ニュースの現場で考えること:■事件報道のあり方全般
2005-04-28T17:40:50+09:00
masayuki_100
「真実 新聞が警察に跪いた日」。北海道警察の裏金問題の報道と舞台裏の総括です。角川文庫から発売中です
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東京・音羽の事件で思うこと
http://newsnews.exblog.jp/1565435/
2005-04-22T03:58:51+09:00
2005-04-28T17:40:50+09:00
2005-04-22T03:57:24+09:00
masayuki_100
■事件報道のあり方全般
東京都文京区で99年、幼女(当時2)が母親の知人の女に殺害された事件で、幼女の母親が雑誌「週刊文春」の記事で名誉を傷つけられたとして、出版元の文芸春秋に損害賠償と謝罪広告の掲載を求めた訴訟の和解が東京地裁(大門匡裁判長)で成立した。文春が和解金を支払うほか、遺族の手記と謝罪の意を表した「検証記事」を21日発売の同誌4月28日号に掲載する。また、謝罪する旨の告知文を電車の中づり広告にも掲載する異例の和解内容だ。
この事件には、個人的に格別の思いがある。事件のあったころ、私は東京勤務で、事件が起きた「音羽」に住んでいた(住所は大塚)。現場となった護国寺境内は、歩いて1、2分。幼稚園の近辺は、まだ小さかった私の子供たちにとっても、格好の遊び場でほとんど毎日のように足を運んでいた。警察官も自宅に聞き込みに来たし、自宅裏側の護国寺の土手を捜索にも来た。そして私自身は、界隈を歩くたび、何人もの記者に「ご近所の方ですか?」「事件をどう思われますか?」と質問を浴びせられる状態だった。
そのとき、ある週刊誌の若い記者に思わず、「説教」してしまった記憶がある。「この、お受験殺人をどう思いますか」と聞くので、「どうして原因が受験だと分かるの?容疑者が逮捕された直後なのに、そんなところまで本当に調べが進んでいるの? そもそも誰がお受験が原因だと言ったの?」。。。そんな感じだったと思う。その記者は、実のところ、お受験が動機だという根拠は何も持ち合わせていなかったし、私がしつこく逆質問した範囲では、すでに多くのメディアがそう報道しているから、といった回答しか持ち合わせていなかった。
当時、いったい、誰が「お受験が動機」と言い出したのか?
私は警視庁を取材したわけでもないし、詳細は分からない。ただ、どこかが報じた「お受験殺人」という事柄が、メディアの間で、確たる根拠もないままグルグルと回り、それが、あのときの音羽界隈に充満していたことは間違いない。私に質問してきた何人もの記者は、私から「お受験の実態」を聞きたがっていたし(もちろん私はたまたまそこに住んでいた転勤族に過ぎない)、事件当事者が住んでいたマンションにも私の友人がいたこともあって、何とか、「お受験殺人」を正当付ける言葉を取ろうと躍起になっていたと思う。
たまたま、見かけた「あれはあれで良いのかな」 さんのブログに「奈良女児殺人事件から犯罪被害者の報道を考える」というエントリがあった。まさに、そうなんだよ、と思う。(以下引用。一部略)
報道関係者は,まだ懲りてないの?
確かに,日本では憲法21条の表現の自由の前提として,報道の自由も憲法上保証されています(博多駅事件)しかし,一方で,報道者には特権が与えられているわけでもないことは最高裁も明言しています(石井記者事件)。
そもそも,報道の自由が認められるのは,表現の自由に基づくものですが,表現の自由は,国家に対して何を言ってもよい,という対国家に関するものです。また,逆に国家に対して情報を提供してほしいという知る権利を満たすためにも報道は重要になります。さらに,近年では,国家権力に近い権力を持つ私人(大企業や議員など)が現れたことから,彼らに対しても,一定の自由権を有する,というものになります。つまり,報道の自由は強大な権力に対して向けられるものであり,その内容も国民の世論を形成するような公益性の高いものになるべきなのです。
ところが,現実にはどうでしょうか。最近の報道で,国家権力や大企業,議員がビックリして襟を正すようは報道は少ないです(企業の不祥事報道はちょこちょこでていますが,あまり突っ込んだものは少ないですね。)。むしろ,弱いものに対してこれでもか,と言わんばかりの報道が目に付きます。犯罪被害者は弱いものの究極ですが,「犯罪被害者は社会に報告する義務がある」と言わんばかりに報道陣は集中します。さらに,このような弱者からコメントが取れたことを「スクープ」と豪語する報道社もありますが,スクープとは,前述のとおり,本来的には国家や大企業などからの極秘事項や問題事項などをすっぱ抜くことを言うべきなのです。個人の私生活や犯罪被害者の心境をすっぱ抜いたところで,世論が形成されるものでもありません。
報道キャスターの長野智子さんさんが、岩波書店の「ジャーナリストの条件」の第1冊に『視聴率と「伝えたいニュース』という一文を寄せ、過激さを売り物にすればするほど視聴率が上がって行く実態を記している。「伝えたいニュース」と「読まれる・見られるニュース」のギャップは、それこそ永遠の課題かもしれないが、「読まれること」に重点を置けば、当たり前の話だが、ニュースは単に、過激さばかりを追いかけることになる。その一例が、まさに音羽や奈良の事件報道に見られるのであって、もう本当に何とかしなければと思う。
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れれれ、逮捕前に「容疑者」? 中津川事件
http://newsnews.exblog.jp/893126/
2005-02-28T05:23:10+09:00
2005-03-03T01:00:35+09:00
2005-02-28T05:21:39+09:00
masayuki_100
■事件報道のあり方全般
乳児含む家族5人殺害、容疑者は自殺図る 岐阜・中津川
27日午後1時50分ごろ、岐阜県中津川市坂下、会社員藤井孝之さん(39)から「義父に刺された」と、110番通報があった。中津川署員が、藤井さんの妻の父親で同市職員の原平(はら・たいら)容疑者(57)方に駆けつけたところ、家の中で計6人が首を絞められるなどして倒れていた。うち乳幼児2人を含む5人が死亡したほか、原容疑者宅から逃げようとしていた藤井さんも腹を刺されて重傷。原容疑者は、自分が殺したことを認めているが、自分の首を刃物で刺しており、重体。同署は回復を待って殺人容疑で取り調べる。
同署によると、死亡したのは、原容疑者の長男で整体業の正さん(33)と母親のチヨコさん(85)、長女の藤井こずえさん(30)と、こずえさんの長男の孝平ちゃん(2)、長女彩菜(あやな)ちゃん(生後3週間)。
調べだと、同日午前11時すぎ、原容疑者が約1キロ離れた藤井さん宅を訪れ・・・
記事はまだ続くのだが、なぜ、この57歳男性は「容疑者」なのか。もちろん、状況から見れば、彼が実行行為者であることは、ほぼ疑う余地はない。しかし、「容疑者(被疑者)」とは通常、裁判所発付の逮捕令状によって、捜査当局が身柄を拘束した人のことを指す。あるいは、書類送検された段階の人を指す。従って、「容疑者」呼称は、その当人の刑事司法手続き上での法律的立場を示すものであって、それを決め得るのは、司法捜査権を持った機関である。目の前で犯行を目撃しても、その行為者が直後に入院するなどして司法当局が回復を待っている場合は、「容疑者」ではない。
少なくとも私はそう理解していたのだが。実際、各新聞のHPを見ると、多くは「原事務長」などの表記を使っている(座りの悪い言葉ではあるが)。
いったい、朝日新聞は何をもって、「容疑者」としたのか? それとも57歳男性は(記事には出て来ないが)逮捕されたのか? 朝刊でも「容疑者」で通しているのか?
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性犯罪をどう表記するか
http://newsnews.exblog.jp/839485/
2005-02-24T18:19:44+09:00
2005-03-16T01:13:34+09:00
2005-02-24T18:18:09+09:00
masayuki_100
■事件報道のあり方全般
小6女児にわいせつ行為、北大生逮捕・ネットで知り合う(日経新聞)
小6に乱暴、北大生を誘拐容疑で逮捕(読売新聞)
小6女児を誘拐し強姦、容疑の大学生を逮捕 札幌(朝日新聞)
もちろん、3紙とも伝える事実は同じである。
「わいせつ行為」も「乱暴」も「強姦」をさすことは明らかだ。(引用終わり)
私の勤務先の北海道新聞HPは「北大生、小6に乱暴 ネットで誘い出し自宅へ 札幌中央署逮捕」という見出しです。
私の勤務先では事件報道において、特段の理由が無い限り、「強姦容疑」「強姦罪」「強姦」の用語は使っておらず、いずれも「女性暴行」という用語に言い換えています。言い換えを始めた最初の理由は判然としませんが、読んだ人が強い不快感を覚える、当事者やその家族等が辛い思いを倍加させてしまう、というところではないかと思います。この言い換えは、刑法に新設された「集団強姦罪」「集団強姦致死傷罪」でも同様です。
一方では「こうした言い換えは事件の実相を正確に反映していない」という考え方も当然にあり、2年程前、社内でも随分議論になりました。フェミニズム団体なども「強姦という言葉を使用しないことで、逆に性犯罪の酷さを覆い隠している」という主張をしています。こうした指摘はある意味正鵠を得ています。警察庁も重大犯罪としている6つの犯罪には「強制わいせつ」「強姦」ともに入っているように、この種の犯罪はどういう態様であれ、重罪であることに変わりはありません。
ただ、私は「ある編集者の・・・」さんが書かれた文章、すなわち「この言葉(=強姦)によって、心の中に、ザラっとしたものをねじりこまれるような感覚を覚える。べつに、事実をオブラートにくるむことがいいとは思わない。だけど、一糸まとわぬ事実を伝えることが必ずしも「正解」かどうかは、僕にもよくわからない。明日、各家庭に届く朝日新聞も、この見出しでいくのだろうか。言葉はときに、暴力より暴力的である」という内容に、深く感じ入りました。
筆舌に尽くしがたい被害者を前に、外野の人間が性犯罪の表記、その使用基準等を一般論として、あれこれ言うこと自体が、何か一線を超えているように思うことがあります。事件発生段階で、そうした被害者の声を直接聞くことは出来ません。聞きに行くべきでもありません。「強姦」か「乱暴」か、といった表現の問題ではなく、(いくら被害者の住所や年齢をぼかしたとしても)事件そのものを報じて欲しくないと思っている方々も相当に多いと思います。
ならば、その被害者の苦痛にできる限りの想像を及ぼし、最も刺激的でない言葉を探すほかはないのでしょう。「強姦」を「女性暴行」に言い換えたところで、被害者の苦痛は少しも減りはしないし、もっと妥当な表現があるのかもしれません。当事者が「許せないから、正確に強姦と書いて」と言い出さない以上、そうするいかないように思います。もちろん、被疑者の有罪が確定した場合は、きちんとその事実を伝えねばなりません。
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それでも「親の顔」は必要ない
http://newsnews.exblog.jp/510673/
2005-02-01T10:31:21+09:00
2005-03-16T01:14:42+09:00
2005-02-01T10:30:41+09:00
masayuki_100
■事件報道のあり方全般
歌舞伎俳優の中村七之助容疑者を逮捕 警官殴った疑いで
七之助容疑者(21)が逮捕され、それが報道された。そこまでは良い。でも、なぜ、父親が出てきて会見して、謝罪するのか? 未成年でもないし、全くの別人格。もう、こういった「親が出て来い」「親の顔が見たい」式の会見を求めたり、開いたりするのは、やめた方がいいと思うけど。
これに関して、「ある編集者の・・・」さんは、親の顔が、見たいんだ。というエントリを立てています。要約すれば、「そう言っても親の顔を見たい、という欲望は誰にでもある。だからメディアは東奔西走するのだ」といった趣旨になっています。
ひとことで感想を言えば、私自身はすごく違和感を感じました。第1に「親の顔を見に行き、マイクを突きつける」ような取材は、たいていが「逮捕」の段階で行われるのですが、「逮捕」はあくまでも「容疑」でしかありません。どんな犯罪であれ、日本が法治国家であり、刑事訴訟法が厳然とある以上、「有罪」が裁判で確定するまでは、どんな容疑者も推定無罪です。本人が容疑を認めていようがいまいが、法律上は有罪でも何でもありません。それが法治国家というものです。
ですから、当たり前の話ですが、有罪確定前に、容疑者本人をさらしものにする行為は、「私刑=リンチ」と言われても仕方ないのではないでしょうか?よく、刑事事件の判決で「被告はすでに社会的制裁を受けており・・・云々」というくだりが出てきますが、これなどはマスコミによる「私刑」の結果だと言っても過言ではないでしょう。だから、極端な話を言えば、例えば、長崎の事件で国務大臣が「親の顔をみたい」「市中引き回しだ」といったことを平然と言える土壌を生んでいるのではないでしょうか。
こうしたことを考えると、容疑者の「親」や「親類」等は、なおさら、好奇の目にさらされるのは、いかがなものかと思うのです。それに(少し焦点はずれますが)、「少年も大人と同じだ。少年犯罪にも厳罰を」と主張する人々が、同じ口で「親も出て来い」「親の責任はどうなってるのだ」なんて言うのを耳にすると、私は「ほんと適当だな」と思わずにいられません。
罪を犯した人の親の責任がゼロだとは思いません。子供が成人して犯した罪に対しても、親は被害者やその周辺に対しては、道徳的責任を持つと思います。そうやって、社会の秩序が保たれる部分も間違いなくあります。しかし、それは「被害者やその周辺」、あるいは当事者たちが生きてきた生活空間に対しての道徳責任であって、見ず知らずの、遠くでテレビや新聞を見たり読んだりしているだけの人に対しての責任ではありません。ましてや、ペンやカメラを持った人たちに対して、「親」たちが直接、何かの責任を持っているとは思えません。
そういうときに「好奇心」を押し立てて、「国民が知りたがっている」とか何とか言って、押しかけていく。やはり、それは違うのではないでしょうか?(1月14日のエントリ「マスメディアの説明責任」の後段を参照ください)
「ある編集者の・・・」さんは、エントリでこう書かれています。
>が、いままでの話に矛盾するようだが、(僕を含めて)大衆は「親の顔が見たい」生き物だと僕は思う。
>東に子供を殺された親がいれば会いに行き、西に子供が事件を起こした親がいればマイクを突きつける。いまとなっては、当事者には会えないが、当事者に一番近い人間を眺め、声を聞くことはできる。それ知りたさに、人は新聞を読み、TVにかじりつく。
親の顔が見たいんだ。
それもまた、人間の欲望である。
だから、許されると言いたいのではない。
ただ、そういう欲望が、まぎれもなく存在するというだけだ。
もちろん、そういう欲望は存在すると思う。しかし、「大衆」すべてがそうである、と言い切るのは根拠がないし、「大衆」を愚弄しているように思えて仕方がありません。必要なのは、その時々で、事件のありようをどう判断し、取材現場でどう自制を働かせるかにある、と思うのですが。いかがでしょうか。
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「ヴィレッジ」という映画
http://newsnews.exblog.jp/331595/
2005-01-17T01:12:56+09:00
2005-03-16T01:16:43+09:00
2005-01-17T01:12:05+09:00
masayuki_100
■事件報道のあり方全般
最近は、新聞は1面で、テレビはトップニュースでこうした犯罪を報じることが多くなりました。でも、毎日の年表を見たり、その他の古い記事を読んだりしていると、どうしても昔の方がひどかったと思えてなりません。実際、警察の統計を丹念に読んでいると、「凶悪事件が増えている」というアナウンスには、「ほんまかいな?」と言葉を返したくなります。ならば、なにが変わったのか? それは全国区のメディアが登場し、そうした犯罪を全国ニュースとして報じるようになった、ということではないでしょうか。昭和30年代の九州の一家5人殺しを北海道新聞で探しても、実は掲載されていない、、、こんな例はいくらでもあります。
かつては地域ニュースだった犯罪が、今では全国トップ級のニュースになる。1億総探偵時代が最近はずっと続いている感じです。奈良県の幼女事件では(もちろん許しがたい、悲惨で卑劣な事件ですが)、容疑者がまだ逮捕されていない昨年末、NHKの7時のニュースで「犯人の血液型が分かった」とトップで報じていました。古いところでは、和歌山カレー事件も、それぞれに重大な犯罪ではありました。しかし、捜査の途中段階の報道が、それこそ、その日の全国で一番のニュース、というのは、どう考えても私には理解しがたい部分がありました。
「ヴィレッジ」という映画がありました。映画自体は評判も芳しくなかったようで、まあ、それはそれでいいのですが、あの映画では、村を統治する手段として使われていたのは「恐怖」です。「森から得体の知れないものが出てくる」という恐怖によってのみ、村を束ね、あれをするなこれをするな、と村人の自由を縛っていく。
そういうもんだろうなあ、結局。関東大震災で朝鮮人が襲撃された際、当時の記録を読むと、「朝鮮人がこの災禍の中で日本人を襲ってくる」という庶民の恐怖心がたくさん語られています。9・11の直後も、炭素菌騒動で、米国人は相当に恐怖を抱いただろうなあ。。。そういえば、あの優秀な米国の情報当局はなぜ、ビン・ラディンの所在がいつまでも分からないのだろう? なんで大統領選の直前に彼のビデオテープが出てきて、なぜパッタリまた音信が途絶えるのだろう?
で、話は戻るのですが、日本でいろんな犯罪が起きると、すぐに待ってましたとばかりに「対策」が打ち出される。性犯罪者の履歴情報もそうだけれど、街中にあふれる「テロ対策実施中」「不審者を見たらすぐ通報を」の文字、文字、文字。。。題名が思い出せないけれど、ある小説で(「1984」とか「われら」とか、そのへんの小説だったように思います)、こういう場面があるんですね。
「犯罪のない都市をつくるのは簡単だ。人々から自由をすべてを奪えばいい。自由を与えるから、連中は迷うんだよ」
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どうして「タレント」なのか? を考えた
http://newsnews.exblog.jp/244088/
2005-01-08T04:01:43+09:00
2005-02-25T18:15:56+09:00
2005-01-08T04:00:53+09:00
masayuki_100
■事件報道のあり方全般
この「島田紳助タレント」は、弊社内でも大きな話題を呼びました(記事はそのまま共同原稿が使用されました)。
事件の被疑者にどんな呼称をつけるか。
それを考える際に忘れられているように思うのは、「容疑者(被疑者)」は、一連の刑事手続きの中においての、当人の法的立場を示す用語でしかない」ということです。したがって、私なりの解釈では、実名で報じるのなら、逮捕であっても書類送検であっても、呼称は「容疑者」です。これは公人であろうと民間人であろうと、実名報道なら、当然です。
ただし、書類送検の場合は、小さな事件が多いので、本来的には、個人名を記すことなく、「会社役員」「司会者」などと肩書きのみを記すべきでしょう。書類送検事案において、個人名を出して報じる場合は、名前自体がニュースである場合、および知名度は低いが肩書き自体にバリューがある場合、の2つに限られるべきだと思います。
日本で不幸なのは、「容疑者」という呼称をつけても、事実上、被疑者は「犯人」だとして報じられてしまうことが多いことにあります。集中豪雨的な犯罪報道によって、容疑者=犯人というイメージが出来上がってしまう。「容疑者は法的立場を示す言葉」という共通認識が希薄なことが最大の問題なのです。かつて、容疑者が呼び捨てだった時代と、犯罪報道の構造と心情はなんら変わっていないのです。容疑者を血祭りに上げ、被害者のプライバシーを興味本位で暴き立てる。挙句、判決の際は判決理由で「報道により社会的制裁を受けている」などと言われてしまう。報道は社会的制裁(=私的制裁、つまりリンチ)機関なのか?
島田紳助さんが書類送検されたなら、ちゃんと島田紳助容疑者と書けばいいと思うのですが。
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