ニュースの現場で考えること:■ネット時代の報道
2011-03-30T09:30:09+09:00
masayuki_100
「真実 新聞が警察に跪いた日」。北海道警察の裏金問題の報道と舞台裏の総括です。角川文庫から発売中です
Excite Blog
原発事故報道と戦前の新聞
http://newsnews.exblog.jp/16120669/
2011-03-30T09:29:35+09:00
2011-03-30T09:30:09+09:00
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masayuki_100
■ネット時代の報道
新聞労連の集会に呼ばれて青森県の八戸市へ出向いたのは、2月初旬のことだった。東北各地から地方紙の記者や販売・営業担当の人たちが集まり、夜は店を3軒もハシゴしながら「地方紙はこれからどうしたらいいか」といった話を続けていた。あのとき、夜遅くまで話した人たちも、かつてない事態の最中にある。その場で一緒した「今だけ委員長」さん、河北新報の寺島英弥さんの「余震の中で新聞をつくる」、あるいはその他の奔流のような報道に接していると、現場のすさまじさと足下の日常との、あまりにも違うその落差を前にして、私はなかなか語るべき言葉を持ち得なかった。
それでも、書いておきたいことは山のようにある。何からどう書いておくべきか、頭の中の整理が仕切れていないが。
震災の少し前、「新聞 資本と経営の昭和史」(今西光男著)という本を読んでいた。筆者は朝日新聞で長く記者として働いた方である。第二次大戦前、朝日新聞はいったいどうやって「大本営発表」の渦の中に落ちて行ったかを詳述した1冊だ。社内の資料も豊富に使い、実に読みごたえがある。もちろん、「朝日」を題材にして、当時の新聞界全体のことを語っているのである。
よく知られているように、戦前の言論統制は、当局による強圧的な統制が最初から幅を利かしていたわけではない。最初は各社の「自主的な判断」があった。自ら進んで「国策」に協力したのである。
同書によると、1931年の満州事変直前、朝日新聞は社説で「国策発動の大同的協力」へ向けて「機運の促進」を「痛切に希望」すると書いた。同じころ、朝日新聞は社内の会議で、「国家ノ重大事ニ処シ国論ノ統一ヲ図ルハ当然」との結論が下されたという。
同書に登場する清沢烈の、1936年当時の批判も強烈である。以下の文章は当時の月刊誌「日本評論」に掲載されたものだ(引用文は現代風に書き換えた。一部省略もある)。
「新聞社が役人の頭で動いている証拠には、その頭が常に役人本位である。役人を代えると『人事刷新』と囃したてて喝采する。役人の出世・行詰まりを国民の福利と関係があるかのように解釈する結果だ。外務省に行くものは外務省に、陸軍省に行くものは陸軍省に、その型と思想が出来る。これも自分の頭を置き忘れた結果である」「こうした傾向からみて、役人の行き詰まりから来た非常時心理を紙面に反映するのは当然である。殊に朝日あたりは幹部が事務的になりきって、主義や思想を守りきろうという熱意があろう道理はない。かくしてファッショの風潮にひとたまりもなく頭を下げるのである」
山中亘氏の著書「戦争は新聞を美化せよ!」の中にも、似たような話が山のように出てくる。いずれも戦前の、軍部による強圧的な検閲が始まる少し前のことである。たとえば、山中氏が発掘した資料によると、当時、新聞社内ではこういうことが語られていたという。
「こういう未曾有の大事変下においては国内の相克こそ最も恐るべきものであります。全国民の一致団結の力が強ければ、何物も恐れることはありません・・・この一億一心に民心を団結強化するためには真に国策を支持し、国民の向かうべき道を明示する良き新聞を普及することが、適切有効であることは今更論じるまでもありません」(大阪朝日新聞取締役業務局長)
「決戦下の新聞の行き方は、国家の意思、政策、要請など、平たく言えば国の考えていること、行わんとしていること、欲していること等を紙面に反映させ、打てば響くように国民の戦争生活の指針とすることが第一・・・」(東京朝日の記者)
毎日新聞の当時のOBは以下のようなことを書き残している。「今日では(新聞は)平和産業の一部門だと解する愚か者はなく・・・インキはガソリン、ペンは銃剣である。新聞人の戦野は紙面である。全紙面を戦場に・・・ジャズ゙に浮かれていた数年前の新聞は今日見たくも無い」
朝日新聞の筆政(今で言う「主筆」)から第2次大戦下の政府の情報局総裁になった緒方竹虎は、総裁になって新聞を統制する側に回った際、若い記者があまりにも「発表」しか書かない、「発表」ばかり書くことが気になり、もっと自由に書いていいのだぞ、と伝えた。すると、若い大勢の記者からは「(緒方総裁が)いろいろなことを話してくれるのはありがたいが、(自由にやれと言われると)どの程度記事にしてよいか分からなくなる」との苦情が出たのだという。
私の解釈でいえば、「新聞は社会の公器である」という言葉は、戦後民主主義の高揚とともに生まれたものではない。「新聞は読者とともにある」という理念を表した言葉でもない。それは「国策遂行のために新聞はある」という、戦前の新聞のありようを体現したものにほかならない。「社会の公器」は「国策遂行」とイコールの関係だった。時代は変わっても、メディアと当局の親和性は極めて高い。「国難」「未曾有の出来事」になればなるほど、その親和性は高まってくる。
東日本大震災後の福島原発に関する報道を見ていると、ここに縷々書き連ねた、戦前のいやな感じが二重写しになってしまう。言うまでもないことだが、地震や津波による「震災報道」と、原発をめぐる「原発事故報道」は、まったく別物である。これを同一の視点からとらえていると、ことの本質を見誤ってしまうだろうと思う。
福島原発の事故が発生した当初、自衛隊による空からの放水(散水)が中継された。白煙が上がっているだけの原発の様子も、ずっと中継されていた。しかし、である。ニュースをすべて見ているわけではないので断定はできないが、原発の状況が悪化するにつれ、その関連報道は総体的に減少してきたように思う。官房長官のテレビ中継が途中でカットされてしまう場面にも何度か遭遇した。「大事な場面だったのに」と思ったことも一度や二度ではない。
報道すべき事柄がないわけではあるまい。それは日々、比例級数的に増加しているはずだ。原発事故そのものだけではない。放射性物質の安全性に関するいくつかの基準が事故後に緩和されたり、プルトニウムは微量であれば摂取しても安全であると当局が明言したり。情報の受け手が疑問や疑念を持つ出来事は、次から次へと起きている。
報道現場も大いに混乱してるとは思う。しかし、理由はそれだけではあるまい。ひとつは、もう「慣れた」のである。悪い意味で。これは推測にすぎないが、「発表がないと書かない・書けない」ような雰囲気が、ほぼ完全に醸成されてしまったのではないかと思う。先述した戦前の日本や9・11直後の米国などがそうだったように、「国難」や「国民一丸」が語られるときほど、ニュースは当局寄りになる。この傾向が進むと、残るのは「大本営発表」と「前線で戦う人々の美談」のみである。
私は常々、最近の報道界の凋落は「取材力の低下」が大きな原因であると言ってきた。それは「当局との親和性の深化」の裏返しでもある。現場では、記者がそれぞれに工夫し、なんとか壁を突破しようとしているのだとは思う。私の知人・友人にも、そういう記者は数多くいる。しかし、報道全体としては限りなく、「大本営前夜に近付いているのではないか」という感覚がある。あえて「前夜」と付したのは、強制的な検閲が発動される以前の、という意味においてである。ある全国紙の知人(デスク)も先日、「福島原発絡みでは、やばい話がいろいろある。でもデカすぎて書けない」という趣旨の話をしていた。「政府・当局」のお墨付きがない限り、こわくて書けないという。
東京電力も官僚機構も、そして新聞社も、すでに出来上がった、言葉を換えれば賞味期限が過ぎた組織である。ビジネスの様式が完成し、日々仕事は進んでいく仕組みが出来上がっているから、トップや中堅幹部がどのような人物であっても、とりあえずの仕事は進む。そのような組織には、日ごろ、葛藤がない。「新聞 資本と経営の昭和史」を読んでもそうだったけれども、戦前の新聞社も実に粛々と、国策遂行会社になってしまう。当時の当事者にとっても、すべては「日常の延長」だったようだ。軍部や政権の奥深くに食い込んだ記者も、やがては大ニュースも大ニュースと思わなくなっていく。
福島の問題に立ち返れば、それでも、報道の現場でやるべきこと、やれることはたくさんあると思う。「多様性の確保=異なる視点」と「発表されない事実の掘り起こし」。突き詰めて言えば、「大本営」を防ぐには、この2つの柱しかない。では具体的にどうするか、という点については、また後日に記したいと思う。]]>
しかし、どうして? <新聞発行への公的支援「日本でも一考に値」>
http://newsnews.exblog.jp/10992379/
2009-02-28T20:16:30+09:00
2009-02-28T20:17:40+09:00
2009-02-28T20:17:40+09:00
masayuki_100
■ネット時代の報道
共同通信の美浦さんが自身のブログ「ニュース・ワーカー2」で、<新聞発行への公的支援「日本でも一考に値」>という記事を書かれている。仏のサルコジ政権が新聞救済のため、18歳以下の若者は新聞をタダにするという考えを表明した、というニュースがあった。美浦さんはそれを参考に、日本の新聞への公的支援も一考に値するのではないか、と書いている。
私は、全く、一考に値しないと思う。
実に当たり前の話だが、新聞(政党機関紙等は除く)には種々の種類があり、種々の立場があり、種々の内容があり、それぞれに価値があるとしても、その大前提は「あらゆる勢力からの独立」ではないのか。新聞はもっと主義主張はあっていいし、政権等に対するスタンスを明確にしてもいい。しかし、そういう事柄と、政府等から金をもらうという事柄は雲泥の差がある。
第一、どの新聞に支援を与えるかは、いったい、誰が決めるのか。公的支援である以上、時の政府等の意向が陰に陽に必ず働くであろうし、そこに向かって頭を垂れて行く新聞など、想像するだけで気色悪い。「押し紙」は論外だが、新聞の読者は圧倒的にふつうの人なのだ。そこに依拠せずして、なぜ公的支援になるのか。経営が厳しいからと言って、そういう発想になるのはいかがなものか、と思う。サルコジ大統領だって、新聞社の経営危機を前にして、思うようにメディアを動かすチャンス到来と思っているはずだ。
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どうやって呪縛を解くか
http://newsnews.exblog.jp/10317741/
2008-12-12T03:45:00+09:00
2008-12-12T15:14:50+09:00
2008-12-12T03:46:16+09:00
masayuki_100
■ネット時代の報道
数日前のある晩、その依光さんと東京で会い、酒席を一緒させてもらった。高知は私の郷里でもあり、依光さんとは、以前から時折会って、種々の話をさせてもらっている。3歳年上の依光さんは、本当に自由奔放な発想の持ち主だ。新聞・ジャーナリズムに対する情熱と、そして危機感は相当に強く、しかし、それを明るく、ひょいひょいと切り開いて行くような、独特の雰囲気がある。
依光さんの発想は、最近出版された 「『個』としてのジャーナリスト」 にも出ている。新聞の購読料は独特のもので、例えば、知事や社長など、いわゆる地位のある人も家で取るのは1部。ふつうの読者も1部。高知新聞を1人で何十部も取る人はいない。つまり、この商品の顧客は圧倒的に、ふつうの人が多いのである。だったら、目線をどこに向けて書くのか、誰に向けて書くのか。答えは一目瞭然ではないか。圧倒的多数のふつうの読者に向けて記事を書いた方が売れるはずだし、一部の権力者の顔色をうかがいながら記事を書き続けて良いわけがない、というわけだ。
そして、話は、「記者クラブに記者を張り付けておいて良いのか」という議論になった。
日本の新聞社はたいてい、「県庁クラブ」とか、「首相官邸記者クラブ」とか、地方・中央を問わず、記者クラブに記者を張り付けている。情報の「出口」に記者を常備し、上流から流れ落ちてくる情報を掬い取り、記事を作っている。私が常々言っていることだが、簡単に言えば、「官依存」「警察依存」「大企業依存」である。「発表依存」と言い換えても良い。
しかし、情報の出口は、あくまでも、「情報を流したい人が、流したい情報を流している」に過ぎない。そこに食らいついて、なかなか流れ出てこない情報を引っ張り出すことも必要だし、可能かも知れないが、しかし、出口に置かれた「情報すくいの網」は、相当に古びてきた。そうした弊害を取り除くため、依光さんは社会部長時代、県警担当などの一部を除き、各記者の担当を全て廃止したのだという。「みんな自由にやってみろ」である。
報道の現場に漂う閉塞感を打破するには、メディア組織内に蔓延る「自己規制」「官僚主義」「事なかれ主義」をどう打破するか、が最も大切である。
時代は大きく変わっているのに、報道の現場はなかなか変わらない。例えば、東京には中央省庁ごどに記者クラブがあり、記者が張り付いている。10年前も20年前も30年前も、それは同じである。担当者の人数は多少変化しただろうし、10年ほど前に民間の経済関係の記者クラブが一部廃止になったことはあったが、変化といえば、その程度のものだ。これだけ世の中が目まぐるしく変化しているのに、取材する側の体制・態勢はほとんど変わっていない。よくよく考えれば、これは実に恐ろしいことである。
中央省庁の政策が実行されるのは、「現場」である。その矛盾が現れるのも「現場」である。これは当たり前すぎるほど当たり前の話だ。
事件取材でも同様である。最近の事件報道は、分量も質も不必要に肥大化しているが、警察に寄り添った「捜査の途中経過情報」に、どれほどの意味があるのか、と思う。事件報道の本質は、事件「で」何を書くか、であって、事件「を」書くことではないはずなのだ。
そうした、過去の習い性、記者自身の呪縛を解く。それが今の新聞には、最も肝心である。そして、それに向けての方法は種々あると思う。依光さんとの酒席では具体論まで話す時間がなかったが、私なら、まずは、記者クラブの「開放」に手をつけてみたい、と思う。記者の身分や所属会社の別によって、加入に差をつけず、フリーであれ、会社員記者であれ、誰でも自由に記者クラブに出入りし、自由な情報アクセスを認めるべき、と私は常々思っている。で、ここからが肝心なのだが、記者クラブの問題は、すでに問題点は出尽くしているのだ。後は、「具体論と実践」という段階に差し掛かっているように感じる。
最早、記者クラブ制度は、外側からの声だけでは、なかなか変わらない。ならば、内側から変えるしかない。例えば、どこかの新聞社が(テレビ局でも良いが)、時代の流れを正確に読み取り、決断し、そして、「わが社は記者クラブ開放に賛同します」と高らかに宣言する。そのうえで、開放に反対する新聞社に、反対の理由を尋ねる。それを記事にする。別の社にも聞く。また記事にする。そのうち、開放の賛否を論じる記者クラブ総会が開かれる。すると、それも記事にする。
やがて、話を聞きつけたフリー記者も加盟申請にやってくるかもしれない。そうなると、たぶん、加盟に反対する新聞社や幹事会社の間で問答になる。その様子はビデオに撮って、ウエブに公開しても良いかもしれない。
そうやって、細かな動きを重ねて行けば、たぶん、変わる。有力新聞社1社が、そうした方向に動き始めるだけで、状況は劇的に変化する。
なんだかんだと言っても、最後には「正論」が決め手になるはずだ。記者クラブを既存メディア・大手メディアが独占し、それ以外の取材者の、自由な取材を妨げる正当な理由はあるか? ないのである。どこにもない。だったら、どうせだったら、いつまでも、弊害多き記者クラブ制度の守護者であるよりは、先陣を切って「開放」に踏み切り、そして時代を動かして行く方が、断然、かっこいいと思うのだが。]]>
ネット時代の報道とは? 「文章・記事スタイルの革命」(1)
http://newsnews.exblog.jp/3176938/
2005-12-05T02:19:55+09:00
2005-12-05T03:21:10+09:00
2005-12-05T02:19:55+09:00
masayuki_100
■ネット時代の報道
「ネットと報道」みたいな話は、これまでも当ブログで再三書いてきた。この文章は、その延長線上にあるが、以前の発想と違っている部分も少なくない。また、業界内の技術論的な話も多くなる。小難しい話だな、と思われたら、どんどん読み飛ばしてもらえれば、と思う。
最初は、新聞の文章・記事スタイルについて、である。これが今回を含めて2、3回続く。その後に、ネットの特性(双方向性など)を生かして新聞社やブロガーは何が可能かを書いてみたい。さらに、ネットを使った新しい報道のスタイルはどのようなものかを記していく。いつになったら書き終わるのか、それは不明である(笑)。
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■新聞の文章・スタイルはどう変わるのか その1
新聞の記事には独特の書き方がある。各紙ごとに微妙な違いはあるが、基本形はどこも同じだ。「新聞独自のスタイル」を見極めるには、事件事故などの「発生もの」、とくに小さな記事が一番分かりやすい。
<例文1>12月1日午後1時ごろ、札幌市中央区中央1丁目の国道で、同区の会社員山田一郎さん(25)のトラックが千葉県の公務員鈴木太郎さん(50)の車と衝突し、鈴木さんが腰の骨を折る大けがを負った。札幌大通警察署の調べでは、山田さんのトラックが反対車線にはみ出し、鈴木さんの車と正面衝突したらしい。
このスタイルが基本形である。大きな事件事故であっても、こうした基本形に種々の情報を肉付けしていくに過ぎない。例えば、上記の文章の末尾に「同署は、山田さんに過失があったとみて詳しく事情を聴いている」「現場は札幌市の大通公園に面した繁華街」といった情報をどんどん付け加えることができる。いわば大事な情報を記事の前へ前へ出す格好になっており、この形を新聞社や通信社は「逆三角形」と呼んでいる。「記事は逆三角形で書け」は、新人研修で教わるイロハのイだ。
ところで、新聞記事は、なぜ、逆三角形なのか? 私が新人のころは、それを口を酸っぱくして叩き込まれた。理由はこうだ。「ニュースはどんどん新しいものが飛び込んでくる。そうなると、後から飛び込んできたニュースを収容し、多くの記事を載せるには、各記事を短くしなければならない。その作業を締め切りぎりぎりに行うとき、記事の最後から順番に削っていくのが一番いい。真ん中を削ったりしていると、ワケの分からない文章になるかもしれないだろ? 整理部記者(紙面のレイアウトと見出しを担当する記者)が作業をしやすくするためにも、後ろからきることのできる文章を書くべきだ」。まあ、そんな感じである。
これは、新聞制作の現場感覚で言えば、非常に理に適っている。締め切り間際に、大ニュースが次から次へと飛び込んでくるときは、特にそうだ。締め切りまで、あと10分。その間に山岳遭難事故と列車事故の原稿を2本処理しなければならないとしよう。そういうときは、整理部から出稿部門(取材部門)に対し、「山岳遭難は25行で、列車事故は40行で。そのスペースを空けて待ってるぞ!」とか声がかかる(1行は11字)。発生から間もなくだと、どのくらいの情報が掴めているのかも判然としない。しかし、行数を決めておかないと、紙面制作は滞ってしまうのだ。
で、そこへ同時に2本の原稿が記者から送られてきたとしよう。しかも、A記者には「山岳遭難は25行で」と伝えていたのに、送られてきた記事は45行、B記者には「列車事故は40行で」と伝えていたのに、こっちも60行。さあ、どうするか。締め切りまで、5分しかない。それ以上、遅れると、待機している印刷工場、トラック、新聞の到着を待っている販売店等々に大きな影響が出る・・・。
そこで「逆三角形」なのである。山岳遭難を例にして説明しよう。以下の2つの文章を見比べて欲しい。 <例文2>中高年の登山ブームを背景に、最近、日本各地で山岳遭難が相次いでいた。警察庁や各地の山岳会などが警鐘を鳴らす中、またもや遭難が発生した。現場は長野県の北アルプスで、発生は12月1日夕方だった。地元の警察署によると、この日午後7時過ぎ、穂高岳に登っていた中高年のパーティーから「寒さで動けない。道に迷った」と連絡があった。そのパーティーは東京都中野区のグループで、ふだんは関東近郊の山々に登っていたらしい。今回は「初めて冬山に挑戦したい」と話がまとまり、北アルプスを縦走していた。警察と地元山岳会は「遭難の可能性が高い」とみて、その後、急遽、捜索隊を編成し、現場に向かったが、悪天候に阻まれている。パーティーは50代を中心に12人。全員が冬山は初めてだった。
<例文3>12月1日午後7時ごろ、長野県の北アルプスを縦走していた中高年のパーティーから同県××署に「寒さで動けない。道に迷った」と携帯電話で通報があった。警察と地元山岳会は「遭難の可能性が高い」とみて、捜索隊を編成し、現場と見られる穂高岳に向かったが、悪天候に阻まれている。通報によると、このパーティは東京都中野区の同好会で、50代を中心に12人。全員が冬山は初めてだったという。ふだんは関東近郊の山々を楽しんでいた。中高年の登山ブームを背景に最近は各地で山岳遭難が相次いでおり、警察庁や各地の山岳会などは無謀登山を控えるよう警鐘を鳴らしていた。
新聞制作で求められるのは、明らかに<例文3>である。「20行」のスペースしか無い場合、例文3は記事の末尾から削っていくことができる。最悪の場合、第1センテンスまでしか収容できなくとも、この遭難の概要は伝わる。第2センテンスまで入れば、相当に理解できる。しかし、例文2はどうだろうか。後ろから削って行こうとしたら、残る文章はとんでもない内容になる。締め切りまで数分といった修羅場で、こんな記事が届いたら、どんなに腕のいいデスクでも御手上げだろう。だから、紙の媒体では、「逆三角形」が必須とされてきた。
だからこそ、コンパクトに(=短く)原稿を書くことが記者の重要なスキルだったし、それは今も変わらない。別に締め切り前といった修羅場でなくても、コンパクトな文章は、余分な修飾語を落とし、筋肉質の文章を作成する上でも欠かせない要素だ。なぜなら、余計な修飾語や語句を削れば、その分だけスペースができ、そこに別の情報や別の記事を入れることができるからだ。これらの作業とは裏表の関係にあるのだが、そういう記事を書いていく場合、「私はこう思った」式の記述は、どんどん脇に追いやられる。「私はこう思った」式の文章は長くなるし、スペースをどんどん食ってしまうからである。他にも載せるべきニュースは山のようにあるから、尚更である。
現在の新聞記事は、そうやって揉まれてきた。その結果として、事故には事故の、事件には事件の、議会には議会の、それぞれの分野における記事の「基本形」が出来上がった。背後にあるのは「できるだけ多くの情報・記事を載せる必要がある」「そのために記事をコンパクトにする」という考え方である。そして、もうお分かりの通り、そうした発想は「紙は記事スペースに限界がある」というところから来ていると思う。各新聞とも活字が大きくなり、それに伴って1ページに収容可能な文字数が減ったことも大きく影響している。
一方、こうした記事が主流になることによって、当然ながら副作用も起きた。
一つは「コンパクトな記事が求められている→必要最低限の要素さえ情報を把握しておけば良い」といった流れである。極論をすれば、<例文1>のような原稿は、警察発表さえ把握しておけば、おそらく書けてしまう。実際のところは警察発表「だけ」で原稿を書くような記者は、あまりいないと思うが、発表だけで書けてしまうとなると、それで書いてしまう記者も現れて来るものだ。その結果は「取材力の劣化」である。取材力の劣化は、実は「発表ものをなぞった記事の増加」と表裏一体の出来事であると思う。
もう一つ。コンパクトな記事の増加によって、「記者個人の目線」が紙面から少なくなった結果、いわゆる問題意識を全面に押し出したような記事が、最近はどの新聞もぐんと減ったと思う。署名記事は増えても、記事の内容に「目線」が無ければ、署名自体には特に意味は無いと私は考えている。
「事実関係を追う記事に記者個人の目線は関係ないはずだ」「主観を排する上で、記者の目線は邪魔だ」と言われるかもしれない。しかし、そうなれば、紙面は、行政や捜査当局、経済団体、企業などの「発表もの」で全て埋め尽くされる。実際、今の新聞はそういう部分も抱え込んでいるのだが、発表ものしか掲載しないならば、それは報道ではなく広報でしかない。
当たり前の話だが、この世に「純粋な客観性」などは存在しない。どの記事を掲載し、どの記事をボツにするか、どのようなテーマを取材するか、それをどう表現するか、といった作業の過程で、すでに「主観」は多々混じりこんでいる。発生ものを記事にする場合でも、現場で目にした光景をすべて文字に書き落とすことは不可能だ。取材者は必ず、どこかで、ある一定の光景を切り落とし、ある一定の光景を拾い上げている。それは当たり前なのだ。報道される内容は、「主観(=判断)」の連続の上に各種の記事は成り立っているのだということを、今一度、認識しておく必要があると思う。
多くの記事の場合、主観を種々抱えていながら、「客観性」を装い、それを全面に打ち出している。そこに、様々な誤解と齟齬が生まれていた。
ところで、ここからがやっと本エントリの主題だが、記事を発表する媒体が「紙」ではなく、「ネット」に移ったとすれば、原稿の書き方やスタイルにどのような変化がおきるだろうか。または、どのような新スタイルを目指すべきなのだろうか。
(次回に続く)]]>
「開放系」メディアと立ち居地
http://newsnews.exblog.jp/3135223/
2005-11-27T15:48:49+09:00
2005-12-06T00:29:42+09:00
2005-11-27T15:48:49+09:00
masayuki_100
■ネット時代の報道
何がどう面白いかは、実際にそれを読んでもらうのが一番いい。受け止め方も人それぞれだろうし、私自身が面白いと思った部分を押し付けるつもりもない。それを前提に書けば、最近、一番面白かったのは「金と暴力」という泉さんのエントリに対する書き込みである。
フリージャーナリストの古川利明さんは、<ジャーナリズムも含めて、「表現する」という行為の根底には、「孤独になりきる」というのが、必須条件だと思います。「群れたい」とか「誰かに頼りたい」という甘えを断ち切ることからすべてが始まると、私は考えています。泉さんが始めようとしているビジネスに、私などがとやかく言える資格も義理もないのですが、ブログでだらだらと愚痴を並べ、それにちやほやと甘言を書き込んでいる読者(=アクセス者)の姿を見るにつけ、いつも「?」と思います>と書いている。
なかなか辛辣だが、要は泉さんに対して、「あなた自身は表現者として何をどう書きたい・報じたいのか」という問いかけなのだと思う。いわゆる書き手の「立ち居地」問題である。それが明確でなければ、或いはゼロならば、どんな立派な仕組みを構築しても極端な場合、中身はカラッポということもあるのではないか。。。そういう疑問だとも読み取れる。
その後、いろんなコメントが続いた後、「村田」さんがこう記した。<GripBlogさんには沢山のブロガーが元気を貰っている。管理人は、泉あいさんであるが、GripBlog=泉あいさんではない。コメントやトラックバックを含めた「開放系」ではないかと思う。そういう位相に、ネットやブログはあるのでは! 管理人としての立場では、しばしば「孤独」を感じることはあると思います。
しかし、「開放系」を目指そうとしている「GripBlog」(その延長としての報道メディア計画)は、泉さん個人を超えたものを目指しているのでしょう。元気を貰ったブロガーが、「頑張って」「期待しています」「出来る事は応援します」と、元気を返す。それで、いいのではないでしょうか>
泉さんの心情に言及した部分もあるけれど、「村田」さんのコメントの肝要は「開放系」である。従来の新聞や雑誌、テレビには編集長・デスクといった役職の方が居て、ニュースの価値判断に重要な役割を負っていた。この「役割」は、報道内容の視点・切り口・立ち居地といったものばかりでなく、表現方法・言葉遣い・分量等々という表現技法に関するものも含まれているのであって、簡単に言えば、報道の「事務局長」「元締め」みたいなものだったと思う。だから、当たり前の話だが、「元締め」が「OK」と言わないと、ニュースはニュースとして外に流れませんよ、という世界なのだ。これに対し、「村田」さんの言う「開放系」とは、つまるところ、こうした「編集機能」を極力分散させましょう、ということなのだと思う。
上手く説明できないのだけれど、たぶん、「開放系」が極まると、何の原則も規定もない、いわばただの掲示板のようになっていくのだと感じる。一方、集まってくる記事を一定程度の「眼」を通した後で掲載するとなると、その「眼」自体の有り様が問われてくる。それを突き詰めると、媒体の種類が紙であれ、ネットであれ、ニュースを世の中に送り出す流れそのものは、既存メディアと変わらなくなるだろう。
市民参加がキーワードなのか、即時性がキーワードなのか、双方向性こそが第一なのか。ネットを利用したメディアの肝がどこになるのか、私にはまだ良く分からない。たぶん、一番望ましい姿は、古川さんと村田さんのコメントの中間(真ん中ではない)のどこかにあるのではないかとは感じるが。じゃあ、それはどんな姿ですか、と問われると、よく分からないので、始末が悪いなあと自分でも思う(笑)。
もっとも、ぼんやりとした形は、私は私なりに持っている。もう少し熟成できたら、その「夢想」もここで記したいと思う。]]>
やっぱり目が離せぬ「Grip Blog」
http://newsnews.exblog.jp/2967112/
2005-10-28T10:42:59+09:00
2005-12-06T00:30:05+09:00
2005-10-28T10:39:24+09:00
masayuki_100
■ネット時代の報道
パソコンにアクセスもせず、そんなぼんやりした日々を過ごしているうち、Grip Blogで面白いことが起きたようだ。「緊急!「民主党 ブロガーと前原代表との懇談会」の出席者募集」が、それである。10月末日、民主党の前原代表がブロガーを招いて、党本部で懇談会を開催するという。「懇談」と称してはいるが、内容はオープンになることを前提にしており、実体は記者会見と同種のものだ。
同じ時期、自民党もブロガーを集めた懇談会第2弾を開催するようだ。これもGrip Blogに書かれている。その末尾でGrip Blog主宰の泉あいさんが、「民主党さんはどうすんのょ」と溜め息交じりに書いており、もしかしたら、民主党はその溜め息に突き動かされたのかもしれない。
双方の政党による「ブロガーの招き方」を見る限り、私は民主党に軍配を上げる。自民党が党側で人選を行ったのに対し、民主党側は、人選を泉あいさんに一任しているからだ。警備上の理由など種々の要因が働いた結果かもしれないが、名も無き(いや、すでに有名かな・・・)泉さんに人選を一任するというのは、相当に思い切った策ではないか(もちろん、泉さんある意味、甘くみられているからかもしれない)。ブロガーの囲い込み、ブロガーを利用した宣伝戦も、そろそろ無視できなくなってきたということなのだろう。人選を泉さんに一任したことで、民主党に対する世間の評価がプラスに働くことは、ほぼ間違いないからだ。言ってしまえば、たぶん、民主党による「話題づくり」だろう。
で、問題はその先だ。 話題づくりであろうと何であろうと、泉さんらは、前原代表と面と向かう機会を得た。せっかく、そういう機会を得たのだったら、やはり、「記者・泉あい」には、前原代表の話を「拝聴」するだけでなく、一本取って欲しいと思う。「一本」が何であるかは、そのときの会談内容によって違ってくるが、一番効果的なのは、これまでに行っていない発言、かつ大手メディアが引用せざるを得ない発言を引っ張り出すことだと思う。
しょうもない例えだが、仮に泉さんやその他ブロガーの質問を前に、窮地に追い込まれた前原代表がついに「実はワタシ、女だったんです」と語ったとする。そして、Grip Blogなどが一斉に報じたとしよう。すると、このニュースはテレビや新聞は無視できまい。そうなったとき、Grip Blogは本格的にブレイクするに違いない。韓国のオーマイニュースがブレイクしたのも、オーマイニュースによるネット発のスクープを他紙が追いかけた(追いかけざるを得なかった)ことがきっかけだった。
もちろん、そこまできばらなくても、前原代表が返答に詰まったとか、ノーコメント連発したとか、そんなものでも構わないと思う。要は「舐められない」ことを態度で示すことではないか。民主党が嫌がる質問も遠慮なく行い、民主党に手厳しいブロガーもきちんと集め、で、前原代表に「なんだなんだ、この懇談は。あんな嫌な質問ばかりぶつけてきて・・・事務方は何をやってんだ?」ぐらい思わせつつ、しかし、次回以降も懇談を継続せざるを得ないと思わせる。そういう存在を目指すべきだと思う。新しい報道機関設立を目指す以上は、やはり、そうであってほしいと思う。
私がブログを始めた今年初めのころ、もちろん今でもそうなのだが、ネット上には、「記者会見にブロガーが出席できないのはおかしい。マスコミが情報を独占するのはヘンだ」という意見がたくさんあった。確かに、閉鎖的な記者クラブ制度によって、マスコミの情報独占が継続している実態はおかしい。非常識もいいところだ。しかし、では、政治家の記者会見参加や政界取材を望んでいるブロガーが、実際にどの程度存在するかとなると、これはまた別の話である。ホワイトハウスの記者証がブロガーに与えられた、米大統領選では民主・ぎ共和両党がブロガーに大量の取材パスを与えた、それに引き換え日本は・・・という議論もあったが、これなどは「ブロガー」と「取材者(=取材したいという意志を持つ者)」を混在させた意見だったと思う。
マスコミ企業に属していなくても、1人で取材者たろうとし、実際、立派な仕事をしている人は日本でも大勢いたし、現に今も大勢いる。泉さんも、その隊列に加わったに過ぎない。
もっとも、一部の実力ある人やすでに著名になった人は別にして、そうしたフリー等の人たちは多くが、力関係では、出版社より弱い。発表する場を確保し続けるには、少々理不尽なことにも耐えなければならない、といった状況下にあると思う。一方、既存メディア企業の報道部門には、「大卒」「入社試験」「5年前後の下積み」「会社組織の古い体質」といったネックがあり、取材したいことを思うように取材する立場には、なかなか就くことができないものだ。
その環境は「ネット」が変えつつある。ブログを筆頭に、だれもが簡単に「メディア」を持つことができるようになった。出版社の下請けになるのでもなく、大手メディア企業内部の種々の壁に遮られることもなく、意志と熱意と若干のスキルによって、だれもが発表手段を持ち、「記者」になる道が開かれてきた。そして、ネットの双方向性を利用した新しい記者のスタイルも、Grip Blogによって形が見えてきた。だからこそ、問題は「これから」である。
勝手な憶測を言えば、目新しさはそろそろ賞味期限が近付いている。それを分かっているからこそ、泉あいさんは新メディア設立へと舵を切り始めたのだろうし、そうした熱意の塊を、民主党も(主眼が話題づくりだったとしても)無視できなかったのだと思う。
まあ、なんだな、よく知ってる仲だから呼び捨てにしちゃうけれど、泉、お前は本当にすごいな。民主党から、ぜひ一本取って来いよ。]]>
「ブログ・ジャーナリズム~300万人のメディア」
http://newsnews.exblog.jp/2873400/
2005-10-12T13:23:16+09:00
2005-12-22T06:32:01+09:00
2005-10-12T13:21:20+09:00
masayuki_100
■ネット時代の報道
「ブログ」と「ジャーナリズム」は、「情報伝達手段」と「報道内容」の話であり、ごっちゃに議論しているとワケが分からなくなる分野です。では、この本の中では?・・・少なくとも、それぞれの意見の違い、問題へのアプローチの仕方等々に違いがあることは読み取っていただけるのではないかと思います(もちろん、意見が同じなら、話はおもしろくないわけですが)。この対談の中で私はおおむね、「ブログはいろんな可能性を秘めているけれども、情報の伝達手段にすぎない。また日本での利用者はまだまだ少ないうえ、ブログやネットの世界は利用者が偏在しており、現実社会の社会構成に比例していない。そこをきちんと認識しないといけないし、ネット・ブログ=改革派といった単純なものではない」等々という立場から種々の意見を述べています。
この書籍は、仙台市の出版社「野良舎」から出ます。問い合わせなどは、野良舎へ。同社のブログもあり、そこから注文できるようにもなっています。
誰もが情報発信 ブログが開く個人メディアの時代 「ブログと総選挙」を緊急収録
Web log(ウェブログ)。新しいスタイルのホームページ・ブログがブームになっています。2005年3月末の国内ブログ利用者数は延べ約335万人で、2007年には約800万人になると予測されています。ネットの新しいコミュニケーションツールというだけでなく、アメリカでブロガーが記者として認められるなど、ジャーナリズムを担う新しい媒体としても関心を集めています。本書は記者ブロガーが語り合った近未来のホットなメディア論です。「ブログと総選挙」を緊急収録しました。(野良舎のブログから)
本の第2部では、R30さんら著名なブログ主宰者による対談もあります。
野良舎を主宰されている中沢さんは、本当に良い方で・・・。朴訥とした感じで、決して口達者ではないけれど、その雰囲気に思わず、「お父さん!」と呼びたくなってしまいます(もちろん、そんなに年齢が離れているわけではありませんが)。そんな方に出会えただけも、良かったなあ。]]>
「自由記者クラブ」設立の構想
http://newsnews.exblog.jp/2849432/
2005-10-08T14:50:07+09:00
2005-12-29T17:06:49+09:00
2005-10-08T14:47:29+09:00
masayuki_100
■ネット時代の報道
記者クラブ制度の問題は各所で議論されていたし、今も議論されている。それはそれで大事なことなのだが、私自身は、この制度に関する問題点の洗い出しは終わっており、論点は整理し尽くされたと思っている。あとは、どこをどう変えていくかの具体論しかない。で、その具体論のところで、既存メディア側はなかなか動かず、物事はまったく進んでいない。私は記者の集団としての「記者クラブ」は、あってしかるべきだと思っている。それについては、過去のエントリ(例えばココ)でさんざん書いてきたので、関心のある方はそちらに目を通してもらいたい)。
新聞やテレビによる報道の一番の問題は、「発表依存」「官依存」「当局依存」の構造になっている点にある。いわば、「発表ジャーナリズム」に陥っているのであって、どんな理屈を並べようと、現状を俯瞰すれば、当局(大企業等の民間も含む)の広報機関になっている事実は疑いようが無い。その点は、ジャーナリストの岩瀬達哉氏や浅野健一氏らが早くから指摘しているし、事実、その通りだと感じる。最近では、ジャーナリスト寺澤有氏の指摘と行動が鋭い。
そうした「発表ジャーナリズム」を取材現場の日常風景に置き換えれば、こういうことだ。多少大袈裟な書き方かもしれないが、「毎日、役所等の記者クラブに出社する。役人等の話を聞く。役所側の発表を聞く。同業他社に役所ネタが抜かれていないかチェックする。役所の人と夜の街へ繰り出す」・・・そんな感じである。記者の日常は、多くが役所の庁舎内で終わり、取材相手は役所関係者だけで終わる。この場合、「役所」は「警察」でも「検察」でも「政治家」でも「大企業」でも、まあ、なんでも良い。要するに、「狭い」のだと思う。記者はよく、「付き合いの幅が狭い」と言われるが、それは一面で当たっている。日常のビジネスシーンに、役所関係者と同業他社と社内関係者しか登場しないのだ。そして、そうした日常風景を支える場所として、いまの記者クラブがある。
私の考えによれば、「発表ジャーナリズム」を支えているのは、記者クラブの存在よりも、記者の日常の仕事様式・思考様式そのものにある。記者クラブ所属している記者の中には、当たり前の話だが、素晴らしい仕事をする記者もたくさんいる。記者クラブの机から、その当該役所を揺るがすような記事もたくさん発信されている。それは間違いない。ただ、多くのケースでは、役所との関係の中でのみ記者の日常が終わり、記者の思考も役所的になっているのも、また事実だ。権力悪を暴き出すような原稿が「記者クラブ発」で世に出たとしても、多くの記事・多くの記者は「脱当局」の行動様式がなかなか取れない。そりゃそうだ。記者クラブに出社して、毎日そこに通って、役所関連の記事を書けと仕事で言われたら、開き直ってサボる場合は別にして、会社員はふつう、役所通いを続けるのだ。自由な取材ができる立場を組織内で得ようとすれば、10年くらいはかかる。そこに到達したとしても、その他大勢の記者・若い記者は、役所通いが続くのだ。これでは、「構造」は変わるはずがない。
だから、現行の記者クラブ制度が変わり、自由化されたとしても、取材者の姿勢・目線・行動様式が変わらない限り、おそらく、報道の内容は大きく変わらないのだ。今の日本では、メディア側の権力への「すりより」が一層激しくなっている。それは記者クラブ制度が存在するからではなく(もちろん大いなる関係はある)、記者の姿勢・性根にかかわる部分が根本にあると思う。
で、私の「構想」の話である。 前置きが長くなってしまったが、私の「構想」「夢想」は、だれでも参加できる「自由記者クラブ」をつくれないか、ということだ。考え方の基本は、「脱・当局」「脱・官依存報道」「市民からの情報発信を増やす」である。まだ整理しきれていないが、以下に少し綴ってみる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(1)自由記者クラブには、記者が個人単位で会員として加盟する。新聞社やテレビ局の記者か、雑誌記者か、ネット記者か、フリーランスか、日本人かどうか、そういった「所属組織の有無」等は問わない。記者専業でなくても、自分が記者であると考える人は、原則、だれでも参加できる。
→→日本新聞協会等の加盟社記者でないと事実上、既存の記者クラブには所属できない。その壁を突き崩す。そのためには参加資格を「加盟社」という組織単位から、「個人」に移す必要がある。
(2)自由記者クラブは、東京の霞ヶ関近辺の民間ビルに広い部屋を確保し、あらゆる団体・個人がプレス発表できる場所として存在させる。ただし、政府関係者・団体等は既存の記者クラブにおいて発表の場を確保できているので、特別の事情がある場合を除き、当面は自由記者クラブで発表の機会を設けることはできない。
→→種々の発表の場所は、記者が多く居る場所・その近辺でなければならない。そうしないと、既存メディアの記者が物理的に参加しにくい。本来は、そこまで既存メディア側にいわば「便宜」を図る必要はないのだが、既存メディアの報道姿勢・報道内容・記者の日常行動のパターンを変えることも大きな目的であるから、現状では「場所」は大きな要素だ。中央省庁の発表を聞いたあと、その足でそれに反対する団体等の会見を聞きに「自由記者クラブ」に足を運ぶ、というパターンができれば、それは理想形の一つかもしれない。
(3)自由記者クラブにおける記者会見、簡単な事情説明(レクチャー=業界用語で「レク」)、資料配布等は、原則、だれでもできる。自然保護・環境問題、人権問題をはじめ、憲法改正問題、労働、教育、医療、福祉、国際関係、メディア問題等々で活動するNGO、NPO、市民団体、労働団体、オンブズマン組織等々のほか、訴訟の原告・被告などの会見もできる。既存記者クラブにおいてレクを受け付けてもらえなかった場合も自由記者クラブは歓迎する。発表者の思想信条は問わない。
→→政府や政治家・当局等々に言いたいことはたくさんある、でもそれを広く伝える方法がなかなか持てない。そんな団体・個人等こそ、この自由記者クラブで意見表明してもらいたい人々である。そうした団体等は世の中に数え切れないほどあるのだが、実は、メディアに向かってきちんとそれを言える場所は、ほとんどない。市民側に統一された発表の場が無い。それをきちんと確保することは、「脱・当局依存ジャーナリズム」への第一歩になりうる。
→→例えば、大きな訴訟等では現在、霞ヶ関の司法記者クラブで原告・被告らの会見が行われている。司法記者クラブは他のクラブよりは自由度が高く、フリー記者や雑誌記者の方々が参加しているが、それでも種々の制約は多い。一方では、この司法記者クラブ発の訴訟関連ニュースは、しばしば全国ニュースになる。だったら、原告・被告らの会見は、司法記者クラブではなく、すぐ近くの自由記者クラブでやればよい。「オブザーバー参加の方は質問をご遠慮ください」みたいな話もない。それに、全国ニュースで「原告たちは判決後、東京の自由記者クラブで会見し・・・」などと流れたら、宣伝効果は抜群かも。
(4)自由記者クラブでの発表は全国から受け付ける。配布したい資料がある場合は、自由記者クラブ内に掲示するほか、専用棚に一定期間整理して保存し、会員が自由に持っていくことができるようにする。
→→日本の各種報道は、なんだかんだと言っても、「東京一極集中型発信」である。各地域で実際に何が起こっているか、東京に居ると、なかなか見えない。それを防ぐためには本来、東京の記者が地方の現場へ足を運ぶべきだが、その一助として、地方の情報を東京に集めることも欠かせないと考える。当面は、単に「集める」「情報を寄せてもらう」だけの作業かもしれないが、永田町・霞ヶ関・大手町・茅場町等の界隈にしか目が向いていない「視野狭窄」を脱する手がかりにはなるのではないか。
(5)自由記者クラブは、記者発表の予定やその場で配布された資料、配布のみされた資料等々をインターネット上で広く公表する。自由記者クラブにおける実際の記者発表・会見の様子も、一部あるいは要約が、インターネット上で公開される。
→→後段の「実際の記者発表・会見の様子も、一部あるいは要約が、インターネット上で公開される」は、それに時間を費やすことが可能な事務局的機能があれば、の話。重要なのは、実際に自由記者クラブ内で配布された資料等が、ネット上でも公表されている、ということ。これによって、物理的に東京の自由記者クラブに足を運べない地方の記者も、ある程度の参加が可能になる。
(6)自由記者クラブの発表・会見等を希望する際は、事前に事務局に届け出る。事務局は、時間・部屋の都合等を勘案し、調整する。それらの日程は速やかにネット上で公開されるほか、会員には電子メール等によって通知される。
→→自由記者クラブの物理的なスペースにもよるが、時間調整等は絶対に必要になる。これは当たり前。
(7)自由記者クラブは、月に2回程度ゲストを招き、記者会見を兼ねた講演を行う。
→→例えば、任意団体の「アジア記者クラブ」は毎月1回、その時々の話題の人を招いた例会(講演会)を東京で開催している。9月は沖縄返還秘密協定に関する「西山事件」の西山太吉氏だったし、10月は外務省元主任分析官で「国家の罠」の著者でもある佐藤優氏だ。アジア記者クラブに限らず、この種の興味深い講演会は、各地で頻繁に行われている。それらは通常、公民館みたいな場所で開かれることが多いが、この自由記者クラブが機能すれば、同記者クラブはそれら講演の「場所貸し」みたいな存在になるかもしれない。なお、内幸町の日本プレスセンターでもこの種の講演会・昼食会が定期的に行われているが(主催は「日本記者クラブ」)、事実上、広く開かれた行事にはなっていない。
(8)自由記者クラブは、会員同士および発表者である市民が、それぞれの所属会社等の枠を超えて、意見交換し、自由に交流する場を目指す。
(9)自由記者クラブ会員は、同クラブ内での取材については自由に各種媒体に公表できる。ただし、その報道内容に関する責任は、会員個人が負う。
(10)自由記者クラブの会員は、会費を支払う。
→→本当はこの自由記者クラブ内に各種資料、各新聞の縮刷版、基本的な参考文献もそろえることができたらいい。自由に記者が集まり、市民たちが自由に発信し、それを自由に取材し、報道していく。その場所を確保し、既存メディアも無視できない存在になっていく。
→→「会費」についていえば、既存記者クラブの場合、どこも1人月500円程度だと思う。年換算で6000円だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
長々と書いてしまったが、ぼんやりしたイメージは理解いただけるのではないかと思う。私は最近、ネットメディアの新しい形について考えを巡らせることがあるが、媒体の形はどうであれ、大事なのは「何をどう報じるか」である。だったら、官依存・発表依存に陥っているメディア側の思考様式・行動様式をどう変えるか、しかも具体的に何を契機に変えるか、という視点・具体論が欠かせない。現状では愚にもつかない話だが、その一つが、この「自由記者クラブ」だ。
もちろん、最大のネックは「資金」である。ふだん、霞ヶ関・永田町・虎ノ門あたりをぶらぶら歩いている感じでは、場所自体はある。空き室のあるビルも多い。ただし、あのあたりのビルは任意団体や個人には貸してくれないだろうから、やはり、篤志家が必要かもしれない(笑)。
それはそれとして、こういう、「真の意味での記者クラブ」ができたら、なかなか面白いだろうと思うのだが。よろしかった是非、ご意見を聞かせてください。メールでのご意見も歓迎です。
メールアドレスは masayuki_100★hotmail.com ← 実際は★を@に変えてください。 ]]>
総選挙 : 結局、ブログの影響度はどうだったのか?
http://newsnews.exblog.jp/2743210/
2005-09-21T02:58:44+09:00
2005-12-06T00:30:54+09:00
2005-09-21T02:56:51+09:00
masayuki_100
■ネット時代の報道
要は、なかなか分からんよねえ、、、と思っていたら、Hotwiredに、「衆議院議員選挙に対するネットの影響力に関する調査」の結果が出ていると、知人から教えてもらった。この種の調査結果はほかに見当たらないし、なかなかおもしろい。それを覗いてみると、、、
<どのメディアから選挙に関する情報を得たか(複数選択)という質問では、「インターネット」は約34.4%。「テレビ」約86.2%、「新聞」約69.4%の次となった。また、得た情報の中で、投票の決め手となった情報源は何か(単一選択)という質問では、「テレビ」約46.5%、「新聞」約24.5%、「ネット」は約10.4%>
といった数字が並んでいる。サンプル数は1000と少し。この種の調査としては多いのか少ないのか適切なのか、よく分からないが、全体を読むと、今回の選挙とネットの関係がぼんやりと見えるような気がする。Hotwired の結論は、大きな影響を与えたとは言えない、ということらしい。確かに、詳しい数字を眺めていると、それは間違い無さそうだ。「ネットを参考にした」という回答者も、その中身は大半がポータルや大手メディアのHPなどである。ブログの影響度は、相当に小さかったようだし、そのブログも記事の内容の多くがメディアの報道の影響を受けていた(のではないか)などと考えを巡らせていくと、「ブログと選挙」の「ブログ」は、なんだか、両手から零れ落ちる水のような感じだ。
この調査は、ネット調査なので、回答者もネットユーザーに限られているようだ。ネットを使っていない人はそもそも調査の外にあるわけだから、そこも含めて勘案すると、この調査の数字はもっともっと(ネットの影響度が低下する方向に)変化するように思う。
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新メディアとオーマイニュース
http://newsnews.exblog.jp/2729751/
2005-09-19T02:41:30+09:00
2005-12-06T00:31:06+09:00
2005-09-19T02:39:04+09:00
masayuki_100
■ネット時代の報道
呉さんやそのほかのパネリストの方々の話を聞きながら、あるいは、会場に足を運ばれた方々も交えての二次会、三次会での話の中で、私はいくつかのことを考えていた。
「市民による 市民のためのメディア」を掲げたインターネット新聞としては、すでにJANJANや日刊ベリタ、MyNewsJapanなどが存在する。それに加えて、新たにメディアを立ち上げるべきかどうかについて、私は結論を持っていない。しかし、仮に新たなメディアを立ち上げるとするならば、「市民記者」にすべてを賭ける方法は結局、うまくいかないのではないか、とぼんやり感じている。
オーマイニュースは3万人超の市民記者の存在がクローズアップされ、市民記者こそが屋台骨であることは良く知られている。しかし、よくよく話を聞いていると、必ずしも市民記者(の数)が最大の成功要因ではないのではないかと感じた。呉さんの著書「オーマイニュースの挑戦」などにも書かれているが、オーマイニュースにはれっきとしたプロの取材記者も多数いる。彼らスタッフ記者は、市民記者が追う事ができない独自取材や深層取材を重ね、オーマイニュース発のスクープが何度も紙面 画面を飾ったという。「すべての市民は記者である」という手法もそうだが、そうしたプロ記者の記事の数々は読者の信頼を得る大きなきっかけだったようだ。
いまネット上には、膨大な情報が流れている。ブログの存在も数限りない。しかし、多くの情報が溢れていることと、すべての情報が開示されていることとは、同じ意味ではない。ブログが増えれば、それが新たなジャーナリズムになる、との議論がある。ジャーナリズムの定義をどうるかにも左右されるが、しかし、書きたい人が書きたい時に書いた情報のみでは、ジャーナリズムは完成しないと私は考えている。なぜなら、情報の中には「自ら発したい人が発した情報」だけでなく、「(取材者などが)取ってきた情報」も含まれるからだ。「ニュース」を判断基準にすれば、「取ってきた」情報の方が比重は高いかもしれない。
当たり前の話だが、世の中で情報をたくさん持っているのは、官公庁や大企業だ。情報はそこで加工されて表に出てくるし、表に出てこない情報も山のようにある。カネや法律を使って集めた情報を自在に使える人たちは、たいてい、自らの都合のよいように情報を使い、流し、都合の悪い情報は隠す。組織とはだいたいそういうものだし、組織幹部は自己保身やら組織維持やら、種々の利益に基づいて、情報を自在に扱っている。だから、「情報を取ってくる」作業が継続的に行われていないと、いかに多種多様な情報が溢れていようとも、肝心な情報はほとんど流通していないことも十二分にありうる話なのだ。
オーマイニュースの場合、市民記者の多くは、身辺雑記のような記事を書いてくるという。政治記事ばかりがニュースの中心だとは思わないし、日々の生活の中にこそ、大事な話は潜んでいる。また、日々の暮らしぶり自体がニュースだと感じる人もいる。それはそれで大事なことであり、全く否定しない。むしろ、今の新聞やテレビは、政治経済事件に重きを置きすぎていると思うし、私など、日によっては「生活面のこの話がきょうのトップニュースだな」と思うこともある。
だけれども、誰も公表したがらない、隠したがる話を取材し、読者・市民の前にぶちまける行為が無くなれば、その媒体は、ネットであれ紙であれ、私は「新聞」だとは思わない。個人が自由に使えるブログは、非常に大きな存在だし、有力な情報発信ツールだと思うが、それを外形的にいくら集積させても、それだけでは、既存のメディアに比肩しうる存在にはならないのではないか。ブログは、すでに明らかになったニュースの検証や論評には向いている。あるいは、ニュースの端緒にもなり得ると思う。だが、やはり、専業の取材者は必要だと思う。
新たなネット新聞を立ち上げるならば、こうしたプロ記者と市民記者の兼ね合いに十分配慮する必要がある。もっと言えば、スクープを連発できる力量を持った「プロ記者の組織」がある程度必要なのだ。その新ネット新聞が報じたニュースを既存のメディアが後追いせざるを得ない状況にまで持っていってこそ、初めて新たなメディアとして無視できない存在になるのだと思う。例えば、ライブドアのパブリックジャーナリストは「市民記者」から入ったが、私の考えでは、「市民記者+プロ記者の集まり」こそが大事に思える。もちろん、記事を書くに際しては、「発表ジャーナリズム」「政官財察依存型」に陥った既存メディアが報じないニュースを積極的に取り上げていく必要がある。]]>
新しいニュースブログ誕生
http://newsnews.exblog.jp/2669329/
2005-09-09T16:15:02+09:00
2005-12-06T00:31:20+09:00
2005-09-09T16:12:38+09:00
masayuki_100
■ネット時代の報道
「共謀罪」反対!(『The Incidents』期間限定版)
「共謀罪」反対を真正面に据えたタイトルになっています。でも、実際は、一世を風靡しながらその後、更新が中断されていた「The Incidents」の復活と見たほうが良いのかもしれません。私の友人でもある寺澤さんたちが、どんなことを書いていくのか。このブログから、特ダネ記事が連発されるかもしれまんね。
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ネットメディアの新しい形
http://newsnews.exblog.jp/2585669/
2005-08-27T23:06:53+09:00
2005-12-06T00:31:34+09:00
2005-08-27T23:04:43+09:00
masayuki_100
■ネット時代の報道
最近、一番参考になるのは、「Grip Blog ~ 私が見た事実」である。主宰者の泉あいさんとは、何度か会って話し込んだこともあるが、このブログは、「報道」の観点からみて、最近にないヒットだと感じている。どこかどう素晴らしいか。私なりに解釈すると、こういうことだ。
(1)名前出し、顔出し。書き手の存在がはっきりと目に見える。
(2)自分で足を運び、そこで得た事実をはっきりそれと分かる形(1人称)で記載している。文字通り「私の見た事実」であって、情報には、いわゆる純粋な意味での「客観的事実」など存在していないことを最初から前提にしている。
(3)誰かにインタビューする際、事前にそれを告知し、質問内容を広く公募するなど「双方向」の強みをふんだんに生かしている(衆院選における各党の候補予定者へのインタビューなど)。その結果も、種々のエントリで書き連ねている。
(4)相手側とのやり取りも含め、取材の経過を示している(警視庁記者クラブ問題など)。
(5)文章が的確。かなり上手い。
さらに言えば、「大卒が入社試験の必須要件であり、その後の下積み時代を経て、ようやく書きたいポジションに座ることが出来る」といった、既存メディア企業の旧弊も、この「Grip Blog」は軽々と超えようとしているのかもしれない。発信媒体(この場合はブログ)さえ準備が出来て、そして、熱意と戦術と若干のスキル等があれば、だれでも、記者になれるという事実を証明しているように思う。
ネット上には、同様に素晴らしいブログがたくさんある。
反骨のジャーナリスト、山岡俊介さんの「ストレイ・ドッグ」、ビデオジャーナリスト神保哲生さんのブログ、的確で簡潔な指摘が鋭い「木偶の妄言」さんのブログ、、、数えていくときりがなくなるが、こうしたブログには共通項がある。
実名でブログを作成し、なおかつ、自分の足で集めた情報を発信していることが、明確に分かる点だ。どこかで、どなたかが使っておられたが、「取材するブログ」という言葉が一番ぴったり来る。匿名ブログの場合は、必ずしも「取材するブログ」という特色は出し切れていないが、しかし、伝えたいこと、言い換えれば、当人の立ち位置が非常に鮮明だ(もちろん私は匿名ブログは全く否定していない。その理由は過去に何度か書いたので、繰り返さない)。
おそらく、「Grip Blog」のような、双方向性の特性を上手に生かし、かつ取材過程も見せていく「取材するブログ」が、あと10個ぐらいできれば、おそらく、実社会に対して一定程度の影響力を持つようになるのではないか。とくに、既存メディアにとっては、困ったことになっていくのではないか、との予感がある。こうしたブログがひと塊になって、同一のホームページ上に「入り口」を設けるなどすれば、その存在感は一層増すかもしれない。
もっとも、「Grip Blog」が実行している「取材」は、既存メディアが連日連夜行っている取材と比較して、どこかが違っているわけではない。「取材」行為そのものは、基本的に同じである。
ただし、取材過程および取材結果の「見せ方」は決定的に違う。例えば、いま、各新聞紙上では、総選挙を前にして各党代表者の個別インタビューが掲載されているが、字数はおおむね、どこも千字程度だ。インタビューの時間が仮に20分だったとして、それを千字程度で表現するには、どこかで何かを削り、縮め、要約する必要が生じる。紙幅に限界がある以上、それは止むを得ないことではあるが、ネット上での事実上の「文字数無制限」と較べると、決定的に見劣りがする。もちろん、「Grip Blog」のエントリも、そうした編集作業からは無縁ではないと思うが(ビデオは別)、その文字数の差は、かなり大きい。
ネット上ではこれまで、JANJANや日刊ベリタ、Mynewsjapan、ライブドアのPJなど「ネット上での新しい報道の形」を求めて、種々の新しい試みが登場した。それをどう評価するかは、人それぞれのモノサシがあるし、私も何とも言えないが、面白さという点で言えば、断然、「Grip Blog」的手法がおもしろいと私は思う。とくに、最初に例示した私流の解釈のうち、 (2)の「自分で足を運び、そこで得た事実をはっきりそれと分かる形(1人称)で記載している」、(3)の「誰かにインタビューする際、事前にそれを告知し、質問内容を広く公募するなど「双方向」の強みをふんだんに生かしている」、(4)の「取材の経過を示している」、の3点は、この先も相当な威力を示していくと思う。
そんなことをつらつら考えていると、既存メディア内に居る私などは、どうしても、(2)(3)(4)みたいなことをネット上で、新聞社がやったらどうだろうか、と考えてしまうのだ。
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「日本でオルタナティブ・メディアをどうつくるか」
http://newsnews.exblog.jp/2500307/
2005-08-15T01:26:54+09:00
2005-12-06T00:31:46+09:00
2005-08-15T01:24:54+09:00
masayuki_100
■ネット時代の報道
当日はまず、かの韓国のネット新聞・「オーマイニュース」代表の呉連鎬(オ・ヨンホ)さんが講演する。後半のシンポジウムは「日本でオルタナティブ・メディアをどうつくるか」をテーマとし、パネリストには、<1>呉連鎬さん <2>フリージャーナリストとして警察腐敗・武富士・記者クラブ問題などの追及を続ける、私の友人でもある寺澤有さん <3>元毎日新聞編集委員で国際ニュースに強い永井浩さん(現在は神田外国語大学教授、かつネット新聞「日刊ベリタ」代表) <4>市民記者で同志社大学大学院留学生の李其珍(リ・ギジン)さん <5>私・高田 の5人が参加する予定だ。司会は、人権と報道・連絡会世話人で同志社大教授の浅野健一氏が務める。浅野氏は、月刊誌「論座」の9月号に「動き出す日本版オーマイニュース」という一文を寄せていて、新たなネットメディアの立ち上げにことのほか熱意を見せている。
時間のある方は私の過去のエントリ、例えば、「ネット(ブログ)は新聞を殺すのか」 「第二次記者クラブ訴訟と私の陳述書」 「マスコミを勧めない理由に対して」などを読んでもいただけたらうれしい。それらを見ていただければ分かる通り、私は日本の既存メディアがすべてダメだと思っているわけではない。
新聞社にしてもテレビ局にしても、いわゆる既存メディアは相当な問題点を抱えている。何かを変えようとしても組織がそれなりに大きくなりすぎて、事なかれ主義(=誰も責任を取りたがらない)がはびこり、変革に対する熱意が組織体から失われ、日々何となく過ごしていく風潮が年々強まっているように思う。1人1人の記者には、特に若い記者には、問題意識も豊富で取材も粘り強く、「すごいな」と感心させられる人がどの新聞社にもテレビ局にも居るけれど、それが組織全体の変化や斬新さにつながるかというと、それがどうもそうではない。個別の問題・具体的事例については、このブログでも再三書いてきたので、今回はもう書かないけれど、今の既存メディアにとって「そこが問題だ!」と指摘される事柄は、多くの部分が「組織のありよう」に帰結するのではないか、と感じている。 既存メディアの右代表みたいな私が、上掲のシンポジウムに顔を出し、しかも「日本でオルタナティブ・メディアをどうつくるか」というテーマの議論に加わることについては、少し違和感を抱く人もいるかもしれない。私自身も、「既存メディアに変わる新しいメディアがネット上で上手く運営できたら素晴らしいだろうな」と思う半面、「それは新しい媒体を創らない限り、できないことなのだろうか」という疑問が残っている。
ネット上では今、ブログをはじめ、各種のホームページなどを舞台にして、既存メディアを凌駕する言説や事実の探究が次々と登場している。ネット空間では文字数や放送時間といった「制約」が存在しないし、その制約が消えることで、ニュースの伝え方(書き方など)も変わっていく。そして、既存メディアが抱える「入社試験を受けて数年間の見習いを経てやっと本格的に取材活動ができる」といった、ある種の「壁」も、ネット上の発信者には無縁のことになる。
ただ、ブログもネットも基本的には情報伝達の「手段」である。それをしっかり認識しておかないと、どうも、「ネット時代のジャーナリズム論」みたいな話は、あっちへこっちへと議論が飛びすぎて、なかなか理解しにくいように感じている。月刊誌「論座」の取材を受けた際にも強調したし、その他種々の会合に呼ばれて話をするときも同じことを言っているのだけれど、要は、「何を書くか」「何を発信するか」「どのような立場で書くか」といった「内容の話」こそが、もっともっと語られなければならないように感じている。ブログが隆盛すれば、参加型ジャーナリズムが自然と広がり、そこで民主主義の新たな形が生まれる、、、といった議論もある。しかし、こうした主張は、私には、どうも「技術決定論」に傾きすぎているように思える。「市民記者」を軸に据えた韓国の「オーマイニュース」にしても、私の見る限り、それが韓国で成功した大きなポイントは、「市民記者」の存在そのものよりも(それが大きな要素であるこちには変わりは無いが)、オーマイニュースの編集者が担った「ニュースに対する価値判断」、いわば「立ち位置」が韓国内で好意的に受け入れられた結果ではないか、と思っている。
まあ、そんなことをつらつらと考えながら、シンポジウムまでに議論をどこに絞りたいか、絞るべきかを私なりにまとめてみたいと思う。
で、ここから先が本題なのですが、こういった「オルタナティブメディア」に関する意見等をお持ちの方は、ぜひ、「おれはこう思う」「私はこうよ」といった考えを聞かせてもらえないでしょうか。トラックバックやコメントを寄せてくれれば、とてもうれしいです(メールでも構いません。アドレスは左側のメニュー欄にあります)。当日は、それらの意見も参考にして、議論してみたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
長文、失礼しました。]]>
ネット新聞社の記者クラブ加盟 北海道小樽市
http://newsnews.exblog.jp/2436807/
2005-08-05T13:49:54+09:00
2005-12-06T00:31:56+09:00
2005-08-05T13:47:43+09:00
masayuki_100
■ネット時代の報道
北海道に居る間、札幌に隣接する小樽に足を運んだ。小樽は私が記者生活を始めた街で、街の雰囲気も大好きなのだ。で、その小樽と記者クラブの話。こんなことが起きている。
<以下は小樽ジャーナルからの引用>
小樽ジャーナルが「記者クラブ」に正式加盟!
本サイトを運営する小樽ジャーナル社の『小樽ジャーナル Web OTARU』が、小樽市役所内にある「小樽市政記者クラブ」に正式加盟した。
新聞・放送・通信社など加盟13社でつくる「小樽市政記者クラブ」は、2003年12月5日に総会を開き、小樽ジャーナルの加盟について、様々な論点からの論議を経て、満場一致で承認した。これにより、小樽ジャーナルは、14番目のクラブ正式加盟社となった。
これは、インターネットを報道媒体として、小樽から世界へ情報発信を続けるインターネット新聞社が、「記者クラブ」という重い門戸を、全国初に開いたもので、ネット社会の到来で、インターネットが、情報発信の優れた媒体として、既存の新聞やテレビと並ぶ、新たな報道機関として、広く認知されたことを示すものとなった。
「小樽市政記者クラブ」は、新聞5社、放送6社、通信2社の13社が、これまで加盟していた。加盟社は、朝日新聞・毎日新聞・読売新聞・日本経済新聞・北海道新聞の新聞5社、NHK・STV・HBC・HTB・UHB・TVhの放送6社、時事通信・共同通信の通信2社。これに、今回新たに、インターネット新聞社として、小樽ジャーナルが参画することになった。小樽ジャーナルの加盟については、その運営母体が、他都市ですでに公共報道機関としての新聞社として長年にわたる実績を有し、記者クラブにも加盟していることなどが、評価された上での決定であった。
「記者クラブ」加盟により、これまであった数々の取材規制も取り除かれて、読者・視聴者に、さらに質量共豊かな情報を発信することが可能となった。このことは、とりもなおさず、本サイトが重い課題を背負ったことも意味しており、当社としては、全力を挙げて、市民の目線に立った、新しき情報伝達の道を一歩一歩模索しながら、サイトの内容の充実をさらに図ることで、読者・視聴者の期待に応えていきたい。
もちろん「記者クラブ」に加盟したからと言って、「記者クラブ」が内包する多くの課題についても、看過することなく、今後の新しいあり方への道を探り続けていくことは、論を待たないところである。
小樽からリアルタイムで情報発信をする小樽ジャーナルの、今後の展開に、皆様方のご支援・ご協力を更にお願いしたい。<引用終わり>
小樽ジャーナルさんのことは、ほとんど知らない。報じている内容はネットで見れば分かるとおり、地域情報の発信に特化している。個人的には「足りないな」と感じる情報もあるけれど、かゆいところに手が届くような情報も多く、小樽に住んでいたら結構、重宝しそうなサイトだと思う。
ここで小樽ジャーナルさんが述べている通り、ネットメディアが既存記者クラブに正式加盟した例は、日本では他に無いのではないか。私自身は、記者クラブは原則、オープンにすべきだと考えている。全国的な記者クラブ問題から言えば、小樽ジャーナルさんの加盟は、取るに足りない出来事かもしれないが、こういう小さな動きが積み重なることで、現実は確実に動いていくのだと思う。]]>
https://www.excite.co.jp/
https://www.exblog.jp/
https://ssl2.excite.co.jp/