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ニュースの現場で考えること

報道をどう変えるか(1) 問題は「本記」にある

あまりにも当たり前すぎて、ふだんは不思議に思わないことがある。「新聞はニュースを報じる」。これもその一つだ。ニュースを報じない新聞は新聞ではない。実にその通りだ。しかし、「新聞はニュースに縛られている」のも事実である。これはどういう意味か。先日、東京・文京のシビックセンターで月刊誌「創」のシンポジウムがあって、そこでも同じことを言った。うまく説明できたかどうか、自信がないので、ここに書き残して、再度きちんと説明しておこうと思う。

「ニュースとは何か」という、大学の講義みたいな話になってしまうが、少しお付き合い願いたい。

ニュースの基本は「出来事」を追うことだ。戦争や政局、事件・事故、株価の動向、企業の新製品。これらは、すべて「出来事」である。出来事であるからニュースになる。「出来事」とは、簡単に言えば、「動き」のことだ。逆に言えば、「動き」のないものはニュースになりにくい。

最近、「新聞は原発反対のことをずっと書いてこなかった」「原発の危険性を訴えてこなかった」と批判されている。私に言わせると、前者は誤解、後者は正解である。

図書館で古い縮刷版を紐解く機会があれば、ぜひ、眺めて欲しい。全国各地で原発反対運動が盛り上がっていた1970年代、80年代、新聞はそれなりに反対運動のことを報じていた。もちろん、報道内容に濃淡はある。媒体によって差もある。読者の立ち位置によって、報道内容への評価も分かれよう。しかし、「反対運動を報じて来なかった」は誤りだ。公聴会が大荒れになったとか、反対派が集会を開いたとか、それなりの報道は続いていた。それが80年代の後半ごろから、ぴたりと止んだ。なぜか。答えは簡単だ。原発が出来て、稼働を始め、反対運動がしぼんで来たからだ。原発が既成事実になって、反対運動の「動き」が小さくなってきたからだ。

そうなると、次に来る原発関連の大きなニュースは何か。電力会社が次ぎに何を行うか、を追うことだ。原発の増設、新規計画の動向、プルサーマル計画の進捗。そういった「動き」がニュースになる。新聞社では、「反対運動」の取材主体は、たいていが社会部であり、「電力会社」の取材主体は経済部だ。反対運動の縮小に伴い、社会部の担当記者はいなくなったり、配置換えになったり、「反対運動担当」という役割が消えたりした。しかし、原発計画は進むから、それを追いかける電力会社担当記者は残った。そういう構造の下で、1990年代以降の原発報道は進んだ。

「原発の危険性を報じる」はある意味、日々のニュースを追うことではない。掘り下げる価値と必要性は十分にある。しかし、目立った「動き」はない。そこに隘路がある。

新聞のニュース原稿には「本記」「解説」「サイド・雑観」といった種別がある。

「本記」とは、出来事の骨格を書いた記事を指す。いつ、だれが、どこで、何を、なぜ、どのように。5W1Hの要素を盛り込んだ、基本的な記事である。「解説」はその出来事が持つ意味を文字通り解説する記事を指す。記者の考えが入るケースもある。「雑観」はその現場の様子などを描く記事であり、社会面用として使用されることが多い。
 
新聞社の外勤記者は、その多くが記者クラブに所属し、各記者は担当部署の「動き」を「本記」を書く。それが報道の全ての始まりだ。批判が集まっている「発表報道」にしても、多くは「本記」として立ち現れる。すなわち、「本記」がないと、そのほかの記事はなかなか展開しにくい。そういう構造になっている。雑誌的な長文のルポはそもそもが現代の新聞からは排除されているが、仮に書いたとしても、「本記」が全くないところでは書きにくい。

新聞は「本記がすべて」である。しかしながら、「本記」は「動き」や「出来事」に縛られている。だから、種々の問題が発生する。

新聞社は組織であるから、「分業」である。社員は「特定の取材部門に配置」されている。「担当」を持っている。「担当」とは多くの場合、特定の記者クラブに所属すること同義だ。全国紙は記者の過半が東京に集中し、かつ、中央省庁や政党、大企業などに偏重して配置されている。社員記者は企業人である以上、働かねばならない。社員記者が働くということは、「配置先」の「動き」を追うことを意味する。結果として何が生まれるか。「東京発・中央発ニュース」の大量生産、「記者を配置した分野・役所などに限定されたニュース」の大量生産である。

従って、記者を配置してない分野の「本記」は、なかなか紙面に登場しない。私がよく使う例だが、戸別の事件事故はよく紙面に載る。その一方、山のように存在する労働紛争は滅多に紙面に載らない。理由は一つではないが、警察には記者クラブがあって多数の記者を配置しているのに、労働基準監督局・書には記者クラブがなく、記者をほとんど常駐させていない。それも大きな理由である(労基署に記者クラブをつくれと言っているわけではない)。しかも、この記者クラブの配置、その人数などは戦後ずっと大きくは変わっていない。

一方、日本の大メディアには、市民団体やNGOの担当記者はほとんどいない。いても数人であり、兼任がほとんどだ。乱暴な例だが、「原子力情報資料室」「グリーンピース」の専属の担当記者はいない。彼らもたくさんの「発表」を行っているが、担当記者が事実上いないから、記者を重点配置した中央省庁の「発表」だけが大メディアを通じて流れていく。「発表」というスタイルは同じでも、扱いは雲泥の差がある。市民団体と政府機構では役割が違うから、これは当たり前かもしれない。当たり前かもしれないが、そういう構造になっているということは、報道会社自身がきちんと認識しておく必要がある。

また全国紙の大半は、取材者の多くを東京に配置している。全国に取材網があると言っても、地方はあくまで地方であり、「出先」だ。ニュースの価値判断を含め、すべては「東京本社」(一部は大阪など)が決する。「情報発信の過度の東京一極集中」「東京目線・中央目線」の横行である。よほどの問題としてクローズアップされない限り、地方のニュースは地方のニュースとして扱われる。

例えば、米軍基地問題にしても地元紙はずっと報道を続けてきた。玄海原発の話は佐賀新聞がしつこく報道していた。六ヶ所村問題は東奥日報が長く追いかけている。しかし、全国紙は「地方の問題」だとして、地方版に押し込めたり、報道しなかったり、小さくしか扱わなかったりした。ネットが発達してもこの構造は変わっていない。「本記」は全国紙や通信社など「東京目線」による偏重が今なお、続いているのだ。

話を戻す。「本記」を軸にニュースは回る。メディア同士の激しい競争は、すべて「本記」をめぐる競争だ。しかも、上述したような、限定された条件下で、それは行われる。そうした「本記競争」において、取材者は常に他紙の動向を気に掛ける。読者の要請とはあまり関係のないことであっても、
「本記競争」に敗れると、「ダメ記者」の烙印を押されかねない。会社員として、これは相当の痛手である。何しろ、新聞社の昇進や給与制度は公務員とそっくりだ。「●●級・●●号俸」という仕組みが多くの会社で存在している。「年功序列」が依然、幅をきかせている。

ネットが発達して、ニュースには種々の批判が加えられるようになった。批判は重要である。だれもが自由に意見を言う「多様性の確保」こそは、民主主義社会の基本中の基本だ。しかし、ニュースに対する批判・評論は、あくまで「評論」である。あるいは、既報ニュースの検証(それも絶対必要だ)に止まり、「1・5報」の域を出ていない。

「報道を変える」を軸に考えると、世の中が「本記」を軸に回っている現状がある以上、問題は「本記」をどう変えるか、に収斂する。調査報道による新たな事実の発掘は、それ自体が「本記」である。一つは、そうした調査報道を増やすこと。そのためには取材体制の見直し、人事考課の再考なども必要だろう。とは言っても、調査報道もそうそう毎日、紙面を飾るわけではない。

非常に限定された範疇でしか出てこない、しかし、日々溢れかえっている「本記」をどう変えるか。それが決定的に重要だ。では、具体的にどうするか。すぐに実行できること、時間が掛かること、報道会社の組織を見直さなければ出来ないこと。段階はいろいろある。それは追って、また別の機会に記したい。
Commented by 佐藤 at 2011-09-18 21:24 x
興味深い記事をありがとうございます。ProPublicaが「現代はオピニオンが反乱し、事実が圧倒的に不足している」と言っているのと重なって読みました。「本記」が特定の分野に集中してしまうというのは、調査報道ができる人材が減っている、減らされているということでもあるのでしょうか。
Commented by Piichan at 2011-09-25 11:11 x
全国紙は通信社をもっとつかってクラブへの常駐記者をへらす、記者が担当外のニュースを発表する機会をふやすことが改善案だとおもいます。
by masayuki_100 | 2011-09-17 14:24 | ■2011年7月~ | Comments(2)