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ニュースの現場で考えること

「豆腐屋の四季」と市民型ジャーナリズム

少し前に書いた私の記事「どう考えても、ネットで言論はフラットにならない」について、スポンタさんがコメントを寄せてくれた。簡単に言えば「絶対的正義などというものは成立しえない」ということである。それは、当然にその通りである。「正義」であれ、「邪悪」であれ、古来、社会通念や道徳等もすべては相対的なものだ。そうした概念に「絶対」が付される社会は、実に気味が悪い。

そんなことを考えていたら、松下竜一氏の著書、「豆腐屋の四季」を思い出した。それがどれほどの著作であるか。例えば、ここのサイトを読んでもらえれば、と思う。その書評にこういう一節がある。

「日々の労働でくたくたになり、あくせく働くことをえんえんと繰り返す人間の生活――私もまた、社会人のひとりとして会社に勤める身であるが、最近つくづく思うのは、仕事以外の時間を見つけ出すことの困難さである。生きるというのは、こんなにも哀しいものなのか、と思う。だが、同時にこうも思うのだ。生きるというのは、こんなにもいとおしいものなのか、と」

この著作の、おぼろげな輪郭は分かってもらえるのではないかと思う。松下氏は、自分が夜中の2時、3時に起きて豆腐を作っていた当時、例えば、そういう人々の日々の生活とは無縁のところで叫ばれていた、学生運動のスローガンを嗤っていた、のだと思う。そこで叫ばれる「正義」にいかほどの意味があるのか、と。

もし、市民型ジャーナリズム(その定義については、ここでは捨象する)が成り立つとすれば、それはこの「豆腐屋の四季」のような内容においてこそ、ではないかと思う。

手前みそで恐縮だが、もう10年以上も前のことになるが、紙面で「しごと・いきる」という連載を始めたことがある。取材前、私自身はスタッズ・ターケルの「仕事!」みたいな、インタビュー集を新聞でやってみたいと思っていた。もちろん、そんな大家の作業にかなうはずはないのだけれど、連載自体は多くの記者の手に引き継がれ、都合、2年以上も続く長寿企画になった。その第一回目に、私はこう書いた。

<日々、仕事に追われ、あるいは仕事に立ち向かう。働くことに費やす時間は、そのまま人生の時間でもある。充実と退屈。追いかける夢と忘れかけた夢、そして、夢が欲しいと思う時。笑顔で自信を語れる日と、うつむいて沈黙する日。さまざまな思いを抱えて、わたしたちは働き続ける。その胸のうちにしまい込んだ、「生きる」ことの喜怒哀楽を伝えたい。>

文章自体は稚拙で恥ずかしい限りだが、このころから抱いている私自身の「視線」のようなものは、今も変わっていない。世の中の大多数の人は(それが賃金労働であれ何であれ)、ずっと働き続ける。一日の大半、人生の大半は、働き続ける。ターケルは、その人々の「群れ」を膨大なインタビューで照射し、現代社会を浮き上がらせようとした。

市民型ジャーナリズムが何か新しいものを生み出すのだとすれば、それは、ネットかブログか紙かYouTubeかといったツールによって完成するものではない。ツールも非常に重要ではあるが、必要なのは、いま既存メディアが伝えていないことをどう伝えるか、にある。そしてそれは、「正義」や「国家」といった概念を、抽象的な言葉を用いてこねくり回すことではなく、豆腐屋の四季が描いたような、足元の世界とそこから見える社会と世界のありようを活写することだと思う。

残念ながら、それは「マス」になりきってしまった既存メディアには、なかなかできない仕事だと感じている。それを達成する可能性が一番高いのは、今も現に一生懸命働いている一人一人が文字や映像で、それを伝えることだと思う。もちろん、日々忙しい人は、その仕事を他人に伝える暇など、なかなかありはしない。そもそも、一般社会に広く「伝える」ことに、価値などを見出してはいないかもしれない。

「ネットで言論がフラットになる」かどうか等々という、私に言わせれば牧歌的な議論の脇では、数は少なくなったとはいえ、きょうもたくさんの豆腐屋で、たくさんの豆腐が作られているのだ。
by masayuki_100 | 2006-09-19 05:13 | ★ ロンドンから ★