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ニュースの現場で考えること

経済的背景によって「人命の価値」は変わる、、、のか??

「署名で書く記者のニュース日記」は共同通信編集委員によるブログである。この手のブログでは古手だと聞いて、閲覧していたら、こんな記述にぶつかった。2004年4月14日の「人質事件のいらだち」。筆者は伊藤圭一氏。少し古いが、「??」と思った後半部分を引用する。(下線をつけたのは私)

 人命は重い。日本には「人命最優先」「人道的見地に立ち」という言葉の前には、どんな議論もはばかられる雰囲気がある。しかし、人命は地域や経済的背景によって「価値」が異なるのも事実だ。世界中の命が平等に扱われているわけではない。事件には「価値の高い日本人」が狙われたという側面も垣間見える。「人の命はどれも大切で平等だ」というぼくらの中の理想と「不平等」な現実とのギャップにもいら立ちの根がある。

世界中で命が平等に扱われているわけではない。それは事実だ。しかし、その前段の・・・しかし、人命は地域や経済的背景によって「価値」が異なるのも事実だとは、どういう意味か。文章は平等か否かを軸につづられているので、この場合の「・・・価値が異なる」は、高い低いの差を指しているようにしか読めないが、そういう発想には、まったく持って、驚いたとしか言いようがない。

30歳の男性で身長も体重も頭脳の程度も同じ人間が仮に2人いたとして、彼らがそれぞれ米国とインドに住んでいたら、どっちの「命の価値」が高いのか? 社長とヒラではどっちの「命の価値」が高いのか? 伊藤さんと私では、どっちの「命の価値」が高いのか?

どんな境遇であっても、人に支えられ、支えて生きているし、だれにもかけがえのない人はいる。「命の価値」とはまさにそういうものではないのか。過失事故などで人が亡くなった場合の逸失利益とか、給与の多寡とか、貧しい国に生まれ育った結果学力が低いとか、そういうものは、その人の「能力」を推し量り評価する尺度のひとつに過ぎないのであって、「命の価値」の軽重とは全然関係ないと思う。それなのに、命の価値が経済的背景や地域によって異なるなどというのは、不遜以外のなにものでもない。これではまるで「社会の役に立たない=経済的戦力になっていない」人間は、命そのものに価値が無い、あるいは低いと言っているのと同じことだ。

こういうことを平気で言える人は、自分は「命の価値を評価する側」「命の価値を算定する側」に位置していると思い込んでいる。そうでなければ、何とかして「評価する側」「算定する側」に就こうとしているのだと思う。「あなたの命の価値は限りなくゼロに近い」などと、誰かから決め付けられる瞬間を想像したことがあるのだろうか。

何度読んでも、そんな風にしか読み取れなかった。
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by masayuki_100 | 2005-01-12 02:37 | ■社会