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ニュースの現場で考えること

原発事故報道の裏で進むメディアの「選別」

 4月上旬の平日、午前中のことだった。旅先のホテルで何となくテレビを付けっぱなしにしていた。正確な日にちや時間は覚えていない。ニュース・ショーだったことは間違いないが、どの局のどの番組だったかの記憶も曖昧である。それを語った人の名前も忘れた。しかし、その瞬間の、画面に向かって思わず、「そりゃないだろ」と叫び出したくなるような感覚は、今も忘れない。福島第一原発の事故現場の地図か何かを背景に、画面のアナウンサーだかキャスターだかは、おおむね、こういう趣旨のことを語ったのである。

「(原発事故の状況について)福島の現地対策本部と東京の東電本社、保安院では、それぞれ言う内容が違う。本当に困る。どれが本当なのか、国民は分からない。政府は、発表を一本化してきちんと対応すべきじゃないか。早くひとつにまとめて下さい」

 まったく、何を言っているのか、である。報道機関であるなら、「発表内容がなぜ違うのか」の要因や背景を取材し、そこに隠された何かがあるならそれを追及し、そして広く伝えることが当然の姿勢ではないか。仮に意図的な隠し事がなかったとしても、東電や保安院では立場が違うのだから、発表内容に多少の違いが生じたとしても、何ら不思議なことではない。

 だから、「事実をとことん調べる」という報道の初歩的大原則に立てば、発表の食い違いは、取材の大きなきっかけになる。敢えて言えば、歓迎すべきことでもある。

 それなのに「発表を一本化してくれ」と頼む。原発事故を起こした電力会社と、その監督に当たるはずの保安院に対し、「一緒にやれ」と頼む。これはもう、私の理解をはるかに超えていた。

 そして、その嫌な感じは現実のものになった。時事通信の配信によると、ことの概要はこうだ。(以下、ネット記事引用)

■記者会見、25日から一本化=東電、保安院など-福島第1原発事故

 福島第1原発事故で、政府と東京電力の事故対策統合本部は23日、東電本社と経済産業省原子力安全・保安院、原子力安全委員会が別々に行っている記者会見を25日から一本化すると正式に発表した。毎日午後5時をめどに東電本社で行う。説明の食い違い解消が目的という。
 会見には同本部事務局長の細野豪志首相補佐官も出席。記者は事前登録制となる。東電によると会見にはフリージャーナリストも参加可能だが、参加の可否は保安院が審査するといい、批判の声が出そうだ。
 保安院の西山英彦審議官は参加記者に条件を付ける理由について、「メディアにふさわしい方に聞いていただきたいと考えている」と説明した。(引用終わり)

 政府・当局が「ふさわしい」メディアを選別するのだという。閉鎖的な記者クラブ制度の下では、選別する側がだれであるかは別にして、常日頃から事実上、メディア選別は行われている。選別自体は何も、今に始まったことではない。それでも時々、このような形での「特別な」選別も起きる。

 少々古い話だが、2005年春には在沖縄米軍によるメディア選別という事例があった。その経緯と感じたことは、<米海兵隊によるメディアの「選別」>と題する私のブログの古いエントリーにも記している。

 そのときも「公正でバランスの取れた報道を提供してきたと評価される報道機関」を選んだのは、海兵隊である。選ばれたのは共同通信、読売新聞、産経新聞、NHK、琉球放送だったそうだ。

 権力側のお眼鏡にかなった報道内容とは、いったい何か。選ばれた側が、選ばれたことをどう感じたかは判然としないが、そのような「感想」はどうであれ、選別行為そのものが極めて大きな問題を孕んでいる。そのことに気が付かぬ、気が付いていても抗議や改善への具体的行動を起こさないメディアは「報道機関」を名乗るべきではない。

 最近刊行された「敗戦以後」(リーダーズノート新書)という本がある。著者の藤田信勝氏(故人)は第2次世界大戦の敗戦時、毎日新聞の記者だった。敗戦前後に藤田氏が書いて日記を復刊したのが、本書である。

 戦争遂行の当局に寄り添った報道を続けた挙げ句、広島に原爆が投下された。本書はその後の、1945年8月10日の日記から始まる。時代の制約はあるが、文章の随所に、破滅を導いた一員としての苦悩が滲み出てくる。例えば、こんな風に、だ。(引用文のカッコ内は筆者が補足した)

(原爆投下後、政府・軍内部は徹底抗戦すべきとの意見だけでなく、少しでも有利な条件で降伏せよとの意見が出ている)「新聞の何れかの態度を決せざるを得ない時期が来るだろう。社内の大勢は和平論に傾いている。しかし出来上がった新聞は、徹底抗戦を叫び続けている信念の裏付けのない空疎な文字が並んでいる」(8月10日)。

「こういう大変動期になると、新聞は全く激浪の中の木の葉のように、無力だ。すでに今日まで、新聞紙面にいわゆる(徹底抗戦に向けて何をすべきかという政府の考えを国民に伝える)指導記事が氾濫すればするほど、新聞は国民から離れ、新聞の指導力はなくなっていった。......今や真実を書くことのおそるべき結果について、新聞人自体が自信を持ち得ない」(8月11日)

「最後の日がついに来た。......(深夜、ポツダム宣言が送信されてくることになっていたが、それを紙面に組む担当者以外は社内でお祭り騒ぎになった)酒とビールが興奮をあおっている。3階の客室でH,S,Nなど社会部の同僚がやはりビールと酒で興奮していた。僕も酔っぱらったSに無理矢理、中に入れさせられた。(その間も戦火が続いている場所はあるかもしれないのに)『戦争が済んだんだ!』『最後の夜! 歴史的な夜! OK!』。興奮と怒号。それから軍歌の合唱...」(8月14日)

「...戦争中、われわれ(=新聞)は完全に指導力を失った。国民の胸に何の共感も呼び起こさぬ御説教を余りにも多く、くりかえしてきた。だのに、(敗戦後も)紙面は相変わらず御説教の氾濫だ。...これからの新聞は指導者の側からばかりでなく、大衆の立場からもっともっと物を言わねばならない...」(8月18日)

「(新聞が物資の闇値を書くと、物価を吊り上げるとの非難があるが、自分はそうは思わない)...戦争中に新聞が国民の信頼を失った最大の原因は真実を書かなかったことだ。敗戦をひたかくしにかくして、負けた戦争も勝ったように書いた。その結果はどうだったか。新聞に伝えられる公式のニュースのほかに、とうとうとして闇のニュースが国民の耳から耳へと流れていった」(12月10日)

 引用はこのへんにしておく。

 東電と保安院、原子力安全委員会による会見の一本化については、さすがに大手メディアの中からも懸念が相次いだようだ。東京新聞はこれを報じた記事の中で、「...事業者と規制官庁が同席する会見は異例で、事前に擦り合わせをし、情報隠しや情報操作をする恐れがある。説明の食い違いから判明する事実もあるが、その機会が奪われる可能性もある。二十二日夜の保安院の会見では、報道陣から『立場が違う三者が同じ席で説明するのは妥当か?』『事前に擦り合わせるのか』『癒着を疑問視されるのでは』などの質問が相次いだ」と書いている。

 さらにこの間、総務省はインターネット上の流言飛語を取り締まる目的を持って、インターネット事業者に対し、流言飛語があった場合、削除要請を行うとの方針を決めた。流言飛語か否かを判断するのは、もちろん、当局である。情報統制、検閲の見本のような話だ。
 
 上記の藤田氏が敗戦前後の思いを日記帳に書き綴っていた数年前、日本の報道界は、政府・軍部による進んで迎合した。新聞統制令によって、群雄割拠だった地方新聞社が都道府県単位で強制統合され、「一県一紙体制」になることは、新聞社の経営安定につながるとして、各社は基本的に喜んでそれを受け容れた。記者クラブ制度は、事実上、政府・当局の手で再編・強化され、記者は政府への登録制になった。排除された記者も出た。

 軍担当の記者は軍服を着て取材にあたり、士官待遇を受けたという。政府・軍部による発表は件数が激増し、各社はそれを「正確に」伝えることにしのぎを削った。やがて敗色濃厚となって、朝日新聞から政府の情報局総裁に転じた緒方竹虎が「記者諸君はもっと自由に書いていい」旨を言った時、記者たちは「それは困る。どこまで書いていいかを示して欲しい」旨を要望している。

 藤田氏の慟哭は、そうした出来事の積み重ねの結果でもあったと思う。報道をめぐる、わずか半世紀少々前のこれらの出来事は、決して消すことができぬ歴史的事実として、報道関係者は今も将来も、胸に深く刻み込んでおくべきではないか。それが、「歴史から学ぶ」ということではないか。
by masayuki_100 | 2011-04-28 00:34