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ニュースの現場で考えること

レッテル貼りは思考停止

 あちこちのブログを浮遊していたら、有名な「ブログ時評」において、ネット右翼をめぐる議論が盛り上がっていた。
「公論の場を貧しくするネット右翼の病理 [ブログ時評13]」
「ネット右翼的な思考回路は限界~若隠居さんへのお答え」

「ネット右翼」なる層が存在するかどうか、その思考の言動た志向はどういうものか、などが論議の軸になっている。その中で、ブログ時評を主催する団藤さんは、こう書かれている。

 「自分は真ん中。右に見えるのは、あなたが左にいるからでしょう」といった感覚。そして、自分のブログを持たず、コメント欄だけに書き散らしているグループと大集団を作って居心地の良さに納得している。」
「国を誇る、真っ直ぐな思いを貫いている――大集団の光景はスポーツナショナリズムに極めて近い。サッカー・ワールドカップ予選でテレビ中継が始まった瞬間に、ニッポン・ガンバレに切り替わってしまう心情である。どちらも、ナショナリズムが生まれるメカニズムは共通している。日本という共同体の一員として、他の共同体と向き合い、日本国家を意識する場面だ。「マスメディアによる自虐的報道」を非難するスタンスも同じである。」

(公論の場を貧しくするネット右翼の病理 から引用)

こういう議論を目にするたびに、作家・村上龍氏が言っていることを思い出す。「社会がこれだけ複雑になったのに、われわれ、特にメディアはそれを的確に把握する言葉をいまだに持っていない」という趣旨の言葉である。例えば、かつては「弱者」と言えば、それが指し示す人々の集合体をだいたい誰もが理解できた。実際に、そうした層が存在し、それが人々の共通認識になっていたからだ。しかし、かつては「弱者」が指し示した人々の集合体も変容し、複雑になり、同じ言葉であっても、それが指し示す人々は、かつてと今とでは大きく違っている。そんな例は枚挙に暇がない。




「右翼」「左翼」も同じだ。「右翼だから悪い」「左翼だから」式の議論は不毛である。当たり前の話だが、問われるべきは、その主張の中身であって、レッテルの色ではない。「右翼」が問題だというのなら、そのどこが問題なのかをきちんと指摘してこそ、初めて議論は成り立つ。できれば、「右翼」ではなく、「 」内は固有名詞が良い。

 ネットの議論は現状でもマスメディアの水準を凌駕していると豪語する方が多数います。本当でしょうか。そういう質の議論があることは事実ですが、広く一般市民が容易に接することが出来なければ存在しないのと同じです・・・。「私が97年から続けている「インターネットで読み解く!」は、ネット上の知のピークを広く利用可能にする仕事だとも言えます。ちょうどgooやinfoseekが立ち上がった瞬間から検索エンジンを利用してきました。リンクの相互分析を使い、この数年で熟成してきた検索結果が、ブログの隆盛で雑音だらけになりつつあります。(ネット右翼的な思考回路は限界~若隠居さんへのお答え から引用)

だれかが発言する内容を「雑音」と言い切る感覚は、私には理解できない。

ものを書いたり発言したり、そういう言論には体力気力を要するし、割く時間には限界があるから、すべての言論に対応できないことは自明の理だ。しかし、自分が気に入らない、あるいは受容できない言論を「雑音」というのはいかがなものか。

「世論」というものは、たぶん、「雑音」の集積である。雑音が消え、どちらかの方向に一色になっていくことの方が、私は怖い。
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by masayuki_100 | 2005-03-11 02:50 | |--世の中全般