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ニュースの現場で考えること

カテゴリ:■ジャーナリズム一般( 20 )

地方紙の時代

地方紙の時代だ、と私のブログにも時々書いている。地方紙のニュースはすべてがHPにアップされているわけではないし、面白い連載も同様である。それでも各紙のHPをたどっていると、実に面白く、意欲的な連載企画等に出会う。

考えてみれば、当たり前である。「全国紙」と何気なく言っているが、「全国紙」と言っても地方に行けば、人脈や陣容・取材網、過去の蓄積等々において、それぞれの地方紙にかなうはずがない。全国紙の支局がどんなに頑張っても、勝負は最初からついているケースが実に多いし、陣容が違うのだから、記事のスピードや深みに差があって当然である。そして、「日本」は「地方」の集積であることも、また当然である。ジャーナリズム考現学さんのブログ「全国紙とは何か」に詳しいが、全国紙は「首都圏紙」+「大阪圏紙」でしかないのかもしれない。そして、情報発信の東京一極集中が、情報の流れをどこかゆがめているのではないか。

まあ、そんな話はともかく、各地方紙には、なかなかの連載が多いのだ。ウエブ上で読めないものも少なくないし、それはそれで大いに残念なのだが。。。以下は、ウェブで読めるものの中から選んだ「私のお気に入り」。

<東奥日報>
生きる/あおもりの未来紡いで
解かれた核の封印 三沢基地の真実
国内最大!産廃不法投棄
<河北新報>
孤立を超えて 精神障害を生きる
<下野新聞>
誤認逮捕・起訴
<神戸新聞>
JR尼崎脱線事故特集
<山陽新聞>
岐路に立つ大橋 15年目の真実
<高知新聞>
懸命に走るハルウララ
<沖縄タイムス>
基地と沖縄
<神奈川新聞社・沖縄タイムス社 戦後60年共同企画>
■米軍再編を追う「安保の現場から 」

もちろん、これも → 高知県警捜査費問題 愛媛県警捜査費不正 兵庫県警捜査書類捏造
by masayuki_100 | 2005-06-12 19:58 | ■ジャーナリズム一般 | Comments(6)

旧聞に属するが、イラクへ派遣されていた米海兵隊が4月初旬、沖縄に戻ってきた。その一部はファルージャでの空爆にも参加していたらしい。かつてのベトナム戦争bかりではなく、イラク戦争でも、湾岸戦争でも、沖縄(=日本)は常に前線基地である。

ところで、その米海兵隊帰還の際の取材において、米軍側が日本のメディアを「選別」したことが、地元の沖縄二紙で報道されている。

<沖縄タイムス>「公正報道するメディア選別」/在沖海兵隊が回答
<琉球新報>基地内取材で海兵隊が県内2紙排除

上記の記事を元に、関連記事をたどっていけば主だった経過は分かるが、簡単に言えば、こういうことらしい。

ヘリ帰還を前にした3月末、米海兵隊報道部から共同通信、読売新聞、産経新聞、NHK、琉球放送(地元民放)の5社に基地内取材を認めるメールが入った。沖縄の2紙、沖縄テレビ、琉球朝日放送の地元メディア、それに沖縄に拠点を置く朝日、毎日、時事などはこのメールが来なかった。沖縄県庁記者クラブはこの「選別」を知り、5社以外の取材も認めるよう要請したが、実現せず。。。種々の報道によると、その後、いろいろなやり取りを経て、米軍側は最終的に以下のような内容の回答を寄せたのだという。

「メディアを選択した根拠は、報道機関の多様性、媒体の所在地、視聴者・部数の規模や範囲である。これらを考慮したうえで、われわれと強固でプロフェッショナルな関係を確立しており、公正でバランスの取れた報道を提供してきたと評価される報道機関を招待した」

権力によるメディア選別は、やや大仰に言えば、民主主義の自壊につながる。イラク戦争に限らず、世の中の出来事に対する意見、個人の思想信条などは実に多種多様である。報道統制などを通じて、そうした自由を制限したら世の中がどうなっていくかは、旧ソ連や旧東欧圏、いまの北朝鮮、中国などにおいて(もちろんかつての日本も)、十二分に目にしてきた。権力を持つ人々は自らにとって都合の良い情報は積極的に流し、都合の悪いものは隠す。その集積を通じて、「国益」などという言葉をまぶしながら、統治維持を図ろうとする。

多様な言論を通じ、異見を含めて議論を戦わせるからこそ、アメリカの民主主義は強いのではなかったか。おそらく、沖縄と同じ「メディア選別」を米国本土で行えば、大問題になったのではないかと想像する。上記の5社は(とくに現場の記者は)、米軍に「選ばれて」、何を感じたのだろうか。
by masayuki_100 | 2005-06-08 02:44 | ■ジャーナリズム一般 | Comments(10)

隠し撮り・隠し録音

少し前の「NHK・朝日新聞問題」の際、朝日新聞側が取材で隠し録音をしていたのではないか、ならば断罪・万死に値する、といった議論があった。朝日新聞自体は、内規でそれを禁じているようなので(事実誤認ならば、ごめんなさい。詳細は承知していないので、ご存知の方が居れば教えてください)、その内規に沿って、記者が処分されたこともある。

ところで、テレビではよく、事件で被疑者が逮捕された際、「○○容疑者」などというテロップとともに逮捕前の被疑者の映像が流れる。たいていは、単に街を歩く姿だったり、クルマに乗り込むところだったり。つまり、逮捕前の様子をテレビ局側が勝手に撮った映像を勝手に流しているのだ。撮影の技術的なことは良く分からないが、たぶん、超望遠レンズで、物陰や張り込み用車両の中から、こっそりと、無断で撮影しているのであろう。ふつう、これは「無断撮影」と呼ぶ。この手法が大きな問題にならないのは、捜査当局の立件後に放映するためであり、要するに当局の権力をバックに、「溺れる者は叩け」式に行動しているからではないか。当局と一緒になって、視聴者も巻き込み、「悪いヤツ」の人相を鑑賞しているのだ。

で、「録音」である。

録音についての的確な論考は、ブログ・情報流通促進計画さんの「BBCが隠し撮りをするとき」、山岡俊介さんのブログ・ストレイドッグの「朝日記者のテープ録音は違法でも何でもない」が参考になる。山岡氏は概要、「身の安全のため隠し録音することはある」と言っている。おそらく、私のような会社員記者には及びもつかないような、厳しい局面が何度もあったのだろうと思う。

もちろん、取材先との関係を考えれば、「取材」は「取材」として堂々とメモ帳なり、録音機などを取り出して目の前で見せ、取材行為であることを十二分に認識してもらうのが常道である。しかし、なかなかそれで済まない場面があることも分かる。

私自身は相当に「調査報道」をこなしてきたつもりだが、自分自身が隠し録音をした経験は、実は全くない。たいていは二人ペアで取材に行き、相棒にメモを取ってもらうやり方だった。録音するときは、堂々とテープレコーダーをテーブルの上などに置いて取材した。隠し録音したい衝動にかられたことは何度もあるが、私が現場で走り回っていたころは、小型録音機の性能もそんなによくなくて、テープの終わる「カチッ」という音が聞かれるのではないか、といったことが気になり、それをやろうとは思わなかった。隠し録音をしなかった理由は、今思い返してみても、その程度のような気がする。

それともう一つ。テープに頼ると、相手を詰めきれなく惧れも感じていた。相手が狙い通りのセリフを吐いても、それが単なるセリフ(言葉の断片)だったならば、意味は無いと思ったからだ。質問の言葉を変え、何度も何度も、事実上同じ事を質問する。その過程で取材相手には「あいつにしゃべってしまった」という明確な自覚ができる。そうなると、記事が出た後に前言を翻すことは、案外できないものではないか、と思う。山岡さんのような、真の意味での社会の裏側に迫る取材を経験していないからかもしれないが、そんな感じを抱いていた。そして、そういう調査報道は、恐ろしいほどの時間と手間がかかるのだ。ある役所首脳の不正に関する取材では、当該役所の元幹部に都合10回ほど、1回3時間程度の取材を繰り返したこともある。その取材すらも、不正の全体像から言えば、ジグソーの一部分に過ぎないのだ。
by masayuki_100 | 2005-05-31 15:35 | ■ジャーナリズム一般 | Comments(7)

「メディア」をキーワードにネット上を浮遊していると、しばしば「オルタナティブ(オルタナティヴ)・メディア」という言葉・概念に遭遇する。既存の大手メディアに変わって、私たちの新メディアを探しましょう、作りましょう、という動きであり、有名どころは韓国のオーマイニュースだろうか。歴史的社会的背景は違うし、ネット上での内容や表現方法も異なるものの、日本では、JANJANや日刊ベリタなどが、こうした範疇に近いのかもしれない。、もちろん、日本の各地域にも大なり小なり、「市民メディア」が立ち上がっており、種々の活動を続けている。

ところで、こうした「オルタナティブ・メディア」に必要なのは、言うまでもなく、ニュースに対する価値観の転換である。

例えば、毎年開かれる主要国首脳会議(サミット)。サミットに限らず、主要国の首脳が集う国際会議では近年、毎回のように会場周辺では「反グローバリズム」を掲げる人たちのデモや集会が大規模に行われる。彼ら彼女らは「人食い資本主義反対」だったり、「武器商人は帰れ」だったり、「ゲイを認めよ」だったり、主義主張は様々かもしれないが、とりあえずは言いたいことがあって、数万から十数万人も集うことがある。そうしたときに、各国の外務省役人が積み上げた「議長声明」を最重要ニュースとするか、デモを優先するか。価値観の転換とは、極端に言えば、そういうことなのではないかと思う。実は私も、この種の国際会議に数回、出張したことがあるが、そういうことを漠然と思いながら、ついぞ、「会議の枠内」でしかニュースを書けなかった(当然、いま思い起こしても良い内容ではない)という、何とも言いようがない思いがある。

この種の事例は、どこにでも転がっている。またもや「例えば」だが、永田町や霞ヶ関周辺では、しばしばデモや集会がある。そういうとき、多くの記者はたいてい、それをじっくり振り返ることもなく通り過ぎ、官僚や政治家のところを往復し、「ニュースの素材」を集めていく。たまに、それらに耳を傾け、活字にすることがあっても、おそらくは「行事もの」「イベント紹介」ぐらいにしか扱わないことが多い。

私自身は、実はデモ行進等の示威行動の効果には少し疑問を持っているが、しかし、それ自体は、さしたる権力も持たない普通の人々にとっては重要な自己表現のはずだ。イラク戦争の開戦前、世界や日本では一体どれだけの人々が街頭で、「イラク戦争反対」を叫んだか。それをどれだけのメディアが伝えたか。

日本のメディアのつまらなさは、「発表」「発表の加工・アレンジ」に大半の紙面や時間を割いていることにある。そこにある視点は、多くの場合、「官」であり、「経済団体」であり、「政治家」であり、「団体」である。こうした人々が数多繰り出す「発表」をどう処理するかしないか、で記者の日常のかなりの部分は費やされているのではないかと思う。勢い、目線は発表者に限りなく近くなっていき、各媒体ごとの独自性も失われ、集中豪雨的な報道が続く。

「オルタナティブ」とはたぶん、こうした視点を180度切り替え、従来なら1面に行くはずのないニュースに真正面から取り組み、それを多くの人に納得して読んでもらう作業から始まるのだと思う。その作業は、既存メディアの組織内記者だけは成り立たない公算が大きいし、「市民記者」の力も必要かもしれない。しかし、大掛かりな調査・取材が必要な場合は、やはり組織されたプロ集団も不可欠だろうと思う。

こうやって考えていくと(まだ上手く説明できないが)、オルタナティブ・メディアの根本は、報道の「中身」「視点」等にあるのであって、「紙かネットか」を二項対立式に論じていくと、焦点を外してしまうに違いない。ネットやブログは、あくまでツール。問題は「人の話を聞いて、資料等を集めて、問題を絞り、検証し、記事にしていく」という作業(=取材)を、どういう方向に進めていくか、どういう形で公表していくか、にある。いわば、報道そのものへの反省・再構築である。そうした部分を抜きにして、技術論を優先し、「ネットは新聞に代わるか」「ブログジャーナリズム」を議論しても、なかなか話は噛み合わないだろうし、有益な回答を見出せないように思うが、いかがだろうか。
by masayuki_100 | 2005-05-31 11:39 | ■ジャーナリズム一般 | Comments(1)

愛読しているブログ猫手企画@新聞屋さんのエントリ「カナロコTB&コメント解禁:猫手企画が1gets!」によると、猫手さんが神奈川新聞に初トラックバックを行ったそうです。おめでとうございます~。

その神奈川新聞が、毎日新聞に登場。「地方紙とネット 「カナロコ」の挑戦」と題する記事で、担当の局長さんがインタビューに答えています。それを読みながら思ったのは、いやはや、メンテナンスも含めてなのでしょうが、保守管理がたいへんそうだなあ、と。それに、やはり、新聞社によるニュースのブログ化には、ある種の制約がどうしても付きまとうなと。。。それはそれで致し方ないのかもしれない、という思いが募ります。

私は以前のエントリ(2月28日)「神奈川新聞のブログについて」で、新聞社によるニュースのブログ化には、いくつかの関門があるとの考えを記しました。それを整理すれば、主な2点は以下の通りでした。

(1)TBやコメント欄を無秩序に放置できない
 :選挙の際に特定候補に利用される危険、犯罪報道等で被害者等のプライバシーが暴かれ る可能性、特定宗教の布教に利用される可能性等々があるため。報道機関としての社会的責任がある以上、そうしたTBや書き込みは放置できないのは自明。かといって削除を始めると、その基準及び削除妥当性の問題が生じるほか、ブログの最大長所である双方向性を減殺してしまう。

(2)マンパワーの問題
 :上記のような事態を防ぐには、担当者を常時張り付け、いわば画面を「監視」する必要が生じる。そこまで人を配置して、果たして収益とのバランスはどうなるか。また、コメント等に取材記者が対応する場合にも問題が生じる。つまりTBやコメントが殺到するようなニュースは、おそらく取材記者もめちゃくちゃ忙しいのであり、TB等への対応に追われると、肝心の取材の足が止まる可能性がある。

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by masayuki_100 | 2005-04-15 11:04 | ■ジャーナリズム一般 | Comments(12)

私の友人でもあるフリージャーナリストの寺澤有氏が、裁判所での判決取材に際し、裁判所から判決要旨の配布を拒まれたのは違法であるとして、第二次記者クラブ訴訟を起こしている。

訴訟については、ココ(ストレイ・ドッグ)が詳しいので、まずはそちらを。簡単に言えば、こういうことだ。

大きな裁判の判決では、判決要旨はふつう、記者クラブ側の事前要請に基づいて、裁判所が配布の可否を決定し、OKとなれば、クラブ加盟社に判決の言い渡し直後に交付する。ところが、寺澤氏はかつては松山地裁で(第一次記者クラブ訴訟)、最近は札幌地裁と東京地裁で、立て続けに判決要旨の配布を拒まれた。その理由は、「記者クラブ所属の記者ではない」というものであったことから、言論・取材の自由をおかすものであり、だいたいフリーというだけで区別・差別される筋合いはない、と怒って提訴したのである。

その裁判(後者の札幌地裁と東京地裁分)において、私は寺澤氏を支持する「陳述書」を提出した。きのう4月13日、東京地裁で口頭弁論があり、私が3月末に出していた陳述書も無事、「陳述」となったようだ。

法廷取材に関する私の考え方は、以前にも「フリーランス記者にも法廷取材に自由を<1>」 「フリーランス記者にも法廷取材の自由を <2>」で、ある程度展開している。

記者クラブの問題点は、すでに語り尽くされたと私は感じている。当該官庁等に情報開示を迫る「圧力団体」、フリーであれ会社員であれ記者を守る職能団体としての価値は、間違いなく存在するし、単に廃止すれば良いとも考えていない(もちろん現行のクラブ制度には大いに問題がある)。要は、これまでにさんざん語られた問題点をどう是正していくか、その方法論と実行が問われる段階に入ったと思う。種々の外圧等によって、いわゆる広報垂れ流しの受け皿としての記者クラブ、仲良しこよし的な記者クラブは早晩、間違いなく瓦解する。だからこそ、瓦解してめちゃくちゃになる前に(そうなると、ある意味、権力側には好都合な状態になる可能性も強い)、記者クラブの門戸を広げ、閉鎖性を打開していくことが何よりも重要だと考えている。

で、私の陳述書の内容は以下の通り。当然、陳述書の内容は、私個人のものである。事実誤認や浅はかな部分があるかもしれないが、現在のところ、考えをまとめたら、こういう内容になった。(なお、引用に当たっては一部固有名詞等を省く、または仮名を用いるなど表現を一部改めている)。

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by masayuki_100 | 2005-04-14 11:25 | ■ジャーナリズム一般 | Comments(4)

やはり写真は力がある

やはり、写真は力があります。

写真自体が技術的に改竄されたり、全く違うキャプションが付されたり、そんなことで写真が統治や戦争の正当性などに利用される例が、過去には幾度となくなりました。新藤健一さんの著作などは、そのあたりを分かりやすく、面白く解説してくれています。

しかし、そんなレベルではなく、写真には力がある、と思うことが度々です。例えば、以下のような写真。

DAYS JAPAN 国際フォトジャーナリズム大賞 
カールフェットのノート その1 その2

技術もそうなのでしょうが、こうした写真の数々を見ていると、文字であれ、映像であれ、問われているのは、表現者自身の立場、考え方、物事の捉え方、そういったものだということが、ひしひしと伝わってきます。自身の立場を透明化させるような位置に身を置き(もちろん、それは幻想です)、第三者的な報道・表現のみを繰り返し、極力万人受けするような「客観」の衣をまとって自らの言説の責任を回避し、、、そんな空疎なものがあふれすぎているように思います。

事実を歪めてはいけない。しかし、それを切り取る眼は、もっともっと鍛えないといけない。それを痛感しています。
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by masayuki_100 | 2005-04-09 19:03 | ■ジャーナリズム一般 | Comments(0)

いったい、既存メディア(主に新聞やテレビなどの大手マスコミ)と、ブログなどのネットは、これからどうなっていくのでしょうか。「ネットは新聞を殺すのかblog」などに刺激されて始めたこのブログ(「札幌から」というタイトルが安直でイマイチだったと後悔してますが)も、そろそろ3か月になります。

この間、私がぼんやりと感じたことを、ランダムに記してみました。ただし、あれこれと書きなぐったもので、備忘録のような感じです。従って、結論はありません。内容も整理されていませんし、重複や矛盾もあります(その時々で考えたことを手元で追加していたので、そうなってしまいました)。また、この内容は逐次、追加していくつもりでいます。

************************************

<1>
何を報道すべきか、いま必要な記事・番組は何か、といった「ジャーナリズム」を語る人は、残念ながら、ネットやブログの実情・将来性にあまり考えを巡らせていない。媒体(=情報伝達手段)への関心が総じて低く、「良いものを書いてさえいれば、これからも自分は良いものを書きつづける場が保障されている」かのように感じている。もちろん、良いもの(それが何であるかの議論は置いておく)を出し続けることは非常に大事であり、かつ努力が必要だが、報道すべき内容(つまりコンテンツ)は、媒体の種類によって、内容や表現方法が制約を受けるとの認識が薄い。

<2>
新聞は(テレビも)日本に残った数少ない護送船団方式の業界である。新聞は再販制度と価格の横並び、テレビは放送免許。そして、いずれも印刷工場や放送設備などに莫大な費用がかかり、小回りが効かない。例えば、新聞社は、印刷設備の能力向上・増強によって、どの社も増ページやカラー化に邁進し、その結果、薄味の報道が増えていく(記者の数は増えていない。マンパワーには限界がある)。

そもそも、一つの新聞、一つの電波で、政治から経済、暮らし、文化、番組欄、社会、事件事故等々、すべての情報をパッケージにして売る方式は、もう限界に達している。情報の受け手は、欲しい情報だけを欲しがるのであり、不要な情報をいわば「押し付け」「抱き合わせ」で売る手法は、支持を急速に失っている。

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by masayuki_100 | 2005-03-26 20:32 | ■ジャーナリズム一般 | Comments(19)

引き続き東京滞在中です。種々の仕事で忙しく、自分のブログを覗くヒマもあまりありませんでした。いまも次のアポが迫っているのですが、でも、気になるエントリが共同通信社の「署名で書く記者の『ニュース日記』」にあったので、パソコンに向かっています。

そのエントリは「マスコミを進めない理由」。筆者は共同通信社編集委員の小池新さんです。この中で、小池さんはこう書かれています。(以下引用。一部略)

 現在のマスコミは、かつてと比べて記者を育てるシステムの精度がかなり落ちている。さまざまな批判はあるが、以前の業界には記者クラブ制度が確立していた。取材や記事の何たるかを全く知らない新人でも、そこに投げ込めば、同じ会社の先輩だけでなく、同業他社の記者たちがよってたかって教えて(時にはしかったりバカにして)くれる。そこに1、2年いれば、一応記事が書ける程度には「養成」してくれるシステムだった。昔のマスコミは外部から見ればかなり排他的だったが、内部には相互扶助的な体質があった。
 しかし、さまざまな要因によってそうしたシステムの力が低下し、今、記者はほとんど自分の力で独り立ちすることを求められる。自分で成長していなかければならない。それは大変なことだ。 
 一方、マスメディアを志望する若者は以前にも増して意識が先鋭化してきた。記者になる前から「ジャーナリズムはこうあるべきだ」などといった高い理念や理想を持っている人が多い。しかし、彼ら彼女らを待っているのは、数年(それも一けたの上の方の年数)にわたる地方勤務だ。警察・行政・経済・話題ものなど、地味なルーティンワークを淡々とこなし、その中で評価を得なければならない。ジャーナリストとしての理念や理想が高ければ高いほど「自分が考えていたような仕事がもっとできると思っていたのに、こんなはずではなかった」と思うようになるのではないだろうか。
 さらに、最近のマスメディアに対する風当たりは想像以上に強い。その中で記者としてやっていくには、自分の理念や理想を守って強く生きていくか、業界の枠組みに自分の身の丈を合わせて順応していくかのどちらかしかないように思う。
 つまり、意識が高い人(その大学生もその1人だ)ほど苦労するのではないか、というのが、今のマスメディアについての僕の感想であり、勧めない理由だ。
(引用終わり)

 正直、失望しました。それも、ものすごく。地方紙を中心に全国のメディアに大きな影響を与える立場にある方が、こういう考えを今も現に抱いているのかと。もちろん、現実は現実です。巨大な組織・システムであればあるほど、そう簡単には変わりはしません。しかし、この内容は、マスコミを志望する若い人に向けて、「われわれは変わらない。だから高い理想を持っている人は来るな」と天下に宣言したも同然です。

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by masayuki_100 | 2005-03-23 11:50 | ■ジャーナリズム一般 | Comments(16)

河野太郎議員のHPを時々のぞきに行く。「ごまめの歯ぎしり」という日記?が、なかなか読ませるのだ。とくに、今年2月8日の「興味のないこと」は出色である。この記事は、メディア企業の社員記者は必読だと思う。

(以下引用)
NHKと朝日新聞の件でコメントを求められる。はっきり言って、この件に興味はない。

1971年にマクナマラ元国防長官が作成したペンタゴンペーパーがニューヨークタイムズとワシントンポストに掲載された。アメリカ政府はこの文書を差し止めるためにいろいろとやったが、両紙は屈することはなかった。
ウォーターゲート事件の報道でも政権からの圧力に屈せずに真実が明らかにされた。マスコミが第四の権力たらんとすれば、政府そのものの権力に対しても戦わなければならない。

いかに安倍晋三が若手の花形政治家とはいえ、その力などたかがしれている。仮に安倍晋三が圧力をかけたとしても、その程度の政治的圧力で転ぶマスコミなど、存在価値はない。
アメリカをはじめ、各国でマスコミが戦っていることに比べれば、今回の事件は、ままごと遊びだ。

だいたい朝日新聞もNHKも記者クラブの常連ではないか。身内で固まり、部外者は排除する組織の内側にいながら、報道の自由とか独立を言うか。記者クラブの暗黙の掟をみんなで守りながら、「政治の圧力をかけられた」とはちゃんちゃらおかしい。宮内庁の圧力で皇太子殿下のご成婚報道をひた隠しにしたのは、いったい誰だ。宮内庁の「政治的圧力」には喜々として屈しておいて安倍晋三からの政治的圧力(仮にあったとしたらだが)を特別に問題視するのか。

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by masayuki_100 | 2005-03-09 19:15 | ■ジャーナリズム一般 | Comments(0)