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ニュースの現場で考えること

「小沢疑惑を広めたから特捜部の捜査は価値がある」のか?

ふだんはあまり顧みることもないが、ごくごくたまに、「新聞倫理綱領」に目を通すことがある。新聞協会が創立時につくったもので、現在は2000年6月の改訂版が最新の綱領だ。どういう内容かは、新聞協会のHPのこの頁で閲覧できる。皮肉でも何でもなく、この種の文章は、それ自体は実に美しい。憲法(とくに前文)や世界人権宣言も同様である。そして、だからこそ、その文章の崇高な理念と現実の差異を見せつけられると、表現のしようがないほど、がっくり来ることがある。

新聞倫理綱領はそう長い文章ではない。その中でも、私がとくにアンダーラインを引きたくなるのは、以下のような箇所だろうか。

<国民の「知る権利」は民主主義社会をささえる普遍の原理である。この権利は、言論・表現の自由のもと、高い倫理意識を備え、あらゆる権力から独立したメディアが存在して初めて保障される。>
<……すべての新聞人は、その責務をまっとうするため、また読者との信頼関係をゆるぎないものにするため……>
<新聞は公正な言論のために独立を確保する。あらゆる勢力からの干渉を排するとともに、利用されないよう自戒しなければならない。>

こういう見解や私個人の考え方を下敷きにして、この週末の土曜日、2月5日(金)の朝刊各紙を読み直している。もちろん、関心事は、不起訴という結論が出た小沢一郎民主党幹事長をめぐる政治資金疑惑である。5日朝刊は、いわばこの問題の「総括紙面」であるから、在京各紙は相当に力が入っており、各紙とも社会部長やそれに準ずる方々が署名入りの原稿を書いている。しかし、大きな違和感を抱いた記事も少なくない。これら署名記事には、ネット不掲載のものもあるようだから、私の「感想」も交えながら、記録として残しておこうと思う。

在京6紙(読売、朝日、毎日、日経、産経、東京)のうち、私が一番、あれれれと思ったのは、朝日の「解説」記事である。司法担当編集委員の村山治さんは、朝刊2面右上の「解説」でこう書かれている。(ゴシックは筆者、以下同)

<石川議員の逮捕に踏み切る際、検察幹部たちは「小沢起訴」までいかないと、「捜査の失敗」と多くの国民に受け取られることを覚悟したはずだ。結果は「不起訴」。国民から失敗と評価されることは避けられないだろう。
 最大の原因は、石川議員から見込み通りの供述を得られなかったことだ……(中略)……一方、一連の小沢氏側への捜査では、小沢氏だけを狙った恣意的な捜査だったという批判が生まれた。だが、不起訴は、そうした「思惑」だけで結論を出していないことを裏付けている。検察は昨年3月の西松事件で端緒を得てから証拠を積み重ねる捜査をしてきた。この日の不起訴の結論は、どの事件でも同じの、捜査で得た供述や物的証拠を厳密に評価した結果だ。
 公共事業利権は究極の税金の無駄遣いだ。その利権に政治資金規正法の情報開示義務違反を武器に迫る、という検察のモチーフと捜査手法は、市場化時代の要請であり、国民のニーズにも沿っている。
 捜査は、小沢氏側に巨額の不透明なカネの出入りがあることを国民に知らせた。その価値は正当に評価されるべきだろう。>

 小沢氏は嫌疑不十分で不起訴だった。起訴しても、公判に耐えうる証拠が集まらなかったということだから、百歩譲って「怪しい」と言い続けることはできるのかもしれない。しかし、日本は、当たり前の話だが、法治主義の国だ。とたえ被告人になっても、判決確定までは推定無罪の原則が働くのだ。そして、これも当たり前のことであり、釈迦に説法のようで申し訳ないが、刑事責任と政治責任は、全く次元の違う事柄なのである。そういうことが、朝日新聞の司法担当編集委員に分からないはずがない。
 それなのに、それなのに、である。あらゆる権力から独立すべき新聞が、不起訴に終わった捜査に対して、明確な証拠がなかった事案に対して、その結果の重大性を問わず、そのプロセスを取り出して積極評価するとは、どういうことなのだろうか。「不透明なカネの出入りがあることを国民に知らせた」と。その価値は正当に評価されるべきだろう」とは、どういうことなのだろうか。私には、まったく理解できない。
 検察・警察などの捜査当局は、どの事件をどう捜査するかという点での裁量権がものすごく広い。だからこそ、新聞にとっては「監視対象」であるはずなのだ。それなのに、捜査のプロセスで、疑惑の存在を広めたから価値がある、と論評してしまうのでは、ちょっと待って下さいよ、である。これでは、捜査当局がその裁量権によって捜査した事案は、すべて価値があるというようなものではないか。
 新聞が政治家の資金疑惑を追及するのは当然である。しかし、それは新聞の責任において、新聞の独自の取材において行うべきものであり、捜査が動いたから一緒にやる、捜査が動かなかったら報道しない、といった性質のものではないはずだ。「当局と一緒だから正義の旗をふる」みたいな、ある意味、ヤワなことをやっているから、読者に見放されていくのである。

 産経新聞社会部長の近藤豊和さんは、1面に「ほくそ笑むのはまだ早い」と題する長文の論考を掲げている(これはネットでも読むことが出来る、、、と書き、リンクしようと思ったら、いつの間にか、MSN産経の当該ページはリンク切れでした)。前半から中盤まではともかく、私が異様に感じたのは、末尾部分である。
 
 <……小沢氏の不起訴の観測が一気に拡大した2日夜。小沢氏側関係者たちは早くも「勝利宣言」をあちこちでし始めていた。この日昼、衆院本会議場で鈴木宗男衆院議員とほくそ笑む小沢氏の姿を報道各社のカメラがとらえていた。
 「疑惑の山」への捜査は継続されるだろう。そして、国民の注視もやむことはない。ほくそ笑むのはまだ早い。>

 読む人それぞれに読み方は違うのだろうけれど、私はこの末尾の部分が「捜査当局と一緒になって小沢氏の疑惑を追及していく」という内容に読めてしまった。どうして、捜査当局と一緒になって、あるいはそういう気持ちで、報道を続けるのか。なぜ、もっと捜査当局と距離を置き、捜査自体も突き放しながら眺めることをしないのか、と思う。なんというか、新聞も「正義」を振りかざしたがる存在ではあるけれども、強大な国家権力と二人三脚で「正義」を唱えることの危険性は、戦前の新聞人の行動から十分学んだはずではないのか。
 検察・警察という強大な権力と一緒になって、「悪者」を徹底的に叩く報道のパターンは昔からあるけれども、和歌山カレー事件あたりから一層ひどくなってきたと思う。松本サリン事件で生じた、報道各社による集団的大誤報の反省もなにもあったもではない。犯罪が犯罪であることの証明は、裁判所のみにおいて決着する。そして、当然ながら、捜査も間違うことがある。それらの前提を吹っ飛ばして、「悪者」をつくっていっせいに叩くパターンに、読者・国民は、いっそう疑問の目を投げかけているのだ。

 そうした中で、一番、新聞らしく感じたのは、東京新聞社会部司法キャップ・飯田孝幸さんの1面「解説」記事「検察は国民に説明を 土地購入原資示せず」である(こちらはネットでも読める。リンクも切れていません)。この中で、飯田さんは、こう記されている。

<東京地検特捜部は石川知裕被告ら三人を起訴、小沢一郎民主党幹事長を不起訴として、小沢氏の資金管理団体をめぐる捜査を終結した。特捜部長は「土地購入の原資の隠ぺいを図った犯罪だ」と明言しながら、原資を明示しなかった。事件の核心部分を公表せず、「実質犯だ」と事件の悪質性を強調しても、これでは国民の納得は得られまい。
 ……(中略)…… 特捜部には乗り越えねばならない壁が二つあった。一つは、小沢氏から石川被告らへの虚偽記入の指示などを明らかにすること。もう一つは、虚偽記入しなければならなかった理由を明らかにすることだ。捜査の結果、前者は、小沢氏の明確な指示などを確認できなかった。問題は後者だ。原資にゼネコン資金が含まれていたため虚偽記入したとの特捜部の見立てが、正しかったのかどうか。それがはっきりしない。
 「土地購入費の原資は何だったのか」との大疑問を明らかにすることこそが、今回の捜査の最大の意義だったはずで、国民の関心もこの点にあった。
 刑事訴訟法四七条は、公判前の訴訟関係書類を公表することを禁じている。しかし、特捜部は小沢氏の事務所や複数のゼネコンも捜索した上、国会開会直前に国会議員を逮捕してまで捜査を進めた。
これだけ影響を及ぼした捜査の結果について、刑事訴訟法を盾に口をつぐんだままでいられるはずはない。特捜部にとって有利、不利を問わず、国民に最低限の説明を果たす責務があるはずだ。>

 日経社会部長の平岡啓さんの署名記事、「権力の対立 何を残したか」は、こう書かれている。
 
<…… 税金が政党交付金として政治活動に投じられている今、政治資金規正法の政治家への適用は「形式犯」「微罪」との批判にさらされながら、それでも政治家の不正を暴く重要な手立てとして多くの国民は支持してきた。
 だからこそ「なぜ不起訴なのか」の理由を検察は説明する必要がある。なぜ小沢氏の共謀を立証するのが困難だったのかを明らかにすべきだ。準司法機関である検察は行政機関の一員でもある。政界最大の実力者に配慮して捜査に手心を加えたことはあり得ないことを国民に示すことが、検察への国民の信頼を保つ第一歩だろう。
 今回の捜査では検察OBの間からも検察の「独善性」を指摘する声があがった。政治資金規正法の摘発基準が事件によって恣意的に運用されていないか。強制捜査の時期、対応について議論は十分だったのか。……>

 毎日、読売の両署名記事は、省く。で、決着紙面のごく一部の記事だけで、一連の小沢氏資金疑惑に関する報道を全体的に論ずることはできないけれども、要は、検察当局との距離、いわば新聞の立ち位置はそれぞれにどうだったかは、これらの署名記事に現れていると思う。

 広告や各種事業からの収入もあるけれど、新聞の場合、収入の太宗は購読料である。しかも、月単位・年単位の長期読者たちだ。しかし、現場記者の、あるいは現場記者を指揮する新聞社の編集幹部は、読者からの声を直接聞く機会はそう多くない。今は各社とも読者からの電話を受け付ける部署は、編集とは別の部署に別個に設置されている。読者からの声が記者に届くときは、たいていの新聞社では、それらがすでに簡潔にまとめられた記載となっているはずだ。
 その一方で、記者が日々相対するのは、取材相手である。多くの場合は、当局者であり、当局幹部であり、権力者であり……である。そういう日々の繰り返しの中で、記事の評価を直接耳にする機会が一番多いのも、おそらく、読者ではなく、そうした取材相手である。「キミ、きょうの記事は良かったね」とか、そんな感じである。このあたりのことはなかなかうまく表現できので、また別の機会にゆっくり書こうと思うが、結局、「読者が知りたいこと」と記者の感覚が限りなく離反してしまい、報道現場の思考と行動が、当局へ当局へとなびいてしまっているのだと思う。

 今回の一連の報道では、報道各社は読者・視聴者からその立ち位置、すなわち取材相手との距離感を厳しく問われたのだ。同様に、今回も含めて犯罪報道の立脚点はどこにあるのか、それをどう実践しているのか、も厳しく問われた。読者の疑問に答えるのが、新聞である以上、そうした疑問に頬被りはできないはずだ。そして、犯罪報道・事件報道のありよう自体を、いい加減に見直さないと、また近い将来、読者から同じ疑問をさらに厳しく突きつけられ、新聞は(テレビも)今以上に立ち往生してしまうのではないか、と感じている。
by masayuki_100 | 2010-02-06 17:20 | 東京にて 2009