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ニュースの現場で考えること

右も左も発表報道 上も下も発表報道

9月1日午前、札幌は快晴。夏に逆戻りしたような陽気になった。朝早くに知人からの電話があって目が覚め、そのとき、「ツイッターにこんな話が出ているよ」と教えてもらった。 Takashiさんという方のつぶやきである。

@Tyrant_of_Japan 【北電やらせメール】道新の報道姿勢がやはり気に入らない。元々共産党の調査により発覚した問題に乗っかっただけで、道新は調査するどころか藤原さんの内部告発さえ扱おうとしなかった。高田昌幸さんの言う通りただの発表報道に過ぎない。本来あるべき調査報道はもはや望むのは酷か… #泊原発

「発表報道」とは何か。それを説明しようとしたら、1冊の本ができるだろう。それほど根深い。私なりに簡単にまとめると、いくつかに集約される。

まずは、発表のタイミング=時期が、当局側の都合で左右されることだ。当局・権力者らによる発表のキモは「発表したいものを、発表したい時に、発表したいように発表する」である。仮の話ではあるが、民主党の代表選が行われていた8月末、突如、大相撲の新たな八百長が発覚したとの「発表」があったら、どうなるか。極端な例は、当局によるスピン・コントロールだ。懸命な読者はお分かりのように、日本でも「スピンではないか」という事例は最近急増している。しかし、誇張や隠し事があるにしても、「発表」内容自体に嘘はないとすれば、どうなるか。

発表が発表である以上、(一部の報道会社がボス交渉によって相手当局に発表時期をずらしてもらう例などがあるにしても)発表のタイミングは報道側で左右できない。発表は速報を伴う。今の日本の報道会社のように「速報」と「報道」が未分化であって、かつ、他社記事の引用を極端に排除する風土の中では、つまらぬ発表ものもすべて自社の記者によって処理される。しかもネットのあちこちで「速報」されているから、記者にとって「速報」は至上命題である。余裕ある陣容を抱えた部署は別だが、たいていの記者は1人でネット用の「速報」も新聞向けの「ニュース本記」も、場合によっては「解説」も書かねばならない。

1990年前後、日本経済新聞社が「産業新聞」「流通新聞」「金融新聞」など新媒体を次々に創刊した時代があった。そのころ、日経の友人記者たちは1つのネタを本紙に書いて、「産業」に書いて‥‥という作業を続けていた。飲み会にいつも遅れてくる日経の友人たちには「そんなことしてたら、記事の中身が薄くなるだけだろ」と言っていたけれど、その大波がネット時代になって各社に襲ってきたわけである。

今の時代、他社がどう報じているかは、詳細は別にして、ネットですぐわかる。速報とはいえ、他社の記事をまったく考慮しない記者などいないと思う。おまけに本社や記者クラブには「早く取材メモを寄越せ」と言うデスクやキャップがいる。彼らもネットの速報を見ているし、部下の報告によって早く発表の全容が知りたい‥‥。そういう循環である。

そんな状態になっても「競争」はある。非常に狭い範囲での、業界内での自己満足的な「競争」でしかないが。発表の舞台は主に「記者クラブ」であるから、競争は主に、記者クラブでの発表を軸にして回る。

事件事故の警察発表を例にとれば、発表されていない仔細な出来事を巡って各社が熾烈な夜回り・朝回り取材を続ける。大げさではなく、肉体も精神もすり減るような、きつい労働が続く。そうした取材を一様に否定することはできない。権力の奥深くに日常的に刺さり込んでいなければ、その構造や不正・腐敗も具体的には何も分かりはしない。小さなレンガを積み重ねるような取材を経ずして、「事実をもって権力に疑義を唱える」調査報道などできない。その作業を経ずして権力悪を言い立てるのは単なる評論である(評論は自由にすべきだが、ここの本題ではない)。

しかし、現実には熾烈な取材合戦で求められている成果といえば、それは概して「発表に付随する些細な事柄」でしかないことが多い。「発表の補足」と言い換えても良い。例えば、「凶器はナイフだったか包丁だったか」という程度の競争である。もちろん「ナイフか包丁か」の差が決定的な意味を持つこともあるが、いずれにしろ、日常の大きな枠組みの中では、取材の向きが当局と同じ方角を向いている。簡単に言えば、二人三脚であり。各社の激しい競争も「当局との二人三脚」の枠組みを出ていないケースが多い。戦前の大本営発表時代も、各社間ではそれなりに競争があったのと同じである。

発表はまた、「壮大なるパターン化」を生む。例えば、ある経済統計の発表が数時間後に迫っているとしよう。私も若い経済部時代に経験があることだが、その場合、不慣れな記者はどうするか。前回の発表記事を参照する。数字が悪化したケースと、好転したケース。その両方に目を通す。そして記事のパターン(たいていは定型である)を頭に叩き込む。「パターン化」は「前例踏襲」と同義であるから、これからはみ出したものには、即応できなくなる。パターン化が最も通じない取材は災害・大事故である(事件報道はパターナリズムである)。

発表報道が深化・進化すれば、取材する側では、発表報道に沿った組織体制・組織運営・人事考課などがその組織の文化になる。何しろ、戦前の新聞統制以来、1970−80年代の一時期の一部事例を除いて、日本の新聞は大半が発表報道で埋まってきた。今や8−9割が発表報道と言っても過言ではあるまい(今朝の朝日新聞一面「こども150人過剰被曝 甲府の病院」のような記事は、ごく稀にしか登場しない)。できあがった組織の本当の恐ろしさとは、仕事の仕組みが出来上がってしまい、あらたなことを手がけずとも、とりあえずは社員たちがメシが食えることだと思う。そうした組織文化の下では、例えば福島原発事故のような火急・喫緊の取材についても、「あいつはサブキャップだから」「なんで官邸取材に社会部が来るのか」とか、およそどうでもいい理屈で動いたり、動かなかったりしているはずだ。

長くなったが、そうした組織文化の病理の一つが、冒頭で紹介した@Tyrant_of_Japanさんの言葉に書かれている。

北電のやらせメールは日本共産党北海道委員会の「発表」である。私がみる限り、北海道新聞にも朝日新聞にもそれ以上の内容を持つ記事は出ていない。あれこれの記事は出てはいるが、それは記者(=報道会社)が自己の責任において事実を新たに掘り起こした記事ではなく、やらせ発覚についての関係者の感想を集めた「感想文集」程度の記事でしかない。あとは「どうなるプルサーマル」などといった20年前の政局記事と同じような記事しかない。「どうなる‥‥」という記事は、書くものを持たない記者が無理矢理書いた作文がたいはんだ。見出しを見ただけで結論が分かってしまう、極度のパターン化記事である。

そして(これも結構問題なのだが)、権力と対峙している組織や人の「発表」を報じることで、自分は権力監視の役割を果たしたと勘違いしている記者がいる。もちろん、「発表」であったとしても、権力・当局とは逆の見方であれば、どんどん報じた方が良い。例えば原発問題では、NGOや市民団体が独自に放射線量を測定して「発表」しているが、それらももっと報道すべきだと思う。しかし、発表は発表でしかない。「発表取材」という取材の態様・構造・仕組みから考えれば、当局発表も共産党発表も同じである。
by masayuki_100 | 2011-09-01 12:14 | ■2011年7月~ | Comments(0)