に問題があることを認めながら「嫌だ、嫌だ」と言われても、こちらは責任のとりようもない。私は、今回のこの政策論争について、そういった点もぜひきっちりと国民の皆様には御理解をいただく必要があると思います。
 重ねて申し上げます。対案は、何も出されておりません。そしてこれは、これまでの改革の論争、例えば、経済政策の枠組みをどうするのか。反対する人はたくさんありましたけれども、対案は誰からも出されておりません。不良債権問題をどうするのか。私たちは提案しました。反対はたくさんありましたけれども、対案はどこからも、何も出されておりません。こういう形を続けてよいのでしょうか。私はやはりこれこそが、今問われている問題の一つであると思っております。

(抜粋終わり)

これと同様の発言を、竹中氏はその後の記者会見でもテレビ番組等でも再三行っている。

だが、竹中氏の言うように、本当に対案は何も出されていなかったのか。そもそも、竹中氏の言う「対案」とは、どのようなものを指しているのだろうか。その点を竹中氏は明らかにしていない。少なくとも、最大野党の民主党が郵政民営化について、自らの考え方・立脚点を何も示していないということはない。暇に任せて、国会議事録を読んでいけば、主に「政府vs野党」の論議の中で、種々の問題点があぶりだされていることは良く分かるし、民主党にしても2005年3月30日 民主党の「郵政改革に関する考え方」についてなどの文書において、郵政問題についての考え方は明らかにしてきた事実はある。

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by masayuki_100 | 2005-08-14 15:33 | ■2005 東京発■

お盆休み中の日曜日とあって、東京の街中は実に静かだ。都心部ではセミがうるさいほど鳴いている。そう言えば、昨晩はコオロギがずっと鳴いていた。暑い暑いと言っているうちに、どんどん夏は終わりかけているのだ。

そんな中、今年の永田町は大変である。9月投票の総選挙は過去に例がなかったそうだから、盛夏に実質的な選挙戦に飛び込んだ経験も、政治家諸氏は持っていないのだろう。街頭演説の様子などを見ていると、大汗をかいていて、大変そうだ。おまけに今回は、公認段階で激しいバトルが続いているから、候補予定者にとっては告示前の今こそが、選挙に勝ち抜くための最大の勝負だと過去の選挙以上に実感しているはずだ。

で、その事実上の選挙戦では、「公認争い」「刺客作戦」に焦点が当たり、今のところ、「郵政民営化法案に反対した前議員がどうなるか」が最大のポイントのように報道されている。政策の争点としては「郵政」一本槍の感がある。確かに、自民党の分裂(と形容して良いかどうか自信がない)も、郵政民営化問題も、選挙の注目点であることは間違いない。だけれども、これだけ一方向にのみ焦点が当たっていくと、私などは「ちょっと待ってよ」と言いたくなる。だって、そうではないか?

ほんの少し前まで、国政の重要課題は他にも山のようにあって、激しい論争が続いていた。社会保障制度改革も、自衛隊のイラク派兵問題も、対中国・対韓国をめぐる外交問題もあった。北朝鮮をめぐる種々の問題も、教育問題もそう。それに何より、憲法改正問題も大きな政治課題である。こうした問題は、衆院解散の時点で、きれいさっぱり解決したわけではない。問題は積み残しのままで、そして、議論が後景に退いただけである。

「郵政」をきっかけに解散が行われたから、それを「郵政解散」と呼ぶのは、あながち間違ってはいない。しかし、9月11日に投票すれば、われわれ有権者は今後、最長で4年後まで投票の機会が無い。

その4年間のスケジュールをぼんやり考えると、憲法改正の発議も視野に入ってくるだろうし、社会保障制度の行き詰まりもさらに明瞭になってくるだろう。消費税率の引き上げを軸にした増税もいよいよ実行段階に入ってくるに違いない。米軍再編はいっそう具体化してくるだろうし、それに伴って日米安保体制はさらに変容していく可能性も大きい。それに、無駄な公共投資はやりませんと小泉首相は言うのに、新幹線の延伸は進むし、あちこちの空港建設が止まる気配は無い。規制緩和をどんどん進める一方で、それを「民がルールを守っているか」を事後的にチェックする仕組みは、どんどん置き去りにされている。。。。一つ一つ書き始めれば、「課題」は山のようにありすぎて、うんざりしてしまうほどだ。

選挙における「争点」は、ときの政権がまず国民に提示するものだ。国民の付託を受けた政治家・政権が、当然に有する権能だと思う。それはそれでよい。しかし、有権者からすれば、争点は「郵政」だけではない。人はそれぞれに困りごとや不安を抱えており、それは多種多様である。その複雑多様な観点に立って、有権者は物事を判断するのであり、政権が提示した争点を「はいそうですか」と受け入れるほど単純ではないと思う。

そういった多種多様な声を集約して政策に生かす行為が「政治」のはずだ。だとしたら、いくら「郵政解散」とはいえ、郵政問題しか語らない候補予定者は、どんなものか、と私は思う。政治家諸氏にだって得手不得手はあるにしても、種々のメディアの報道を見ても、政治家個人のホームページを見ても、どこも「郵政」ばかりで、ほかは「公認問題」が目立つ程度だ。こんなんでいいのかな? 例えば憲法問題についてはどう考えているのか、増税問題はどうなのか。そういったことについては、これだけネットが発達しているのだから、少なくとも候補予定者のホームページ上では存分に読んでみたいと思うのだが。


<追加>

解散に関するネット上の言論では、この西尾幹二さんの話が面白かった。
西尾幹二のインターネット日録  「小泉首相、ご乱心」
by masayuki_100 | 2005-08-14 14:00 | ■2005 東京発■