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ニュースの現場で考えること

「きっこのブログ」と事情通、一次情報

 何らかの物事に対する「定義」に関する議論を進めていくと、神学論争になりやすい。その際、神学論争を避けるためには、定義づけを行う言葉(=対象となる言葉)をできるだけ、「小さくしていく」しかない、と私は考えている。議論自体をわあわあ楽しむような場合は、そんな小難しいことを言わなくても良いとは思うのだが、少し真面目に議論する場合は、やはり、「大きな言葉は使わない」ことだと思う。

で、少し話は変わる。「新聞はネットを殺すのか」の湯川さんが、「日本のブログジャーナリズムの現状」というエントリで、「ネットの一次情報を基に取材する記者」という小見出しの部分で、ネットと一次情報の関係について触れている。

「ネットには一次情報が無い」という声がある、だいたいはそうかもしれないけれど、一次情報を発しているブログもある、例えば、耐震設計偽造問題では「きっこのブログ」が情報発信源になり、そこから情報を入手して各メディアは取材に走った、、、、そういう趣旨の後で結論部分で< 「きっこの日記」に寄せられる玉石混淆の情報の中から、追加取材で「玉」の情報がどれかを見極めて報じるということがマスコミの役割となった>と締めくくっている。

きっこの日記と一連のマスコミ報道の関係がどうだったのか、私は具体的に承知していないが、まあ、そういうことはあるだろうな、と思う。なぜなら、こういった取材・報道の図式は過去にもたくさん存在していたからだ。

調査報道等は、実は(当たり前の話だが)端緒がすべてである。端緒が無いと、何も始まらない。私が以前、社内向けの冊子で調査報道について書いた際も、最初の項目は「端緒がすべて」だった。かつて、朝日新聞が手掛けたリクルート報道でも、その中心に居た山本博デスク(当時)は、端緒がすべてである旨を著作で記している。

では、ふつう、端緒はどうやって掴めるのか。一つは、俗に言う「内部告発」である。これは、その当人が、ある程度の意志を固めたうえで行われる。匿名の場合も実名の場合もある。手紙や電話、メール等で、それはマスコミ等に届く。

2つめは、記者が直接端緒を掴む場合。政治家や官僚、司法関係者、企業関係者等のもとをグルグルと回りながら、自分で情報を得て、それを掘り下げ、別の関係者に当たり、・・・というスタイルだ。そういう中で「おお」と思う端緒に行き当たる。

3つめは、上記の2番目の変形で、「事情通」と呼ばれる人から端緒を入手するケースだ。調査報道のネタになるような話は、実は、何らかの「儲け話」につながっている場合が多い。誰かが違法・脱法行為で巨万の富を得ようとしていた・・・そんな類である。「富」は、「地位」「名誉」になる場合もある。そういう話はたいていは水面下で行われ、水面上に出ることは少ないのだが、なんと言うか、富を前にすると、「仲間割れ」「ひがみ」みたいなものが出てくるようで、水面下の話はたいてい、そうした隙間から漏れ出てくる。

ところで、世の中には不思議なもので、自分はその「儲け話」の直接の当事者ではないにもかかわらず、そうした「隙間から漏れ出た情報」をたくさん持っている人が結構存在する。言わば、「ウワサの大量保有者」である。ある事件に直接関わった人が持つ情報を「1次情報」とすれば、ウワサの大量保有者が持つ情報は「2次情報」である。たとえ資料を持っていたとしても、そういう人から聞いた情報は、そのままでは使えない。どこかで、「1次情報保有者」に確認を取らねばならない。



ウワサの大量保有者は、ブラック雑誌関係者だったり、企業ゴロだったり、まあ、いろいろである。概して得体の知れない人が多く、情報にはハズレも少なくない。しかし、一方では、そうした人々は「儲け話への便乗」に対し嗅覚が鋭く、彼らの情報サークルの中においては、情報はものすごいスピードで流通している。で、調査報道を行う記者は、どうやって自分をその情報サークルの中に置き、真偽を見極めるかが大きく問われるのだ。得体の知れない人々とも、付き合いができ、しかし一線を画し、情報の程度を冷静に見極めて潜航取材に入って行く・・・。そんな感じである。

「きっこのブログ」に関して言えば、ブログ主が本当にヘアーメイクさんなのか、そうだったとして本当に彼女が書いているのか、そういうことは分からない。ただ、ブログ主が書いてあるように、仮に、彼女が知り合い等から聞いた話を集めているのだとすれば、その位置は従来の「事情通」と同じである。


「事情通」は酒場や薄暗い事務所で、時には「内緒だけどさ」という枕ことば付きの電話で、そうした話を関係者や記者らにささやく。あるいは、大声でしゃべる。「きっこのブログ」は、それをサイバー空間に放り出した。違いは、そこしかない。「事情通」からの話については、当たり前のことだが、「こいつは何の意図を持って私に話しているのか」「バックには誰がいるのか」「もしかしたら大きな落とし穴に嵌められようとしているのではないか」等々の警戒心を解くことは無い。耐震問題の担当記者が「きっこのブログ」に接したとしたら、おそらく、同様だったのではないか。

いわば特殊な情報サークル内で、ある事案の情報が流れる初期段階において、かつては記者も加わった形で一部の人々の間で行われていたヒソヒソ話が、最初から大勢の人々の前にブログを通じてぶちまけられた・・・。今回の件は、そういう様相だったのだろうと思う。もちろん、それはネット時代だからこそ可能になったのだが。ただし、どこまで詳しいか等々の話は別にして、サイバー空間においては、その種の構図は、かなり前から登場していると思う。例えば、論談同友会の「目安箱」はその一つだし、全国的な大ニュースになる数カ月も前に、同種の情報がそこにアップされていた事例もあった。

で、本エントリの結論みたいな話に移るのだが、「きっこのブログ」は湯川さんの言うような「1次情報」ではない、と私は考える(仮に、そのブログの開設主が、耐震設計偽造に直接かかわった人ならば話は別だ)。きっこのブログが「情報ハブになった」という見方も、それが「大勢の人に見える形で行われた」かどうかの話だと思う。各メディアにどのような情報が集まってきたかは、公にされていないから、各メディアがどんな情報ハブだったか・なかったかは検証しようがない。

「マスコミが報じていない事柄=一次情報」ではない。ある事象に直接関わった人や組織が、その当該の事象に関して持っている情報こそが、一次情報なのだ。だから、実は、当事者に都合の悪い1次情報はネットになかなか流れない。1次情報であるかのようにして流れている「事情通が持つのと同じような情報」は、実社会における「事情通」がそうであるように、何らかの意図があると思った方が良いのではないか。身体的な条件反射等は別にして、人間の社会的行動においては、「意図・意志無き行為」は事実上皆無だと、私は思う。記者の仕事は、それぐらい疑い深くてちょうどいいのではないか。

これに関して言えば、韓国のオーマイニュース代表のオ・ヨンホさんの話を以前に聞いたとき、彼が「オーマイニュースの市民記者は匿名を認めていない。全部実名で書いている」と語っていたことを思い出す。「記者」として書く以上、ニュース発信の匿名は認めない、匿名だとニュースの信頼性の最低限の部分が担保できない、という発想だ。

もう一つ別の話だが、私自身は、マスコミの取材のプロセスは、もっとオープンにして良いのではないか、オープンにできる部分があるのではないか、そうした方が報道に対する信頼度が増すのではないかと常々思っている。そして、それを可能にするのがネットではないか、と。そのへんの話は、この本「ブログ・ジャーナリズム~300万人のメディア」でも少し触れているので、関心のある方はぜひどうぞ。
by masayuki_100 | 2005-12-29 13:30 | ■2005 東京発■