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ニュースの現場で考えること

調査報道と「持ち込みネタ」

今月初め、上智大学で開いたシンポジウム「調査報道をどう進めるか」の基調報告で、いわゆる「持ち込みネタ」に関する問題点を指摘した。当日参加できなかった方から「持ち込みネタをやめろという話をしたそうですが、どんな話だったんですか」という照会があった。メモなしで喋っていたので詳細は記憶にないが、趣旨はだいたい、以下のような話である。

(ただし、この話には2つの前提がある。一つは対象を「主たる新聞とテレビ局」に限定していること。雑誌やその他の媒体はまた違う話になる。もう一つは、いわゆる「権力追及型」調査報道に限定していること。調査報道にはいろんな種類があるが、今回は定義付けの場ではないので、そこには言及しない。)

日本の新聞やテレビにおいて、なぜ、調査報道が少ないか。議論の出発点はそこにある。もちろん、調査報道は「相当に少ない」のであって、「ない」ではない。実際、過去には多くの優れた調査報道があった。少し前に出した「権力vs調査報道」(旬報社)も過去の代表的な調査報道の取材プロセスを明らかにした内容であり、これを読めば権力追及型調査報道の重要性や凄みがお分かり頂けると思う。

そうしたタイプの調査報道が少ない理由は多種多様だが、大きな理由の一つは「取材情報の持ち込み」にあるのではないか、と感じている。

ここに権力の不正に関する何らかの端緒情報があったとしよう。記者は情報の質を見極めたうえで、取材に入る。関係者を丹念に取材し、資料を集め、そぎ落とし、肉付けし、さらに関係者に取材する。それを何度も繰り返す。一定程度の期間が過ぎると、当然、「いけそうか、どうか」の分岐点に差し掛かる。「いけそうだ」となると、報道機関が独自取材を続行する−−。これが通常の発想であり、通常の行動だ。しかし、この分岐点では往々にして「そのネタ、サツに事件としてやらせろ」という声がかかる。報道機関の組織内部からである。そして、取材で得た情報の一部か半分か或いは相当部分を警察に提供する。検察や入管、労基署などの場合もある。これがいわゆる「持ち込みネタ」である。

捜査当局が「持ち込みネタ」を立件する場合、強制捜査の着手直前などのタイミングで、情報提供してくれた報道機関にそれを優先的に伝える。「ギブ・アンド・テイク」である。優先的に情報をもらったら「与党幹部に重大疑惑、検察近く強制捜査へ」などという「スクープ」記事となって日の目をみる。

報道界では長らく、こうした形のスクープ(もちろん、カギカッコ付きである)が「鮮やかなスクープ」として幅を利かせてきた。新聞社が独自に不正を報道するよりも、その不正内容を捜査当局が事件にしたケースを一段高く評価する声も多かった。実際、新聞社出身の大学教員が「捜査当局が立件した場合はその報道の価値が高い」という趣旨の論文を書いたケースもある。

取材で得た情報を捜査当局に渡すことは、言うまでもなく重大な問題をはらんでいる。「情報は提供しても情報源は伝えていない」といって済まされることではない。しかし、ここでは、この問題は脇に置く。このエントリでの関心は、「取材力のなさ・劣化と持ち込みネタ」の関係である。

言うまでもなく、記者独自の調査取材は、山を登るにつれてきつくなる。初期は比較的情報も集まりやすいが、五合目、六合目、七合目と進むにつれ、しんどくなる。それは当然だ。記者の取材に強制力はない。種々の手練手管を用いたとしても、平たく言えば、「教えて下さい」というお願いの連続でしかない。だから、最終的な裏取り、確認作業の段階に入るにつれ、取材は困難になる。ネタの持ち込みを実行する段階はおおむね、五合目の前後である。単なるうわさ話程度では、警察も検察も関心を持ってくれない。馬鹿にされる。

しかしながら、こうした行為は取材者側からすれば、独自取材を途中で放り投げることと同義である。一番苦しい部分を自分で取材せず、あとは捜査当局がたどった道をフォローするだけになる。日本の事件事故取材(=検察・警察取材)は、「捜査当局が何を捜査しているか」「誰をいつ逮捕するのか」等々、捜査の動きを追い、それを書くことが主流になっている。その問題点は何度もこのブログで書いたので繰り返さないが、調査報道取材という観点から見れば、持ち込みネタは、「調査報道取材」が「通常の警察・検察取材」に変質することを意味する。

「記事化する際は、当局のお墨付きを得ることが出来る、それで記事の価値が上がる」という独特の価値観も作用している。「高田新聞社の取材によれば」ではなく、「検察によれば」と書く方が確かにリスクは少ない。仮に相手から訴えられたとしても、幾ばくかは責任を当局に押しつけることができるかもしれない。つまり、リスクを取ろうとしないのである。保守化・官僚化がスパイラル的に進む既存報道機関においては、リスク回避の傾向はますます顕著だから、「当局によると」に寄りかかる傾向は、さらに拍車がかかっていくだろう。

ネタを持ち込まなかったとしても、実際に報道する直前、わざわざ捜査当局に記事内容を伝える風習もある。「あす、うちでこんな記事を書きます」「おおすごいな。もっと詳しく教えてくれ」といったやり取りの後、当該記事のリードの末尾などに「ここの事実は警察も把握している模様だ」などと書く。逆に言うと、当局のお墨付きが欲しいから、最後の最後で「ご注進」するのだ。

小沢一郎氏の政治資金疑惑が盛んに報道されていたときにも感じたし、当時、いくつかの関連エントリを書いた(→例えばここ)。日本の「調査報道」は捜査当局の捜査が進んでいるときにこそ、華々しく展開されてきた。捜査当局の捜査と並行して進む「調査報道」など本当の意味での調査報道ではないと思うが、権力の一部分と結託するような形で進む調査報道(それが結果的だったとしても)とは、いったい何なのかと思う。

もしかしたら、「持ち込みネタなどない」「知らない」という警察・検察担当記者がいるかもしれない。そうだとしたら、その記者は新人か、よほどの「世間知らず」だ。それでも「持ち込みなどない」と言い張る記者がいたら、私は断言する。その言葉はウソだ。

私にもネタ持ち込みの経験はある。私の同僚もかつて、鈴木宗男氏の事件に関して、東京地検特捜部から「ネタはないか」と「協力」を求められたことがある。他社の持ち込み実例も知っている。そのへんのことは「権力vs調査報道」に少しだけ書いたが、例えば、事件取材が長かったあるジャーナリストも「リクルート事件以降、東京地検特捜部が手掛けた事件の半分くらいは大メディアの持ち込みネタではないか」と話していた。彼の実感は大きく外れてはいないと思う。そして、そうした「ギブ・アンド・テイク」の関係は全国津々浦々、いろんなレベルのところで築かれていると思う。

日本の報道界は長らく、本当に長すぎるほど長らく、捜査当局と一心同体になって、ペンを持ったお巡りさんとして機能してきた。捜査情報を取ることができ、「あす逮捕へ」を早く書く記者こそが優秀とされてきた。一部の例外はあるにしても、太宗は間違いなくその流れの中にあったし、今もある。、新聞社の多くは、新人を必ず一度は一定期間、警察担当にぶち込んできた。そして、捜査当局をはじめ、あちこちの権力と二人三脚で歩むことを習い性にしてきた結果、それを是とする文化、さらには人事考課の基準を組織内に抱え込んでしまった。もちろん、ここでいう「当局」は警察や検察だけでなく、中央省庁や大企業などすべてに当てはまる。

調査報道の重要性については、ここで繰り返すまでもない。そして端緒情報はたくさん転がっている。だったら、それを自社の努力で取材すればいいだけの話ではないか。取材に公式はないから、山あり谷ありの連続だが、取材力の養成という観点からしても、道はそれしかない。既存メディアが調査報道に「本気で」舵を切ろうとするなら、まずはネタの持ち込みを全面的に禁止し、捜査当局との関係を変え、それをあらゆる取材分野・取材部署に広げるしかないだろうと思う。ただ、何十年もかかって築いてしまった組織文化はそうそう簡単に変わりはしないのだから、ある報道機関がこの先、全社的に調査報道に傾斜するなどというのは、すでに幻想かもしれない。可能性があるとしたら、比較的組織の小さな報道機関か、まったく新しい報道会社か、それくらいだろうと思う。
by masayuki_100 | 2011-12-17 18:58 | ■2011年7月~