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ニュースの現場で考えること

逮捕記事を書いた記者が判決記事を書くのが、本来の姿では?

松本サリン事件での集団的大誤報などが、なぜ起きるのか。事件報道でとくに顕著であるが、常軌を逸した集中豪雨報道は、なぜ無くならないのか。「悪者」を作り出し、当局と一緒になってバッシングする報道が、どうして続くのか。こうした問題は、古くから指摘されているのに、なかなか改善されない。いったい、これは何なんだろうね、という議論を最近、メディア関係者と飲みながら交わした。

毎度のことながら、「これ」という結論があるわけではない。それでも、いくつかのポイントは見えているように思う。

新聞社や放送局の取材現場は、かなりの部分が細分化され、かつ縦割りになっている。政治部は「官邸」「与党」「野党」「省庁」などに分かれ、経済部は「財務省」「日銀」「東証」「経産省」「東商」などに分かれ……という具合である。世の中が大激変を繰り返しているのに、こうした取材態勢は、各社とも実はそんなに変化していない。

この何年かの間には、各社とも、例えば、社会保障や福祉を扱う「部」を作ったり、政治部の名前を消したりと、そこそこの衣替えは実施している。しかし、ちょっと前の記事「事件報道自体の量的抑制が必要だ」でも触れたが、記者クラブの配置、各社ごとのクラブへの記者の配置人数等は、この何十年か、大きな変化はほとんどない。だから、報道各社が組織を多少改変したとしても、「情報の吸い込み口」は旧来型のままなのだ。

先だって、ある大学に招かれて講義した際、私はそんな状況を、「雨降り」に例えた。あんまり上手な例えではなかったが、つまり、こういうことだ。

社会全体を大きな教室だとしよう。いま、天井からは雨が降っている。雨は気象現象だから、豪雨になることもあれば、小雨のときもある。強風を伴うこともあれば、風のない雨も降る。窓際だけが雨のときも、教室の後ろだけが雨の時もある。しかし、その雨を受ける漏斗は、位置も大きさもほとんど変わっていない。何十年か前、一番雨の多い場所に、それに見合った大きさの漏斗を設置したけれど、いまもそのままである。最近になって、漏斗と繋がったホースは、あっちをこっちへ繋いだり、こっちをあっちへ繋げてみたりと多少いじってはみたものの、漏斗はやっぱり、そのままである。しかも、漏斗の管理人は天井を向いたままで、足下にどれだけ水が溜まったか、床の水流がどう変化しているかに、ほとんど関心を払っていない…。

雨は情報、漏斗は記者クラブとそこに所属する記者、ホースは報道各社の組織、足下の水流は読者である。

事件報道に話を戻せば、ここも同じようなものだ。事件を扱う「社会部」は、多少の組織改革等はあったとしても、昔も今も警察に人員を多数配置している。それに対し、裁判担当はいかにも少ない。記者の人員が少ない地方紙では、警察担当記者が裁判担当を兼ねている例も多い。しかし、全国紙や通信社になると、警察担当は警察担当、裁判担当は裁判担当だ。人数の比率は、8:2 程度だと思う。7:3くらいの社もあるかもしれないが、5:5は聞いたことがない。

すると、どうなるか。警察担当は事件の発生から検察への送致までしか取材を担当しない、という形が出来上がる。検察担当が独立している場合は、その担当は起訴まで、である。刑事裁判の担当は、ちゃんと、別に裁判担当がいるからだ。このブログの、やはり少し前の記事「続・リークと守秘義務」の中で、私は<捜査段階のリーク情報によって「A容疑者は、これこれだったという」といった記事を書いてはみたものの、起訴状や冒頭陳述はおろか、証拠採用された調書にすら、その片鱗も出てこない……。こんな経験をした記者も少なくないはずだ。>と書いた。しかし、これは正確な表現ではなかったかもしれない。なぜなら、こうしたことを経験するよりも、警察担当として報道した事件について、当の記者がその刑事裁判を引き続き取材する例は、そんなに多くないからだ。よほどの大事件とか、あるいは何か別の事情があるとか、そんな時には、取材の手足が足りないから、警察担当記者が公判取材に出向くこともある。しかし、それはあくまで、「例外」である。

事件報道の現場だけではないが、結局、既存大手メディアにおいては、取材が「テーマ主義」になっていないのだ。そして、その原因は、上記の「雨降り」の例え話で示した通りである。取材現場が「テーマ主義」を貫くことが可能な組織形態になっていれば、例えば、米軍普天間飛行場の移設問題で云えば、それに関心を持つ記者は、首相官邸から外務省、防衛省、米大使館、沖縄の関係自治体などを縦横に取材し、自らの目を通して、この問題の焦点は何かをじっくり書くことができるはずだ。しかし、現実はそうではない。首相官邸には首相官邸の、外務省には外務省の、防衛省には防衛省の、それぞれの担当記者がいて、あの問題もこの問題も、右も左も上もしたも、あれやこれやと本当に忙しい取材を、言葉を換えれば、断片的な取材を繰り返している。比較的自由に動ける編集委員のようなポストに就く記者は、そうそう多くない。

で、話は事件報道に戻るが、例えば、冤罪事件において、捜査時・逮捕時・起訴前などの報道に関し、メディア内部から真摯な反省がなかなか出て来ないとしたら、一つはこの「テーマ主義」が貫徹されていないことに原因があるのではないかと思う。逮捕原稿を書いた記者は、その後の裁判の様子を取材していないことが多いのだから、そこに真摯な反省など生まれるはずはない。「社」としては一つのテーマを継続して追っている形はつくれても、記者1人1人に立ち返れば、逮捕原稿やそれに関する続報は、たいていの場合、いわば、書きっぱなしなのである。「テーマ主義」取材の対局とも言える、この「担当部署主義」こそが、事件報道がなかなか切り替わらない、大きな原因の一つだ。

週刊や月刊の雑誌と違い、新聞やテレビは日々のニュースを追う。ただし、それは「担当部署主義」を温存しておく理由にはならないはずなのだ。組織が大きくなれば、転勤や部内移動等もあるから、
「テーマ主義」に基づいて記者が働くのは、難しいのかもしれない。でも、例えば、警察担当者と裁判担当者の比率を5:5にしたら、どうなるか。あるいは、警察担当と裁判担当を一つのグループにまとめ、逮捕原稿を書いた記者は必ず判決も書くような仕組みを作ったらどうか……。答えはもちろん一つではないけれども、もう少し落ち着いた事件報道をするには、そういう地味な改革も必要ではないかと感じている。
by masayuki_100 | 2010-02-15 04:03 | 東京にて 2009