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ニュースの現場で考えること

「事実を積み重ねる」ということ

ここ数日、「報道の基本は何か」ということを考えている。「調査報道とは何か」とも考える。

今さら言うまでもないことだが、取材とは事実の積み重ねである。集めた事実が正しいかどうか、幾重にもクロスチェックをかける。さらに裏取りをする。ぜい肉をどんどん落とし、さらに肉付けし、、、という地味で地道な作業の繰り返しである。

ポイントは「事実のチェック」である。「評価の集積」ではない。「おれはこう思う」という「思う(=評価)」をいくら積み重ねても、「事実のチェック」には直接関係ない。

たとえば、世の中の矛盾や不条理に苦しんでいる人のところへ話を聞きに行ったとしよう。そこで耳にした話は、なるほどひどい。さあ、その話を書こう・・・だけで良いかどうか。「調査報道」という視点から見れば、それでは足りない。まったく足りない。「ひどい話が本当かどうか」を煮詰めるのが、取材である。「取材したとき、相手は確かに『ひどい』と言いました」という論拠だけは、その記事は成立しない。相手の言ったこと「のみ」に依拠していると失敗する。取材のイロハと言えば、イロハである。

「言ったこと」を客観的事実に置き換えていく。その客観的事実を集める作業が取材だ。例えば−。

原発事故の直後、枝野幸男官房長官は「ただちに影響はありません」と繰り返した。そう言ったこと自体は事実である。しかし、それを書くだけでは足りない。枝野発言の根拠は何か、根拠にしたデータの信頼性はどう担保されているのか、「影響はありません」という発言は独断か協議の結果か、協議なら誰と誰が話したのか、、、そういう事柄をずうっと取材していく。それが基本である。マスメディアはそれすらできなかったから批判されたのだが。

取材の向きや立場がどうであれ、こうした「取材の基本」ができていない記事は失格である。「私は正しいことを報道しているんです!」と言っても、それとこれは関係ない。取材者の立ち位置の問題ではなく、スキルの問題だからだ。

理不尽な目に遭った人、不条理に苦しむ人。そういう人々に寄り添い、その声に耳を傾ける作業は大切だ。マスメディアがそうした行為をほとんどしなくなったからこそ、なおさら重要である。しかし、繰り返しになるが、「善意の取材」であるからと言って、取材の詰めの甘さが免責されるわけではない。それを自身に許していたら、自身は取材者でなく、一種のアジテーターになりかねない。

理不尽な目に遭った人や不条理に苦しむ人と、本当に寄り添うことができていれば、権力側からは嫌われても、そうした当人たちからは感謝されるだろう。私は26年前に新聞社の記者になったばかりとき、先輩から何度もこう言われた。記事を書いたら、記事の出たその朝、書かれた人のところへ行け、と。直接、反応を聞きに行け、と。

私はそれが怖かった。私自身は告発型の大スクープを書いたつもりになっていても、当の内部告発者は本当に「良い記事だった」と言ってくれるのか。それとも「こんな記事にしやがって」と言われるのか、「腰砕け」と罵倒されるのか、「裏切ったな」と言われるのか。でも、書いた直後にそこに行かないと、自分記事の本当の影響力は分からない。それはそれで非常に怖いことだが、行かねばならない。

まず行く。「いかがでしたか」と聞きに行く。時間が無ければ電話する。「反響はどうですか」と聞く。仮にそれができないとしたら、取材者はどこかで何かを大きく間違えている。「正義のためだ」と言って振り上げた拳を支える腕、腕を支える胴体、胴体を支える脚。そのどこかに揺らぎがある。その揺らぎにこそ、権力はつけ込もうとする。そこを突破口にして逆襲は始まる。権力の逆襲は本当にすさまじい。筆舌に尽くしがたいほどの反撃である。

「目的が正しいから」で許される話ではない。スキルの問題なのだ。事実をどう積み重ねたのか、どうクロスチェックしたか、の話なのだ。論拠が「相手がそう言いました」だけでは通用しないのだ。相手が言った内容を「ほかの事実」でどう補強できたか、なのだ。「思う」という評論は補強にならない。そこが本当に理解できているかどうか。そこらへんにも、調査報道を自己点検する際の、大きなポイントがある。

そして。

内部告発者の信頼を失うな、である。何があってもそれを失うな、である。彼ら・彼女らこそを最大限に守らなければならない。間違っても、さらし者にしてはいけない。そうせざるを得ない立場に、追い込んでも行いけない。それができないなら、取材者の看板を下ろすしかない。
by masayuki_100 | 2012-02-25 23:06